説教のミニ解説【5】  最新    2019/04/20・21~
 
          

「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを

顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」

ルカによる福音書 9章62節

           

 イエスさまに出会った私たちは、「私に従え」と言われる主

に従おうとします。

しかし、振り返ると、この世の持ち物や財産、人間関係を大切

にする中で、それが第一になり、主に従おうとした「決意」は

ゆらぎます。今日の聖書の「親」は大きな課題です。親を「愛

さなくてもよい」のではない。親を大切にしつつも、神を親以

上に愛さねばならない時があることを、み言葉によって悟り、

判断しなくてはならない。まさに、信仰によって、変えられな

いもの・無くしてはならないものを、祈りつつ求めましょう。


                     2019/07/1314

         

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

ルカによる福音書 9章23節

           

ルカ福音書で、初めて「十字架」ということばが出てきました。

当時の処刑方法のうちで最も恐ろしいのが、十字架刑でした。

ローマに反逆した外国人は、十字形(あるいはT字形の二つの種類

があったようです)の木につけられ肉体が腐敗するまで、みせしめ

のためにそのまま残されました。なんというむごい刑でしょう。

当時は、ローマ軍によって、その刑がしばしば執行されました。

その刑は、もっぱら外国人のためだけであって、ローマの市民権を

有している人々には、その刑を用いませんでした。

今日のみことばは、「イエス様の十字架を背負う生き方に従い

自分勝手な考えを捨て、日々、自分の十字架を背負って、従いなさ

い。」という呼びかけです。

 

            (2019/07/0607

             

「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、

あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は

涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。』」

ルカによる福音書 7章44節

           

イエスさまは、徴税人やファリサイ派の人から食事に招かれる機

会が割合多かったようですが、ルカ福音書では、それが4回ほど記

されています。イエスさまと食事を共にしながら、いろいろ教えて

いただいたのでしょう。今日の聖書は、イエスさまを、ファリサイ

派の人が「一緒に食事をしてほしい。」と願い、招いた場面です。

そして、その場所に入ってきたのが、一人の女性でした。

彼女は、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら・・・」

(38節)と、ひっそりと近づいています。続く姿にも、彼女の悔

い改めた心がよく表れています。

              (2019/06/30

         

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくても

よい』と言われた。

そして近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たち

は立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起き

なさい。』と言われた。」

ルカによる福音書 7章13~14節

           

今日の聖書の出来事は、ルカ福音書だけが伝えています。イエス

さまのあたたかい心づかいの言葉が感じられます。そして、奇跡は

起こります。一人の死んだ若者を生き返らせたのです。この出来事

によって、私たちを復活させてくださるイエスさまの使命が顕され

ます。「泣かなくともよい」と、今、主は私たちに呼びかけます。

生命の与え主としての、力強い主のお姿です。単なる教えではなく、

神様が働かれ、恵みが及ぶ。その事実にふれた時、私たちは喜びに

満たされ、そこからより深く信仰生活が続きます

 

             (2019/06/2223

           

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、

あなたがたには理解できない。しかし、その方、

すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて

真理をことごとく悟らせる。」

ヨハネによる福音書 161213

           

 12節の「あなたがたには理解できない。」と訳されている

原語は、あなたがたには「堪えられない。」「耐える力がない。」

とも訳すことができる。だが、恐ろしくて聞くにたえないと言

う意味ではない。それは、弟子たちには、彼らの理解力を越え

た真理がなお隠されているという意味になる。

福音の真理には、その時にならないと理解尽くせない秘密が

隠されている。この真理を弟子たちの心に伝えるためには、「聖

霊」の働きがどうしても必要である。

 

               (2019/06/1516

         

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

彼らが座っていた家中に響いた。」

          使徒言行録 2章1~2節

 

五旬祭、すなわちペンテコステの日に、そのことは起こった。上

記の聖書の出来事であり、続く2:3よりは「聖霊が注がれた」こ

とが示される。イエスさまが十字架につき、復活されたから、50

日目の出来事である。イエスさまは前もって、この「聖霊降臨」を

約束されていたのであり、弟子たちはその言葉を信じ、皆、一つと

なって集まっているところに、実現した。

神の約束、それを私たちは信じ、従っていく。

神を信じる民の群れを、神は「教会」として導く。教会の使命は、

人間が何かを、なすのではなく、神がこの時代に生きる私たちを、

神のみ旨を通して、働かせて下さること。私たちは絶えず神に聞き、

行く道を尋ね、神の家族として歩もう。

             (2019/06/08・09)
               

          

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、

手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、

天に上げられた。」

 

    ルカによる福音書 24章50~51節

 

昇天の時、「手を上げて祝福された。」というキリストの姿は、

旧約聖書の大祭司の姿を示しています。そしてキリストは私た

ちの罪のために自分自身を捧げ、旧約の時代の「神にいけにえ

を捧げた」、新約の時のただ一人の大祭司です。

もう毎日いけにえを捧げることは必要ないのです。十字架の

贖罪によって、キリストなるイエスさまは、父なる神と人間との

間を完全に結ばれ、私たちが神との親しい交わりのうちに生きる

「恵み」を与えてくださったからです。

            (2019/06/0102

         

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与え

る。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去っていくが、また、あなたがたのところに戻

って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。」

     ヨハネによる福音書 14章27~28節

 

今でもユダヤ人は、朝夕の挨拶に「シャローム」と呼び交わす。

それは「ごきげんよう!」という挨拶である。イエスさまはそのよ

うな日常化した語法に対して、自分が残していこうとしているもの

は最も深い意味での神の「平和(シャローム)」であることを宣言

された。それは、主の「十字架と復活」からくる救いの確信である。

イエスさまの死後、孤独と敵意の渦の中に投げ出され、この世的

に見れば挫折のどん底にあると見えるときでも、なお神の賜う平安

に満たされ、生命の充満に感謝することができる。先週の「愛の掟」

に続く決別の説教の中の言葉である。

                (2019/05/25・26)
         
 

さて、ユダが出ていくと、イエスは言われた。

「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって

栄光をお受けになった。」

ヨハネによる福音書 13章31節

 

最後の晩餐の席から、イスカリオテのユダが出て行ったことは、

一つの決定的転換を意味する出来事でした。ユダは悔い改めて、イ

エスさまのみもとに帰り行く機会を放棄したことを意味します。

イエスさまの側から見れば、今や弟子の裏切りによって生命を奪わ

れることが、この世での出来事として最終的に確定しました。

そして今日の日課には、「栄光」という言葉が繰りかえされます。

この「栄光」という言葉に含まれる、深い神の示しが私たちを導き

ます。神の栄光が、人間の罪に基づく神の子の受難を通して顕され

るのです。

栄光教会という名前を頂いた私たちの教会。感謝を持って主の栄

光を仰ぎましょう。

                       2019/05/19
     

 

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。私は彼らを知ってお

り、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。」

 ヨハネによる福音書 10章27~28節

 

ギリシャ語の「エゴー エイミー」(わたしは・・・である)の

定型句は、ヨハネ福音書に一番多く(29回)、重要な意味を持っ

ている。今日の10章20節からは10章14節のエゴー・エイミ

ーの定型句「わたしは良い羊飼いである。」を含む、1~30節の

脈絡の中で読むことができる。

私たちはイエスさまを「羊飼い」として、その「声」を聞き、そ

の後に従う。「羊飼い」なるイエスさまは「彼ら」(私たち)を知っ

ており、永遠の命を与えてくださる。「彼らは決して滅びず、だれ

も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28節後半) 私

たちは、主のもとで、全く安全である。

            (2019/05/11・12)
        
     

 

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に

立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

ルカによる福音書 24章 36節

 

今日の日課は、復活されたイエスさまが弟子たちに現れた箇所です。

福音書の記録では、イエスさまはまず、エルサレムで女性たちに現れ、

それからエマオで現れ、その後、二階の広間に現れました。マタイとヨ

ハネでは、ガリラヤで現れています。ルカではエルサレムの近くのオリ

ーブ山に現れ、そこから天に昇られたと書かれています。

これらの様々な記録はこの「現れ」の出来事が広範囲にわたっている

ことを証ししています。そしてその通り、パウロの記事がこの出来事の

証人が当時まだ生きていたことを具体的に示しています。

                  (2019/05/04・05)


          

 

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、

一緒に歩き始められた。」   

ルカによる福音書 24章 15

 

イエスさまは、希望を失った人に近づいてこられます。今日の聖

書では、「一緒に歩き始められた。」とあります。そして悲しみの中

に沈む弟子たちに、「歩きながらやり取りしているその話は何のこ

とですか。」(17節)と言って耳を傾けています。

イエスさまは、一言も言葉を挟まれずに、弟子たちの話を聞いて

います。彼らの失望、悲しみの話。このような耳を傾ける姿勢は、

「共に歩む」「共に生きる」ことを目指すなら、大切になってくる

態度です。

そしてその後、イエスさまに話を聞き、それを振り返り二人の弟

子は思い出すのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明

してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(32

節)

復活の主は世の終わりまで、私たちとともにおられます。

                   (2019/04/20・21)