説教のミニ解説 [1] 2017/01/07 ~2017/07/30

 【2017年7月29日/30日】  

「わたしは柔和で謙虚な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに

学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負い

やすく、私の荷は軽いからである。」

マタイによる福音書 11章29節

 

イエスさまは、ファリサイ派、律法学者を批評なさって、「彼らは重い荷物を

くくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本貸そうと

はしない。」と言われています。(マタイ23:4)

このように、当時教えられていた律法や伝承の重圧が「重荷」を言い表して

いましたから、ここでも特にそういう意味での重荷・律法主義的戒律の苦労を

さしていると言えます。

イエスさまは、律法主義的重荷をのせるのでなく、「休ませてあげよう。」と

約束してくださるのです。

 
 【2017年7月15日/16日】  

「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのとき

には、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、

あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」

マタイによる福音書10章19節

 

歴史を見るとき、紀元2世紀から4世紀の初めまで、迫害のたびごとに初

代教会から、無数の殉教者が出ました。また同時に大勢の背教者も出たよう

です。人間は弱いのです。迫害に耐えながら、最後まで、命の限り、他の町

へ逃げて生き延びた者もいたのでしょう。今日の御言葉は、命を守るために

「一時的に逃げることを選ぶ」ことにも主の守りの導きがあると言えます。

16節の「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」と主はわたし

たちに示しています。

 

【2017年7月8日/9日】  

『また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている

のを見て、深く憐れまれた。』

マタイによる福音書9章36節

 

このみ言葉が示すように宣教の直接の動機として、民衆に対するメシアの

深いあわれみがあらわれています。

「打ちひしがれている」とは、牧場の羊が、羊飼いがいなくて、あちこち

の山や谷にさまよい、岩に皮をはがれ、木枝で傷を受けて弱り果てた状態で

す。もしくは、飢えと渇きのために、羊は死んだようになり、倒れているの

です。なんと、つらい、痛ましい状態でしょう。

「深く憐れまれた」とは、「はらわたまで揺り動かされる」という、強烈な

同情心をあらわす言葉です。

 【2017年7月1日/2日】

『イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座ってい

るのを見かけて、「私に従いなさい」と言われた。』

マタイによる福音書9章9節

 

今日の聖書の登場人物、マタイは、「マタイによる福音書」の著者マタイの

ことです。この人は、マルコによる福音書2章14節では、「アルファイの子

レビ」と呼ばれています。

弟子としてのもとの名は、レビであって、弟子入りしてマタイとあだなさ

れるようになったようです。(ちょうど、シモンがペテロと呼ばれたように)

 このマタイは、収税所に座っていました。イエスさまはそこを通りがかり・・。

イエスさまとマタイの出会い、そして出発。マタイは立ち上がります。私た

ちもイエスさまと出会っています。主に従い、立ち上がる時を考えましょう。

 

    【2017年6月24日/25日】  

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を

建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲

っても、倒れなかった。」

マタイによる福音書6章24~25節

 

イエスさまは「聞いて行う」と言われました。ここでは、聞くことと行う

ことは、ひとつとなっています。行い行うだけでない・・、み言葉をしっか

り聞いてそのみ言葉に示されて行うのです。また、聞くだけ、ただただ聞く

だけなら、何も成さないでしょう。私たちは、主にみ言葉を頂き、その愛に

押し出されて行くのです。

基礎が問題です。み言葉の岩の上に建てた家に、嵐が襲ってくる。しかし

その家はビクともしません。そのように信仰生活を主に導いて頂きましょう。

 

   【2017年6月17日/18日】  

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。

だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」

マタイによる福音書6章26節

 

ここに思いわずらわない模範として空の鳥・野の花があげられています。

何を学ぶかというとやはり「無力さ」です。鳥は「種を蒔くことも、刈り入

れも、倉に納めることも」できない。花は「働きもせず、つむぎもしない」・・・

しかし、その姿はどちらも、愛おしく可愛く美しい。

以前、すずめのお話をしました。ひなのために、親鳥は一日300回も餌

を運ぶ。チュンチュンと鳴く「すずめ」という小さな存在も、神の創造の業

のもと、与えられた一日一日を過ごしている。その姿には、無力さの中にも

「神の無限の配慮の内」を生きるけなげさを見ることが出来ます。

   【2017年6月10日/11日】  

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた

山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。」

マタイによる福音書28章16~17節

 

28章の10節で、イエスさまは「がリラヤに行け、そこで私に会えるで

あろう」と言われている。ガリラヤは、弟子たちにとって、故郷である。

だったら、「ガリラヤに帰れ」と言っても良いと思えるが・・。なぜ「行け」

と言われたのか。復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや「帰

る」世界はなく「行く」世界が開けているからだと言える

私たちにとってガリラヤはどこか。それは、復活の主に出会うところ。

どんなに苦難の中にあっても、そこで主に出会い、新しい聖霊の力をいただ

き、前に進むことが出来る。三位一体の姿で、私たち一人一人を恵みの内に

招いてくださる神様に委ねて歩みましょう。

  【2017年5月27日/28日】  

「あなたがたはこれらのことの証人となる。」

             ルカによる福音書 24章48節

 

 本日の聖書の箇所は、ルカ福音書の最後のキリストの言葉です。これはキ

リストの地上の生活全体をまとめていると言ってよいところです。自分の一

生を顧みて、弟子たちに「これに従って生きるように」と言われました。

そしてそれは、今を生きる私たちへの遺言とも言えます。

まず、44節から始まる「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」

これがイエスさまの生涯の目的。神の愛と救いの計画を人々に告げ、行いに

より成し遂げたと言う、成就された預言。神の約束が成し遂げられたのです。

46,47節は、十字架の死と復活、「罪の赦しを得させる悔い改めがその名

によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」 このグッドニュースをすべ

ての民に宣べ伝えることがキリストの弟子たちの任務ですね。

 【2017年5月20日/21日】  

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠に

あなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」

             ヨハネによる福音書 14章16節

   

 私たちは体を持っていますが、そこに目に見えない聖なる霊が与えられま

す。私たちは、目に見えない「心」に関することを「命」「魂」といろいろな

表現をします。その心や命や魂が、神様からの霊で「慰められ」「安らぎを得

る」「迫害や困難な中で、弁護してもらえる」と言うのです。ここの「弁護者・

弁護士」は、原語が「パラクレートス」。そばにあって呼んでくれると言う意

味もあります。

わたしたちは、孤独、ひとりぼっちであっても、神は必ず助け守って下さ

る。それが聖霊の働きです。また、コリントⅠ、12:4には「聖霊によら

なければ、だれも『イエスは主である』とは言えないとあります。

  【2017年5月13日/14日】

「わたしは道であり、真理であり、命である。」

             ヨハネによる福音書 14章6節

   

 今日の日課に出てくる、二人の弟子の言葉は、私たち人間の思いでもあり

ます。14:5の弟子のトマスは「主よ。どこに行かれるのか、わたしたち

にはわかりません。」 先生は、自分たちを置き去りにして未知の世界に旅立

つのかと恐れを持った言葉です。

14:8」のフィリポは、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。

そうすれば満足できます。」 神を見ること、それは人間の究極の希望とも言

えます。しかし現代の私たちは見ることが出来ません。

その上で、今も主は私たちを導きます。イエスさまは天に去って行っても、

神であるイエスさまは生き続け、聖霊が注がれ、天には、私たちの住まいが

たくさん用意されているのです。

  【2017年5月6日/7日】

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならな

い。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであ

る。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命をすてる。」

             ヨハネによる福音書 10章10~11節

   

 ここには、優しい羊飼いがいるだけではなく、恐ろしい強盗が出て来ます。

パウロも、エフェソの教会の長老たちと別れのあいさつをする時、次のよう

に警告しています。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのとこ

ろへ入り込んできて群れを荒らすことが、わたしにはわかっています。」(使

徒言行録20:29)

本当の指導者は、イエス・キリストに従う者として、正しい門から入って

くると書かれています。イエス・キリストと言う門です。

私たちはイエス様の門に入る羊。本当の羊飼いに導かれて参りましょう。

 【2017年4月22日/23日】

主の復活後の現れ(本日の日課ヨハネ20章19~23節に加えて) 

  復活についての最も初期の記録は、福音書にでなく、紀元54年に書かれ

たパウロのコリント書簡である。(Ⅰコリント15章5~8節)

 

福音書の記録では、イエスさまはまず、エルサレムで女性たちに現れ、そ

れからエマオで現れ、その後、二階の広間に現れた。マタイとヨハネでは、

ガリラヤで現れている。ルカはエルサレムの近くのオリーブ山に現れ、そこ

から天に上がられたと書いている。ルカはまた、日曜午後、エマオへの途上

でイエスさまが2人の弟子たちに現れた話を記録している。

 

これらの様々な記録はこの「現れ」の出来事が広範囲にわたっていたこと

を証ししている。そしてその通り、パウロの記事がこの出来事の証人が当時

まだ生きていたことを具体的に示している。

  【2017年4月1日/2日】

イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを

愛しておられたことか」と言った。

                  ヨハネによる福音書11章35節

 

   イエスさまは、ベタニアのマルタ・マリア・ラザロの一家を愛し、その

家庭をエルサレム滞在中の憩いの家とされていました。しかし今日の箇所

では、宮きよめのあと、ユダヤ人の指導者たちの悪意の追っ手を逃れて、ヨ

ルダンのかなたペレヤの地に滞在中でした。(ヨハネ10章40節~参照)

よってペレヤの地で、ラザロの病気のニュースを聞いています。ラザロの

死が近いと知りつつ、そのままペレヤに滞在された。しかし、11章7節で

「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われた。弟子たちは驚くのですが、光あ

る内に歩いてゆかれる。危険を犯してでも、愛を実行する時を逃さないイエス

さまです。

 【2017年3月25日/26日】  

 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知って

いるのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

                  ヨハネによる福音書9章25節

 

   本日の聖書の日課の前の箇所は、ヨハネ9章1~12節までで、生まれつ

きの盲人が、主によって癒されたことが、記されています。本日の日課はそれ

に続き、しかしイエスさまがそのわざを行われた日が安息日であったことにつ

いて、ファリサイ派の人々が文句を言い出したことが、発端となっています。

実は彼らの間でも、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことがで

きるだろうか」と意見が分かれた(16節)ほどの事件であったのです。

その時の人々のかたくなな心は、安息日という律法が中心となり、イエスさ

まを拒絶し受け入れることができないのです。わけの分からない者は厄介だと

して、抹殺する・・。その結果の先に、イエスさまの十字架はあったのです。

【2017年3月18日/19日】  

 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたし

が与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、

永遠の命に至る水がわき出る。』」 

          ヨハネによる福音書4章13~14節

   水は、私たちの渇きをいやします。物理的な水は、特にこれから暑くなると

き、欠かせません。人間の体がそのようにできているように、霊的な渇きにつ

いて、考えてみましょう。何らかのことが起き、「聖書」を読むことができな

くなったら・・、「礼拝」になかなか行けなくなったら・・。想像してみても、

霊の渇きで、みことばに飢えていく自分を想像しないでしょうか?そんな時は

心に主を迎え、祈り讃美の時を持ち、平安をいただきましょう。

ヨハネ7:37にも「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲み

なさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生き

た水が川となって流れ出るようになる。」とあります。

  【2017年3月11日/12日】  

「イエスはお答えになった。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かって

いない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。』 

二人が、『できます。』と言うと、・・・」

                  マタイによる福音書20章22節

  

彼らは「できます。」と勇ましく答えました。しかし人間にはできることと、

  できないことがあります。「出来る」という確信は持てません。

主の受ける杯とは、「受難」を表しています。杯ですから、自ら進んで、

手に取る杯なのです。主は、多くの人の罪のため、自分のいのちをささげ、

自ら「僕」となられました。

私たちにできることがあります。

主に従って「仕える」こと、「低くなり僕となる」こと。

そのときこそ神は、私たちを高くしてくださるのです。

  【2017年2月25日/26日】  

 『すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」

という声が雲の中から聞こえた。』

                マタイによる福音書17章5節

  

今日はイエスさまが山に登られて、み顔も衣も、まばゆいほど輝いて、

モーセやエリヤも来て話をしたというところです。

このか所のイエスさまは、神(こうごう)しいだけの、私達弱い人間とは

かけ離れたところにいる近寄りがたい方であるような感じを持つ方もおら

れるかもしれません。けれどもそれは違うのです。

まず、なぜ山に登られたか?それは祈るためでした。今日のすぐ前の聖書に

は、十字架の苦難の道の予告をされており、その道を進むことを前にしての

お祈りでした。どんなに苦しいお祈りだったでしょう。


そして、この祈りの時に変容は起きました。神様の支えが示されたのです。

  【2017年2月18日/19日】

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子

となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しく

ない者にも雨を降らせてくださるからである。」

                マタイによる福音書5章44~45節

  

敵とはなんでしょうか?「外には、いつも7人の敵がいる。」と言う人も

います。確かに、私たちは敵なしに人生を真剣に生きることができないかも

しれません。自分の考えが相手と違えば、妥協しないならば、「敵」にもな

るかもしれません。イエス様も家族や親戚に、疎まれ憎まれました。

 「敵」こそ「隣り」です。「隣人を愛せよ」とも主は示されました。私達

が、愛と助けを運ぶ相手でもあります。どうしようもない時、難しいことです

が、まず「祈る」ように主は44節で示しています。

自分と向き合い、相手と向き合い、主にとりなしの祈りを求めましょう。

  【2017年2月4日/5日】

 「あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、

その塩は何によって塩味が付けられよう。」

                マタイによる福音書5章13節

  

イエスさまは、私達に呼びかけておられます。

「もしわたしを信じるなら、あなたたちは地の塩です。」 

塩を考えてみると、その役割はまず料理。

味を付けたり、何より腐るのを防ぐ。お漬物も(たくあん・梅干し、他ほとんど)

塩がないとできません。食べ物に塩がなかったら、味も変で腐って食べられなく

なって捨てるしかなくなります。本当に大切な役割です。

 イエスさまがおっしゃったのは、イエスさまを信じて、私達が、この「塩」

のように、この世にイエスさまの教えを伝え、この世が腐らないように、「愛

の教え」で味付けしてくださいと言うことです。

 

【2017年1月28日/29日】

「イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。

二人はすぐに網を捨てて従った。」

                マタイによる福音書4章19~20節

  ある方が言いました。「イエスさまは、きわめて多くを求めるが、しかし

またきわめて多くを約束される。」と。イエスさまは、今日の聖書で弟子を

招いておられるように、ある意味でわたしたちの全部を求めておられます。

マタイの16章24節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分

の十字架を背負って、私に従いなさい。」とあります。そして、主に従って

行く時、その時、「人間をとる漁師」にしてくださると言うのです。

 「人の魂を救う」と言うことは、人間ができることではありませんが、私

たちを招くイエスさまが、なさる。その働きのため、私たちは従って行くのです。


 
【2017年1月21日/22日】

「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

                マタイによる福音書4章16節

  上記の聖書を、「暗い中に座っている民が偉大な光を見た。死の地・死の

 陰に座っている人々に光がのぼった。」と訳されたものもあります。より、

 わかりやすいですね。

  異国の占星術の博士たちが最初に救い主にお会いしたように、今、異邦人

 のガリラヤが宣教の場となり、遠い者が近い者となり、暗い中に座っている

 民が光を見るのです。「暗い中」「死の地」「死の陰」・・人間が到底、近づき

 たくない町、状況、環境、人生・・。しかし、主イエスの到来と同時に、そ

 こに「偉大な光」を見ることになると聖書は告げます。神の真実は、隠され

 た中に現れます。天国を人間がこしらえるのではなく、天国の方が、私たち

 に近づいてくださるように。


 


 【2017年1月14日/15日】   

 「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに

     来られた。彼から洗礼を受けるためである。」

                マタイによる福音書3章13節

 

  イエスさまが公的活動を開始した「皇帝ティベリウスの治世の第15年」

  (すなわち紀元27~28年⇒ルカ3:1より)は洗礼者ヨハネが罪の

 赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えはじめた年でした。そのころ

 の歴史資料があって、「ヨセフス」および「クムラン文書」には、ヨハネの活動

 は、当時ユダヤ全体の人々に広がっていた深い精神的激動の救いを求める求道の

思いとつながっていました。そのヨハネの洗礼を受けるために集まった群衆の中に

ガリラヤのナザレからやってきたイエスさまがいたのです。


  【2017年1月7日/8日】 

 ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいもの

ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

マタイによる福音書2章6節

冬は、夜空に星が輝き美しい季節です。そして「あの星の向こうには何があるのかな?」

と考えた昔を思い出します。天文学や宇宙のことが解明されても、その宇宙の果てには何

があるのか、実は人間には誰もわからない。限界があるのです。東の博士たちは、まだ星

の示すものがはっきりわからず、頭を下げて教えを乞い旅をした「求道者」でした。そし

て、星に導かれて救いを求める「ひたすらな心」がありました。自分の持つ最上の宝を捧

げても惜しくないという熱心がありました。

 

  
【2017年1月1日】 

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。」(ルカによる福音書2章25節)

                                        

シメオンは幼子イエスを抱き主の救いを見た。」と言いました。救いの業の実現は

まだ30年以上も後「イエスの十字架と復活」の時まで待たねばならなかったにもかかわ

らず、彼はそれを望み見て喜び、その完成を確信したというのです。その信仰は先のもの

を受け入れ、受け取る信仰ですね。神の約束を真実なものとして、今受け取ることですね

 神の言葉にもとづいて、我が身をそこに委ねる信仰。彼が約束の御子をその腕に抱いた時、

今「顔と顔を会わせまみえている。それはまさにいつ死んでもいいと思えるほどの喜び」

心からそう思ったのでしょう。世の救いである、イエス・キリストの誕生これは神の計画、

神のわざなのです