説教のミニ解説   [最新]2018年7月14日/15日~

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしはその方の履

物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授

けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

           マルコによる福音書1章7~8節

                 (⇒本日の日課の並行箇所)

「洗礼者ヨハネ」が登場しています。洗礼者ヨハネは、一時期、

イエスさまより評判が高かった時がありますが、その証は、徹底的

に「イエス・キリストを指し示したもの」でありました。そして、

その伝道は「悔い改めの洗礼」という主を迎える準備でした。

現在、私たちの国でも、にぎやかなクリスマスの飾りつけが流行

っています。その飾りつけの中心に、イエス・キリストの誕生の意

味を伝える役割を教会は担っていると言えます。この伝道の機会を

豊かに用いたいと願い、祈ります。

 

                               〈2018年12月8日/9日〉
 

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

マルコによる福音書1331

 

マルコ13章は、小黙示録と言われ、イエスさまが終末について語

られています。世の終わりとキリストの再臨について記されていま

す。私たちには信じがたいことがいろいろありますが、この世の終

わりがあり、そして私たちは神の前に立たねばならないと聖書は宣

言しています。しかし罪深い私たちのために神のみ子イエス・キリ

ストが罪を拭い去り贖ってくださるために十字架が示されたのです。

終末は、何月何日に終りが来るということを意識するようなもので

はなく、そこに向けてキリストに依り頼んで自らを整えてゆく生き

方です。「神が私を愛しておられる」というイエスさまのメッセージ

を聞き、他のことに惑わされることなく待ちつつ歩み続けましょう。

 

                            〈2018年11月24日/25日〉
 

『皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持

っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』

マルコによる福音書1244

 

イエスさまは、貧しいやもめの態度を賞賛されました。今日の聖

書日課の前にあたる38節からは、律法学者が叱責されているとこ

ろで、そのあとのやもめの態度。この律法学者とやもめのはっきり

したコントラスト(対比)がきわだっています。

「律法を教える律法に生きる律法学者」と、「ただ素直に律法の精

神を素直に受けとり捧げるやもめ」。この貧しいやもめのどのような

心がイエスさまにほめられたのか、わたしたちは知りたいと思いま

す。

                                〈2018年11月17日/18日〉

 

『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、

また隣人を自分のように愛する』

マルコによる福音書1233

 

今日の日課では、旧約聖書の本来の愛の教えとはいかなるもの

か?それをイスラエル人はどのように理解していたか?そしてイエ

スさまの新しい教えはどのように異なっているかが示されています。

旧約の教えそのものはすばらしいものでしたが、イエスさまの時代

においては、「愛はすべてにまさる」と言うモーセの律法の真のねら

いは理解されなくなっていました。それは、「隣人」を自国民、ある

いはおきてを守っている人だけに限ると解釈したことにも表れてい

ます。       

それに対してイエスさまは、「愛」はおきてを越え、いかなる民族、

どのような人をもしりぞけないことを教え、さらに、「神を愛するこ

と」と「人を愛すること」は分けることができず、密接に結びつい

ていると教えられました。

                                 〈2018年11月10日/11日〉
 

「人間にできることではないが、神にはできる。

神は何でもできるからだ。」

      マルコによる福音書1027

 

17節からは、金持ちの男のお話です。イエスさまが強調されたことは、

律法は神から与えられたものであり、その本来の精神を守る以外に永遠

の命を与えられる道はないということ。本来の精神とは、人を愛するゆ

えに、分け与えるということ。

「売り払う」と言うのは、数量的なことではなく、そのことに徹する

ことを言っておられます。青年は、自分が損をしない限りにおいては、

施していたかもしれないけれど神が求めるのは、その範囲を超える、心

がそれを越えて隣人を愛することだったのです。とても難しいことです

が、神に願えば、主の十字架が指し示されます。

そして愛の成就が、神の助けによって、人には奇跡のように思えるこ

とが、起こるというのです。

              〈2018年10月21日〉 

 

「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、

決してそこに入ることはできない。」

         マルコによる福音書1015

 

信仰生活は、神に救われる生活と言ってよいでしょう。信仰によって、

私たちの生活は、具体的にいろいろな場面で救われるのです。人間の生

活が完全なものでないことは、皆、わかっています。毎日、思いがけず

失敗したり、罪ゆえ、人間同志で、信頼関係を傷つけたり、失ったり・・。

それを仕方ないと思い終わらせるのでなく、神様に救っていただくので

す。人間の事情や都合だけを優先させるのでなく神様に御心を求めるの

です。

私たち一人一人も子どもであった。イエスさまは「子どもの受容性」

を強調されています。幼子の心にもどって、神様の御心を恵として受け

取りましょう。

 

                        〈2018年10月13日/14日〉

「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼

を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」

 

          マルコによる福音書 942

 

「つまずき」の恐ろしさが知らされます。「つまずき」の元のギリシャ

語は、「スキャンダル」と言う英語の語源でもあります。もともとの意味

は、「わな」です。「つまずかせる」とは、兄弟姉妹を罠にかけ、彼らの

教会生活、また信仰を、イエスさまから離して、滅びに追いやってしま

うことにもなります。

「小さい者」を軽んじ、見下し、平気で、つまずかせることを、神は

警告しておられるのです。むしろ精を出して、「つまずきの石」を取り除

く働きをしましょう。神様にとっては、皆が「迷い出た一匹の羊」だか

らです。

                            〈2018年10月6日/7日〉
                      

 

 
 

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に

仕える者になりなさい。」

          マルコによる福音書 9章35節

 

だれでも状況の中で「偉くなりたい」「一番上になりたい」と、皆、思

う時があるでしょう。それはそう思っても良いかもしれません。けれど、

問題はそのあり方です。

偉くなった、一番になったからと言って、その下にいる人たちを力づ

くで支配したり、その地位を誇ってはなりません。また、なにも責任を

負わず、逃げ出したとしたら?

大事なのは、35節の上記のみ言葉です。イエスさまは、本当に大切に

すべき態度は「仕えること」と教えられます。それは、イエスさま自身

が身をもって示された、すべての人の罪のため、自分の命を捧げ僕とな

られたこと。十字架で命を捨てて教えてくださったのです。

                            〈2018年9月30日〉
 

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、

私に従いなさい。」

        マルコによる福音書 8章34節

 

ペテロの信仰告白に続く、イエスさまの受難予告です。弟子としての

ペテロの、熱心さと人間的弱さ。熱しやすく、しかしとても弱い、私た

ち人間の生の姿をそこに見ることができます。

この後、ペテロはキリスト・イエスさまが捕えられたとき、「あの人の

弟子か」と聞かれて、否定します。けれど、その挫折を通して自分の熱

意でなく、イエスさまの愛によって支えられていることを痛感します。

自分の強さ・正しさでなく、イエスさまの赦しによって自分が生きる事

を知るのです。私たちも、自分を大きく見せることなく、等身大の生の

姿で、イエスさまにつながり、贖(あがな)っていただきましょう。


                           〈2018年9月22日/23日〉

 

そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エツファタ」

と言われた。これは、「開け」という意味である。

           マルコによる福音書 7章34節

 

イエスさまは、いろいろな状況の人々と出会っています。今日の聖書

では「耳が聞こえず、舌の回らない人」、この方は孤独でしたでしょう。

「言葉」と言うコミュニケーションの方向が閉ざされているのです。言

葉が交わせたらどんなにいいだろうと、何度も心の中で叫んでいたこと

でしょう。

けれど、主イエスさまとの出会いの道が開かれました。自分ではどう

することもできない現実の中で、主はけしてその人を見放しはしないの

です。「エツファタ(開け)」と言う言葉が示すもの、それは、人間の行

き詰まりである罪と死の前に、神の言葉が開かれる。神の憐れみによっ

て、愛の奇跡が行われる。その福音が宣べ伝えられることの始まりです。

             〈2018年9月15日/16日〉 

 

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。

家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

           マルコによる福音書 7章29節

 

本日の聖書、マルコの並行箇所、マタイ15:24では、「わたしは、

イスラエルの家の失われた羊のところにしか、遣わされていない」とい

う言葉がありますが、これは、イエスさまには始め、外国伝道・世界伝

道よりまず「選民イスラエル人の救い」の目的があったことが示されま

す。しかし、今日の箇所では、なぜか異邦人の地に来られ(理由は明ら

かではありません。)、娘の病気に心を痛めている母親に出会ったのです。

女性の希望は、イエスさまの最初の計画を狂わせるものでしたが、彼

女の熱心な信仰に心動かされ、癒しのわざは行われたのです。

                             〈2018年9月8日/9日〉
          
 

「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから

遠く離れている。』」

 マルコによる福音書 7章6節(イザヤ書からの引用)

 

本日の聖書の始めに、「清め」「けがれ」の問題が取り上げられていま

す。当時、イスラエル人は、自分の身がけがれることについては非常に

注意深く、また敏感でした。ユダヤの人たちは外国人と交わることによ

って彼らからけがれを受けるとも考えていました。選民意識ゆえです。

差別的な考えです。

また、昔から受け継いでいるたくさんの掟があり、それを守ることに

一生懸命でした。それは悪いことではないかもしれませんが、その掟を

守ることだけに懸命になり、それが目的となる生活になってしまうので

す。信仰は外面ではなく、内面の心が問題であるとイエスさまが導いて

くださいます。

 

                         〈2018年9月1日/2日〉
 

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のよう

な有様を深く憐れみ、いろいろ教え始められた。」

           マルコによる福音書 6章34節

 

本日の聖書の箇所の状況を見てみましょう。イエスさまは使徒たちと共

に、静かな祈りの時を持とうとして、隠れようとなさいました。時代は、

暴君が荒れ狂い、洗礼者ヨハネは殺されてしまった。祈りが必要だった

のです。しかし群衆はあくまでもイエスさまを追い求め、従ってくる。

群衆は陸を歩いて、舟よりも早く向こう岸に着いた。イエスさまは、集

まった群衆を憐れまれた。弟子たちは、群衆を解散させてめいめいでパ

ンを買いにやらせたいと思った。めんどうだ・・とも思ったのでしょう。

しかしイエスさまは37節「あなたがたがやりなさい。」と言ったのです。

                             〈2018年8月18日/19日〉

 

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

         マルコによる福音書 4章35節

    

イエスさまが、「向こう岸に渡ろう」と言われましたが、弟子たち

は不安でした。

船を出すとき、そこに激しい突風が起き、船は沈みそうになります。

私たちはこの世の道理に従っていれば、比較的安全に過ごすこと

ができますが・・、

神の道理に従うとき、この世の道理と衝突し、痛い目にあうことも

あります。

この世の知識や知恵をたくわえても限界があり、人間の小ささを

痛感します。

神の示す道に進むとき、み言葉と主への信頼が、導いてくれるの

です。今日の聖書の「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言う

イエスさまの声が、私たち一人一人へ届きます。

                              〈2018年7月21日/22日〉
                       

「神の国は・・・からし種のようなものである。土に蒔くときには、

地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大

きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

      マルコによる福音書 4章31~32節

 

からし種とは、マスタードのあの小さな粒です。片手ですくうと指の

隙間から下に落ちるほど小さい粒ですけれど、からし種を蒔き、成長す

ると、なんと3~4メートルにもなるのです。そして鳥の群れがやって

きて巣を作れるほどの枝を張ると言うから、驚きです。

神の国は、からし種のように目立たないところから始まり、成長して

大きな存在になることが示されました。


                      〈2018年7月14日/15日〉