説教のミニ解説   [2]最新  2017年8月12日/13日~
 

「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに

御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出し

ていただいた婦人である。」

マルコによる福音書16章9節

 

先週に続き、復活の主が、ご自身を現された箇所です。まず、マグダラ

のマリアに現れた、16章1節と同じ記述ではじまります。

「マグダラ」とは、場所の名前で、ガリラヤ湖の西にある町です。位置

としてはティベリアスとナザレの町の間くらいです。復活節のこの時期、

イスラエルには、春の様々な花が咲き出で、その中に道端にひっそりと

咲くあざみの花があって、人々はそれを「マリアあざみ」と呼ぶそうで

す。マグダラのマリアのようですね。


                       【2018年4月7日/8日】

 

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、

わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者

がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは世を裁くためではなく、

世を救うために来たからである。」

         ヨハネによる福音書122627

    

神のみもとから世に送られてきたイエスさまは「光」でありました。

光は暗闇を照らす。真っ黒な暗黒の世は、光を憎むけれど、光の出現は、

全てを照らし真実を写すのです。救い主としてのイエスさまは、ただ善

意に満ち世の救済にのみ心を砕き給うたとしても、その語り給うた真理

そのものは、必然として救いと滅びの間に一線を引いて行きます。光を

拒否する者はどうなるのか。それは神に委ねるしかありません。神は招

き続けるでしょう。私たちはイエスさまを受け入れ、すべてを照らして

いただき、真実の道を進むのみであります。

                                【2018年3月17日/18日】

 

「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

     ヨハネによる福音書 315

  

今日の聖書の箇所は、イエスさまとニコデモの会話の後半の一部です。

「水と霊から新しく生まれる」ことについての対話に続くものです。

ニコデモという人物はどんな人物でしょう。彼はファリサイ人で、

イスラエルの教師でありユダヤの指導者、サンへドリンと言う最高会

議の一員でした。そんな最高の地位にいる人がイエスさまのところに

やってきたのです。それも夜、ひそかに彼は訪れています。

  イエスさまは、ニコデモの心の底をご覧になって、問題の核心の対

話をされたのです。

                         【2018年3月10日/11日】

 

 「『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家

としてはならない。』 弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわた

しを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」

ヨハネによる福音書 21617

 

 毎年、過越の祭のころになると、規定(申命記16章~)に従って、多

くのユダヤ人が各地から都エルサレムに集まって来ました。家畜や穀物

を宮に捧げますが、遠方から来た者は、お金を持ってきて現地で買い求

めたのです。所持金をエルサレムで、規定の貨幣に交換するため両替屋

も必要でした。神殿の中庭に家畜や鳩を売る者が店開きをし、両替屋が

並んでいる。イエスさまの目からは、それは許すことができない神殿へ

の冒涜だったのです。『あなたの家を思う熱意・・・』の言葉は、詩編6

9:10の言葉です。

                   【2018年3月3日/4日】

 

「『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることが

できるか。』彼らが、『できます。』と言うと、・・・」

       マルコによる福音書 10章38~39節

  

彼らは「できます。」と勇ましく答えました。しかし、人間にはできる

こととできないことがあります。「出来る」という確信は持てません。

主の受ける杯とは、「受難」を表しています。杯ですから、自ら進んで、

取る面を表しています。主は全ての人の罪のため、自分のいのちをささ

げ、自ら「僕」となられました。

私たちにできることがあります。主に従って「仕える」こと、「低くな

り僕となる」こと。そのときこそ神は、私たちを高くしてくださるので

す。

                 【2018年2月24日/25日】

 

 『すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。

「これはわたしの愛する子。これに聞け」』

           マルコによる福音書 9章7節

  

今日はイエスさまが山に登られて、み顔も衣も、まばゆいほど輝いて、

モーセやエリヤも来て話をしたというところです。

このか所のイエスさまは、神々(こうごう)しいだけの、私たち弱い人

間とはかけ離れたところにいる近寄りがたい方であるかのような感じを

持つ方もおられるかもしれません。けれどもそれは違うのです。

なぜ、山に登られたか?それは祈るためでした。今日のすぐ前の聖書(マ

ルコ8:31~)には、十字架の苦難の道の予告をされており、その道

を進むことを前にしての祈りでした。どんなに苦しいお祈りだったでし

ょう。そしてこの祈りの時に、変容は起きました。神様の支えが示され

たのです。              【2018年2月10日/11日】

 

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は

一同をもてなした。」

           マルコによる福音書 1章31節

  

今日の聖書は先週に加えて、イエスさまの癒しのわざです。

病気で寝ているシモンの妻の母親に対するイエスさまの心が描かれて

います。

高熱に悩んでいた彼女のために、「人々」がお願いしたので、「イエ

スがそばに行き、手を取って起こされると」熱は引いたのです。イエ

スさまの病人に対しての思いやり・・、そしてそこに向かう人々の、

心を合わせた祈りがあったでしょう。

そして熱の引いた彼女は、まず何をしたかと言うと、すぐに人々を

もてなすことで神に対する感謝の心を示したのです。神との出会いと

交わりは、すぐに人間同志の愛の交わりに及んだのです。

                      

                                   【2018年2月4日】
 

 「イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになると、

汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行っ

た。」

          マルコによる福音書 1章25~26節

 

「あなたの信仰があなたを救った。」と、イエスさまはよく言わ

れます。それは私たちが神の恵みをしっかりと受け止めることで

す。いくら恵みが注がれても、それを受け止めなければ無意味に

なります。

また、病気は刑罰とかのろいとかいうものでは決してありませ

ん。人間の不幸は、神の怒りと思いやすいが、決してそうではな

いのです。

2000年前、そのような刑罰・呪いという考えで、ますます

苦しめられた人々のもとへイエスさまはやって来ました。心も体

も、がんじがらめになっていた人々を、愛と癒しでイエスさまは

解放されました。

 

                          【2018年1月27日/28日】
 

「彼らは漁師だった。イエスは『わたしについて来なさい。

人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨て

て従った。」

          マルコによる福音書 1章16~18節

 

本日の聖書には、いよいよ主イエスが、伝道の道をスタートさ

せ、そのために弟子を集められたことが示されています。いつだ

ったかと言うと、「ヨハネが捕えられた後」と14節にあります。

続く15節には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音

を信じなさい」と言う言葉ではじまっています。

それはこれまでとは違った、全く新しい形の神の支配です。く

り返し罪を犯してしまう人間を、決定的に救ってくださる、新し

い神の計画、「十字架の贖いと復活の命を与えられる神の救いのわ

ざ」です。

漁師だった者が、召されて行きます。不安の中にも、主イエス

にゆだねて、弟子たちは出発します。

                                     【2018年1月19日/21日】

 

「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから

洗礼を受けられた。」

            マルコによる福音書 1章9節

  

イエスさまの洗礼の箇所です。水から上がる時、天が裂けて「霊」

が鳩のように下ってくるのを見ました。天が裂けるとは、衝撃的

な言葉です。紙や、布など、なんでも、裂けたら戻すことが難し

いです。しかし、それほど頑なな固い壁、つまり神と人との間に

あった壁を、神様がイエスさまにより、破り、近づいてください

ました。

イエスさまを「愛する子」と呼ぶ神の御声が示されています。

決定的なことはまさに父なる神と子なるキリストの間において、

何人も見透かすことのできない隠された啓示の中で、すべてが取

り行われたということです。

                             【2018年1月13日/14日】

 

 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに

幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」

                 マタイによる福音書 2章9~10節

  

今日の聖書の背景には、光とやみが交叉しています。やみは、この世の王や

政治から出て来ます。権力者の非人間的な行動が、全く世界を暗くしています。

しかし、そのやみの中に、神の救いの光が、さしこんでいます。博士たちが東

で見た星、それはこの救いの光を指し示しています。この光に会うために、東

から博士たちが、千里を遠しとせずにやってきます。

そして博士たちは贈り物を捧げましたが、捧げさえすれば、なにか復興が起

こるかと考えたわけではありません。博士たちは、み言葉に従って、静かに、

帰ってゆきました。ひそやかに幼子が育つ時間を待つのです。


                                       【2018年1月6日/7日】  

 「あなたは自分を何だと言うのですか。」

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

           ヨハネによる福音書 1章22~23節

  

私達にとって、バプテスマのヨハネが誰かという問いと同時に、・・。

クリスマスに生まれるイエスさまは誰か、・・・。

それが問われるのが、この季節です。

今日の日課の箇所の先の、29節では、ヨハネはイエスさまを「見よ、世の罪を

取り除く神の子羊」とはっきりと神の子イエス・キリストを紹介しています。 

クリスマス礼拝を多くの方と迎えながら、「私の救い主、罪を取り除いてく

ださる方」
と証しいたしましょう。                                          
                               【2017年12月16日/17日】  

 

   「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油をいれて

持っていた。」

                 マタイによる福音書25章4節

  

今日の「十人のおとめ」のたとえは、終末に備えるキリスト者として歩む時、

気をつけておきたい「心の準備」や「思慮深さ」を教えてくれます。

花婿の到着が予想以上に遅かったので皆眠気がさして眠り込んでしまったと

いう状況。花婿の到着は夜中になってしまったのですから、無理もありません。

そこで問題になったのが、「油の用意」です。

「油」は何の比喩なのでしょう。聖書はいつも「油」で、「聖霊」を象徴的に、

示します。聖霊の油を絶えず準備し(信仰によっていただき)、また信仰生活の心

を聖霊の油で潤して歩みましょう。


                              【2017年11月18日/19日】                                    
 

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさ

い。』」

          マタイによる福音書22章37~39節

 

 ファリサイ派の学者たちはモーセ律法を分析して、248の積極的

命令と365の禁止命令、合計613の戒めがあると教えていました。

そして、あまりにたくさんあって、どれを優先するかで混乱も起きてい

たのです。「どの戒めが一番大切か」は学問的にも実際的にも非常に重要

な問いでした。

一般の社会でも「ルール」がありますが、その精神が失われては意味

が無くなってしまいます。

信仰の姿のポイントを、ここでイエス様は、こともなげに答えられ

ます。その答えは難しくないのです。神への愛・人への愛。そして、そ

れはイエス様への愛に根ざし教えられ導かれるものです。

                                      【2017年11月11日/12日】

 

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち

二人が地上で心を1つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえて

くださる。」

 マタイによる福音書18章19節

 

  今日の聖書のことばは、「祈り」と結び付いています。わたしたちが地上でつなぐこと

が、天でつなぐことになるためには、人間中心の思いが支配するのでなく、キリストの

支配を求めることが大事です。わたしたちの行為が天にいます神様へとつながるように

祈りましょう。

 イエスさまご自身も、ゲッセマネの園で祈られました「わたしの心でなく、御心が行

われますように。」と。


                         【2017年9月30日/10月1日】

 

「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹の事を

喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた

がたの天の父の御心ではない。」

 マタイによる福音書18章14節

 

  イエスさまはご自分をよい羊飼いになぞらえて、「彼は自分の羊の名を呼んで

連れ出す」と言います。イエス・キリストは、一匹の羊を百匹の中の百分に一と

してではなく、一匹一匹の羊の名、すなわちその特長、役割、大切さにおいて、

ご存じです。同じように主なる神も、羊一匹一匹の名を命の書に記しておられます。

それが滅びると言うことは、父の御心ではないのです。

                                            【2017年9月23日/24日】
 

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」 シモン・ペテロが

「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

 マタイによる福音書16章15~16節

 

  フィリポ・カイサリアでのペテロの告白は、今までイエスさまをメシアと、思って

いなかった人が、段々と教えられ、ついにメシアと信じるに至ったことを示したと言う

より、むしろ、はじめはキリストを信じていた群衆が、ファリサイ派・サドカイ派の

煽動で信仰を捨てた中で、残った弟子たちがなお依然として、はやり「あなたこそキリ

ストです。」と告白した姿です。

私たちの、信仰告白も、今日の礼拝で告白されるように、くり返し、くり返し、日々

の中で、自分の信仰を確認しつつ、主に告白します。

                                            【2017年9月16日/17日】
 

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」  

 マタイによる福音書15章28節

 

  「カナン」とは、イスラエル民族がエジプトからパレスチナにやってくる前に

そこに住んでいたパレスチナ先住民のことですが、その一部は、北の「ティルス」や

「シドン」の方まで分布していました。今日の日課で、イエス様が出会った女性が、そ

の地方の一人だったのです。彼女は「主よ、ダビデの子よ」といかにもユダヤの宗教を

知っているかのような呼び方です。しかしどれくらいの知識・信仰があるのか、わかり

ません。

イエス様の伝道は、この時、24節の「イスラエルの失われた羊」のように選民再建

とも言えますが、今日の異邦人である女性との出会いはその壁が破られたと言えます。イ

エス様の救いを信じて退かない女性。その信仰の大きさ・忍耐・謙遜に、いやしの業がな

されます。世界のすべての民の救い主の顕現です。

                                     【2017年9月9日/10日】  

「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、

パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。

弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。」

           マタイによる福音書14章19~20章

 

  今日の日課は、荒野で、たくさんの人々を養ったイエスさまの奇跡です。

このイエス・キリストに従う者は以下のようにも示されます。(聖書より)

「荒野の中でも恵みを得」(エレミヤ31:2)

「涙の谷を過ぎてもそこを多くの泉のある所とし」(詩編84:6)

「貧しいようであるが、多くの人を富ませ、

何も持たないよであるが、すべてのものを持っている。」

(Ⅱコリント手紙6:10)

キリストは、私たちの十分な牧者です。

                                          【2017年8月日26/27日】  

 今日の聖書:マタイによる福音書13章44~52章

 

  今日の日課の、三つのたとえ話はどれも「天国は・・・のようにたとえられる。」

 と語り出されています。初めの二つは、宝を探し当てる歓びが示されています。

 現代でも都市の工事中に、思わぬ所から小判がザクザク出てきて、その所有権をめ

 ぐる争いが起こったりすると言いますが、昔のユダヤでは、土地を買い取った発見

 者の手中に入るのが常だったようです。一番目のたとえ話は、そのようにした人の

 話ですね。正当に畑を買い取ったのです。

  畑を買い取ることが出来た。天国はお金で買えませんが、天国の見出される畑、

 救いの得られる畑なら、努力すれば得られる、というお話になっています。

  私たちも、信仰生活で知っています。主の与える私たちの畑は、信仰生活、聖書

 の学び、祈り。猛暑の中でも、教会と自宅で神との交わりの時を持ちましょう。

                                            【2017年8月19日/20日】  
 

「天の国は次のようにたとえられる。」

                マタイによる福音書13章24章

 

  マタイによる福音書13章は、天国のたとえ話をぎっしり詰め込んだ章です。

 25節の「毒麦」で表される植物は、鶏などの餌として与える穀物のことで、麦

 に似たその穀物は、育つ間は見分けできず、穂になって初めて、黒い色で見分け

 がつきます。だから、刈り入れまで待とうと言うことです。

  「からし種」と呼ぶ物は、日本ではアブラナ科のカラシナの種ですが、ユダヤの

 「からし種」は、大きければ3~4メートルにもなる木です。ルカによる福音者

 の13:19では、「庭にまく」と言われていますから、庭にまくどの草花よりも

 大きくなるという種子の状況を示しています。

                                     【2017年8月12日/13日】