説教のミニ解説【4】    2019/02/9・10~04/13.・14

 

ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子

を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』   

             ルカによる福音書 2013

 

繰り返し与えられる導きに何度もそむく人間を、「決して見捨て

られないのが神様」と知らされるのが今日の聖書です。このたとえ

話でも、「三人のしもべ」さえも放り出してしまいますが、それで

   も神様はあきらめようとなさいません。            

そして最後になさったのは、神様の愛する子を使いに出そうとい

うことです。これは、人間の地主と小作人たちとの関係では考えら

れない非常識なことです。今なら、この事件を訴えて逮捕してもら

うでしょう。ところが人間の賢さにまさる神の愚かさは、常識的な

道を選ぼうとはなさいません。愛するみ子を与える・・。人間の考

えをはるかに超えた、人間には奇跡と見える神の最大の愛ではない

でしょうか。                (2019/04/13・14

 

「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。     

いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶ

  のは当たり前ではないか。」                 

         ルカによる福音書 15章 32節  

 

この放蕩息子のお話のことで、不公平でないかと私たちは思うこ

ともあります。放蕩息子には非常に親切であるが、父のもとでまじ

めに働いていた兄に対しては冷たいようにも思います。このたとえ

話は、父は神を、弟は罪人を、そして兄はファリサイ人や律法学者

   を指していると考えて読むことができます。          

神は、罪人が回心して自分のもとに立ち帰るのを絶えず待ち続け

ておられる。そして後半に、父と兄の対話を通して、神の愛の深さ

   を理解できない人の姿が示されます。             

長い間、父と共に暮らしながら、父の気持ちを気づかないことは、

ありがちですし悲しいことです。けれど、その兄にも父は「子よ」

とやさしく呼びかけます。           (2019/03/31

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、      

皆同じように滅びる。」  

 

       ルカによる福音書 13章 5節     

 

今日の日課は、このころ実際にあった事件を引用して話され、

人々に「悔い改め」を解き、次に実らないいちじくの木のたとえを

もって、人間の悔い改めを待っておられる神様の忍耐強さが教えら

    れています。                                     

 人間には、「苦しみ」や「死」があります。またその他の「災難」

に関しても、なぜなのかと問いかけたくなります。人間である、皆

が、神の前には罪深いのですが、災難があったからと言って「他の

人よりも罪深かった」からだと思ってはならないと、イエスさまは

言いました。災難は人間が悔い改めなければ「皆同じように滅びる」

ことのしるしです。私たちが出来ることは、まず自分が悔い改める

ことであり、次にはよきサマリヤ人のように苦しんでいる人の隣人

となることです。            (2019/03/23・24)                       

 

 

「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。

そして、人の子は三日目に復活する。」

       ルカによる福音書 18章 33節     

                          

イエスさまが受難を受ける明白な予告は、今日のルカ福音書にお

いて、今回で3回目です。それらの箇所を通じて、イエスさまの受

   難は次第に明らかにされています。              

 予告を通して読んでみて気づくことは、「必ず」「渡されることに

 なっている」「受けなければならない洗礼がある」「三日目にすべて

を成し遂げる」「預言者たちによって書かれていることは、すべて

成就するであろう」と言われているように、イエスさまが受ける苦

しみは、偶然ではなく、神のみ旨を果たすために必然的なものであ

るということです。                                        

 エルサレムに入る時は、そのエルサレムでは十字架の苦しみが待

 っていることを、はっきり知りながら、先頭を立って進まれました。

ご自分の生涯の目的を果たすという心をしっかりと持って歩まれ

   ました。                  (2019/03/16・17)                
 

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、

服は真っ白に輝いた。」

          ルカによる福音書 9章 29

 

今日はイエスさまが山に登られて、み顔も衣も、まばゆいほど輝

いて、モーセやエリヤも来て話をしたというところです。このか所

のイエスさまは、神々(こうごう)しいだけの、私たち弱い人間と

は、かけ離れたところにいる近寄りがたい方であるかのような感じ

を持つ方もおられるかもしれません。けれどそれは違うのです。 

まず、なぜ山に登られたのか?それは祈るためでした。今日のす

ぐ前の聖書には十字架の苦難の道の予告をされており、その道を進

むことを前にしての祈りでした。どんなに苦しいお祈りだったでし

ょう。そして、この祈りの時に、変容は起きました。神様の支えが

 示されたのです。             (2019/03/0203)   

     「これほどの信仰を見たことがない。」

                ルカによる福音書 7章9節

今日の登場人物:百人隊長。当時、パレスチナ地方を占領していたローマの

下士官で、歩兵100人ぐらいから成るある一隊の指揮を取っていました。占

領軍である、ローマ軍人は、民族意識の強いユダヤ人から非常に嫌われており、

普通ユダヤ人は彼らとまったく交際しませんでしたが、この百人隊長は例外だ

ったようです。2節に「重んじられている部下」とありますが、頼みにしてい

たと言う意味もあります。部下でありますが、隊長は、人間としての親しい関

係を結んでいたようです。この部下という言葉ですが、僕、また奴隷と言う訳

もあります。ローマの法の中では、目下の者で、奴隷のようにこき使われるこ

ともあった身分なのです。けれど、この隊長は、「人間として親しい関係を結

んでいた」のです。           (2019/02/16・17)

   
 

「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ている

かを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置い

て家を建てた人に似ている。」 ルカによる福音書 6章4748

 

「主よ、主よ」という呼び声の中に、初代教会の様子も語られま

す。外面的には立派な祈りをし、美しいことばを用いてキリストを

伝えていたにもかかわらず、やはり偽善的な者もいました。主は私

たちの内面を見抜く方です。パウロは、「どんなにすぐれた賜物を

持っていても、愛がなければ無に等しい」と第一コリント書で語り

ました。今日のみことばでは、「わたしの言うことを行うかどうか

 によって、本当の弟子であるかどうかがわかる」と言われています。

そして、家を建てる場所の「土台のあるなし」が問題になっていま

すが、それによって弟子の生活の根拠(土台)は、神のことばを知

り、理解し、宣言するだけではなく、神のことばを聞いて、それを

行うことにあると教えています。      (2019/02/16・17)

 

「あなたがたの父が憐れみ深いように、

あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

              ルカによる福音書 6章36節

イエスさまは、「悪」を容認されない。

しかし、イエスさまは、「悪い人を愛する」。正しい人だけを愛するのではな

い。ローマの信徒への手紙5:7~8「正しい人のために死ぬひとはほとんど

いないでしょう。

善人のためには進んで死ぬ人もあるいはいるかも知れません。しかし、まだわ

たしたちが罪人であったとき、キリストは、わたしたちのために死んでくださ

いました。こうして神は、わたしたちに、御自身の愛を示されたのです。」

 人間にはもちろん「正しい」「正しくない」について真実は判断できない。

それは「神」のなされこと。神に祈り求めること。神が中心。人間がその判断

の中心になるなら、自分の「正しい」と思う規準と判断で合わない人を排除す

ることになる。人間が善悪を独り占めする時、神を忘れ、「悪」になる。

                  (2019/02/09・10)