説教のミニ解説【5】  最新    2019/04/20・21~
 

「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、

めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬこと

がない。天使に等しい者であり、復活にあづかる者として、神の

子だからである。」 ルカによる福音書 20章35~36節

 

聖書によく登場する「ファリサイ派の人々」は律法を守る

ことを第一として、各階層から集まっていました。今日の福

音書に登場する「サドカイ派の人々」はファリサイ派と違っ

て、少数の裕福な貴族や祭司たちで占められている政治的な

支配階級であり自分たちの富や地位の安定を図っていたため

に現状維持を求めてローマと協力し保守的な姿勢を取ってい

ました。彼らは旧約の中でも、モーセが書いたと伝えられる

律法の書だけを強調。(預言書は重視せず。復活信仰の「ダニ

エル書」認めず。)「復活はない」と考えていました。

当時の「レビレート婚(モーセの律法にある)」を根拠に「復

活はない」というサドカイ派に、イエスさまは「次の世はこの

世の単なる継続ではない。死から解放された新しい人間になる。」

ことを告げます

                            (2019/11/17)
                        
           
 

「イエスは更に一つのたとえを話された。

エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも

現れるものと思っていたからである。」

           ルカによる福音書 19章11節

 

   

    1ムナ(1デナリ⇒1日の賃金。

1ムナは、100デナリに相当=約3カ月分の賃金)を主人から

任された僕は、それをどのように用いたでしょうか?

そのたとえの中で、イエスさまは「安全第一主義」を戒めていま

す。もう一つは、王位を受けるために遠国に旅立ったある貴い家

柄の人の留守の間の出来事をたとえにして、世の終わりに人の子

が再び帰って来られるまでの間、私たちはどのような心構えをも

って待つべきかを教えています。

                          (2019/11/9・10) 
            

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを

教えるために、弟子たちにたとえを話された。」

ルカによる福音書18章 1節

 

失望せずに、絶えず祈ることは、イエスさまに導かれた生き方

です。以下今日の日課以外の聖書の箇所から、祈りについて書

かれているところです。

 

  「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」

ローマ手紙12:12

 

  「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての

聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けな

さい。」      エフェソ手紙6:18

 

  「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも

感謝しなさい。」

        Ⅰテサロニケ手紙5:16~18

                     (2019/10/19・20) 
                      
          
 

「ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に

立ち止ったまま声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたした

ちを憐れんでください』と言った。」

ルカによる福音書17章12~13節

 

聖書の訳は、時代に応じて、差別語や不快語が読み替えられています。

今日の箇所の「らい病」も、「重い皮膚病」と年代の若い聖書には、訳し

替えられています。その「重い皮膚病」、すなわちハンセン病は、現在ほ

とんど完治する病で、日本全国で、発病もありません。

イエスさまの時代、ハンセン病は伝染病として不治の病として、社会

から隔離され、病者たちだけで生活し、旧約時代のおきてを守って、人

家に近づく事もできなかったのです。今日の聖書の人々は、イエスさま

を待ち望んでいました。

                       (2019/10/12・13)    
          
 

「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦し

てやりなさい。」

ルカによる福音書17章3節

 

今日の聖書には、イエスさまの四つの私たちへの、すすめが述べられて

います

一つに、「悪意を戒め」

二つに、「兄弟姉妹の罪を戒め、赦すこと」

三つに、「信仰の本当の力」

四つに、「謙遜について」

二つ目の兄弟姉妹としての戒めは、相手を責めるのでなく、それ以前に、

心の中にお互いの理解があることが大切です。

そして、それが可能なのは、私たちが悔い改めるずっと以前に、私た

ちの過ちをゆるしてくださった神様の愛を信じられることです。


                      (2019/10/5・6)    
             
 

「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者

の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れは

しないだろう。」

ルカによる福音書16章31節

 

今日の聖書には、「ラザロというできものだらけの貧しい人」

が出てきます。

イエスさまの数多くのたとえ話の中で、登場人物の名前が出て

いるのはここだけです。ラザロとは、ヘブライ語のエレアザル

(神は私の助け)のギリシャ語形です。死んだラザロは、

アブラハムのすぐそばに連れて行かれました。神様との親しさ

が表われています。それは悲しい死を迎え、葬儀も満足にしても

らわなかったラザロは、イスラエル民族の太祖であるアブラハム

のふところ、つまり神の家で心安らいだということ。

現代社会のラザロのような存在の人々を、神は見続けて

おられますね。

                                (2019/09/29)

          
 

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはでき

ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方を親しんで

他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、

神と富とに仕えることはできない。」

ルカによる福音書16章13節

 

今日の聖書を含め16章全体は、財産や金銭などの

富の用い方をテーマとしています。それらを通して、

私たちは、自分の日常生活と密着した問題として、

次のことを考えてみたいと思います。

「富の使い方についての基本的な心構えは?」

   「私たちは、毎日の生活において何をたよりとする

べきか?」

   「人生に行き詰まり、困難な状況になった時、どの

ように解決することができるか?」

                       (2019/09/22))
          
 

「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、

『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』

と言うであろう。」

ルカによる福音書15章6節

 

今日の聖書には、失ったものを探す「たとえ話」が二つ

ありますが、今日の日課に続く、15章11~32節の

「放蕩息子」のたとえ話を含め、三つの話は「福音書の

真珠」とも呼ばれています。神の真実である「神の私たち

へのいつくしみとゆるし」が語られています。

群れから離れた一匹の羊。それは罪人なる人間。

それを探す羊飼いはイエスさま。

道を見失った人間。失ったものを取り戻そうとされる

神の親心。感謝です。

 

                     (2019/09/14・15)

            
 

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、

だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」

ルカによる福音書14章27節

 

私たちすべての者が神の国に招かれており、その招き

に応じることは、神さまからの喜ばしい恵みに与ることで

あることを教えられます。

私たちは、自分を大きく見せる必要はなく、ありのまま

の姿で、主の招きに与ることが大切です。

そして、その招きに応じ続けるためには、「イエス・

キリストに従う」ゆえに、それなりにこの世との間に困難

が伴います。神への信頼と生活の忍耐、隣人への真実の愛

を持ち続けることによって、永遠なるものを得ることができ

ます。

今日の日課はそのことを示しています。

                (2019/09/7・8)

           
 

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、

入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

ルカによる福音書 13章24節

           

 たとえ話には、当時の習慣が背景となっています。当時は

一度閉めた戸口を容易に開けることはしなかったのです。そ

こでたとえ招待された人でも、自分の責任で時間までに間に

合わなければ、戸口を閉められて入れてもらえなかったので

す。とにかく、戸口が閉められる前に入るよう努めねばなら

ないのです。

それは、イエスさまに従う時、イエスさまについて、いろい

ろ知っているだけで、「今」与えられている機会を用いて入る

(戸口に)ことをしなければ、いろいろな口実を設けても取り

返しがつかないと言うたとえ話です。非常に厳しい答えですが、

真に心を主に向けて、選び進みたいものです。

               (2019/08/2425

           
 

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」

 

ルカによる福音書 12章49節

           

 49節の「火」とは、なんでしょう。火は、人々の心を清め、

イエスさまの新しい生き方に導く「愛の火」と言っていいでし

ょう。そして、その「愛の火」を地上に広めるために、イエス

さまは来られたのです。(「聖霊の火」と訳すこともあります)

しかしイエスさまの「愛の火」がともされた者は、イエスさま

と同じように、愛の火が全世界に広まるまで、苦しい思いもし

なければなりません。今日の聖書には、苦しい道であっても、

そこに自分の示された道を見出し、生きがいと喜びも見出し、

神と人に自分を捧げて進む、その覚悟はあるかと問うています。

                 (2019/08/1718

           
 

マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。

マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて

いたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹は

わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いに

なりませんか。

手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」

ルカによる福音書 10章39~40節

           

 お客様が来るとき、あなたはどうしますか。「掃除しなくち

ゃ!」「何の、おもてなしをしよう?」 いろいろ考えてしま

いますが・・。大事なのは、その人を迎え、心から歓迎する気

持ち。心と心が出会う場の設定ですね。あまり大げさなもてな

しはいらないかもしれません。けれど、それは私たちに任され

ていますね。

今日の聖書で、イエスさまを迎えたのは、マルタ、マリア姉

妹。

二人はイエスさまとどのような出会いをするのでしょうか。

 

             (2019/07/2728

            

「ところが、旅をしていたあるサマリヤ人は、そばに

来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷にぶどう

酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて

行って介抱した。」

ルカによる福音書 10章33節

           

 このサマリヤ人の態度は、イエスさまの話を聞いていた人た

ちが期待していた

~~おそらく、悪人として登場するだろうと思っていたかもし

れません~~

そのようなものとは違っていました。自分たちの敵対関係も忘

れて、哀れに思って近寄っています。理屈よりも、先に、心が

自然に動いたのです。律法から「せねばならない」といったも

のとは違っています。

 隣人。私たちが生活の中で、出会うすべての人々、あなたの、

わたしの、助けを必要としている人がいます。

                 (2019/07/2021
          

「イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを

顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」

ルカによる福音書 9章62節

           

 イエスさまに出会った私たちは、「私に従え」と言われる主

に従おうとします。

しかし、振り返ると、この世の持ち物や財産、人間関係を大切

にする中で、それが第一になり、主に従おうとした「決意」は

ゆらぎます。今日の聖書の「親」は大きな課題です。親を「愛

さなくてもよい」のではない。親を大切にしつつも、神を親以

上に愛さねばならない時があることを、み言葉によって悟り、

判断しなくてはならない。まさに、信仰によって、変えられな

いもの・無くしてはならないものを、祈りつつ求めましょう。


                     2019/07/1314

         

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

ルカによる福音書 9章23節

           

ルカ福音書で、初めて「十字架」ということばが出てきました。

当時の処刑方法のうちで最も恐ろしいのが、十字架刑でした。

ローマに反逆した外国人は、十字形(あるいはT字形の二つの種類

があったようです)の木につけられ肉体が腐敗するまで、みせしめ

のためにそのまま残されました。なんというむごい刑でしょう。

当時は、ローマ軍によって、その刑がしばしば執行されました。

その刑は、もっぱら外国人のためだけであって、ローマの市民権を

有している人々には、その刑を用いませんでした。

今日のみことばは、「イエス様の十字架を背負う生き方に従い

自分勝手な考えを捨て、日々、自分の十字架を背負って、従いなさ

い。」という呼びかけです。

 

            (2019/07/0607

             

「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

『この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、

あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は

涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。』」

ルカによる福音書 7章44節

           

イエスさまは、徴税人やファリサイ派の人から食事に招かれる機

会が割合多かったようですが、ルカ福音書では、それが4回ほど記

されています。イエスさまと食事を共にしながら、いろいろ教えて

いただいたのでしょう。今日の聖書は、イエスさまを、ファリサイ

派の人が「一緒に食事をしてほしい。」と願い、招いた場面です。

そして、その場所に入ってきたのが、一人の女性でした。

彼女は、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら・・・」

(38節)と、ひっそりと近づいています。続く姿にも、彼女の悔

い改めた心がよく表れています。

              (2019/06/30

         

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくても

よい』と言われた。

そして近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たち

は立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起き

なさい。』と言われた。」

ルカによる福音書 7章13~14節

           

今日の聖書の出来事は、ルカ福音書だけが伝えています。イエス

さまのあたたかい心づかいの言葉が感じられます。そして、奇跡は

起こります。一人の死んだ若者を生き返らせたのです。この出来事

によって、私たちを復活させてくださるイエスさまの使命が顕され

ます。「泣かなくともよい」と、今、主は私たちに呼びかけます。

生命の与え主としての、力強い主のお姿です。単なる教えではなく、

神様が働かれ、恵みが及ぶ。その事実にふれた時、私たちは喜びに

満たされ、そこからより深く信仰生活が続きます

 

             (2019/06/2223

           

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、

あなたがたには理解できない。しかし、その方、

すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて

真理をことごとく悟らせる。」

ヨハネによる福音書 161213

           

 12節の「あなたがたには理解できない。」と訳されている

原語は、あなたがたには「堪えられない。」「耐える力がない。」

とも訳すことができる。だが、恐ろしくて聞くにたえないと言

う意味ではない。それは、弟子たちには、彼らの理解力を越え

た真理がなお隠されているという意味になる。

福音の真理には、その時にならないと理解尽くせない秘密が

隠されている。この真理を弟子たちの心に伝えるためには、「聖

霊」の働きがどうしても必要である。

 

               (2019/06/1516

         

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、

彼らが座っていた家中に響いた。」

          使徒言行録 2章1~2節

 

五旬祭、すなわちペンテコステの日に、そのことは起こった。上

記の聖書の出来事であり、続く2:3よりは「聖霊が注がれた」こ

とが示される。イエスさまが十字架につき、復活されたから、50

日目の出来事である。イエスさまは前もって、この「聖霊降臨」を

約束されていたのであり、弟子たちはその言葉を信じ、皆、一つと

なって集まっているところに、実現した。

神の約束、それを私たちは信じ、従っていく。

神を信じる民の群れを、神は「教会」として導く。教会の使命は、

人間が何かを、なすのではなく、神がこの時代に生きる私たちを、

神のみ旨を通して、働かせて下さること。私たちは絶えず神に聞き、

行く道を尋ね、神の家族として歩もう。

             (2019/06/08・09)
               

          

「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、

手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、

天に上げられた。」

 

    ルカによる福音書 24章50~51節

 

昇天の時、「手を上げて祝福された。」というキリストの姿は、

旧約聖書の大祭司の姿を示しています。そしてキリストは私た

ちの罪のために自分自身を捧げ、旧約の時代の「神にいけにえ

を捧げた」、新約の時のただ一人の大祭司です。

もう毎日いけにえを捧げることは必要ないのです。十字架の

贖罪によって、キリストなるイエスさまは、父なる神と人間との

間を完全に結ばれ、私たちが神との親しい交わりのうちに生きる

「恵み」を与えてくださったからです。

            (2019/06/0102

         

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与え

る。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。

心を騒がせるな。おびえるな。

『わたしは去っていくが、また、あなたがたのところに戻

って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。」

     ヨハネによる福音書 14章27~28節

 

今でもユダヤ人は、朝夕の挨拶に「シャローム」と呼び交わす。

それは「ごきげんよう!」という挨拶である。イエスさまはそのよ

うな日常化した語法に対して、自分が残していこうとしているもの

は最も深い意味での神の「平和(シャローム)」であることを宣言

された。それは、主の「十字架と復活」からくる救いの確信である。

イエスさまの死後、孤独と敵意の渦の中に投げ出され、この世的

に見れば挫折のどん底にあると見えるときでも、なお神の賜う平安

に満たされ、生命の充満に感謝することができる。先週の「愛の掟」

に続く決別の説教の中の言葉である。

                (2019/05/25・26)
         
 

さて、ユダが出ていくと、イエスは言われた。

「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって

栄光をお受けになった。」

ヨハネによる福音書 13章31節

 

最後の晩餐の席から、イスカリオテのユダが出て行ったことは、

一つの決定的転換を意味する出来事でした。ユダは悔い改めて、イ

エスさまのみもとに帰り行く機会を放棄したことを意味します。

イエスさまの側から見れば、今や弟子の裏切りによって生命を奪わ

れることが、この世での出来事として最終的に確定しました。

そして今日の日課には、「栄光」という言葉が繰りかえされます。

この「栄光」という言葉に含まれる、深い神の示しが私たちを導き

ます。神の栄光が、人間の罪に基づく神の子の受難を通して顕され

るのです。

栄光教会という名前を頂いた私たちの教会。感謝を持って主の栄

光を仰ぎましょう。

                       2019/05/19
     

 

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。私は彼らを知ってお

り、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。」

 ヨハネによる福音書 10章27~28節

 

ギリシャ語の「エゴー エイミー」(わたしは・・・である)の

定型句は、ヨハネ福音書に一番多く(29回)、重要な意味を持っ

ている。今日の10章20節からは10章14節のエゴー・エイミ

ーの定型句「わたしは良い羊飼いである。」を含む、1~30節の

脈絡の中で読むことができる。

私たちはイエスさまを「羊飼い」として、その「声」を聞き、そ

の後に従う。「羊飼い」なるイエスさまは「彼ら」(私たち)を知っ

ており、永遠の命を与えてくださる。「彼らは決して滅びず、だれ

も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28節後半) 私

たちは、主のもとで、全く安全である。

            (2019/05/11・12)
        
     

 

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に

立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」

ルカによる福音書 24章 36節

 

今日の日課は、復活されたイエスさまが弟子たちに現れた箇所です。

福音書の記録では、イエスさまはまず、エルサレムで女性たちに現れ、

それからエマオで現れ、その後、二階の広間に現れました。マタイとヨ

ハネでは、ガリラヤで現れています。ルカではエルサレムの近くのオリ

ーブ山に現れ、そこから天に昇られたと書かれています。

これらの様々な記録はこの「現れ」の出来事が広範囲にわたっている

ことを証ししています。そしてその通り、パウロの記事がこの出来事の

証人が当時まだ生きていたことを具体的に示しています。

                  (2019/05/04・05)


          

 

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、

一緒に歩き始められた。」   

ルカによる福音書 24章 15

 

イエスさまは、希望を失った人に近づいてこられます。今日の聖

書では、「一緒に歩き始められた。」とあります。そして悲しみの中

に沈む弟子たちに、「歩きながらやり取りしているその話は何のこ

とですか。」(17節)と言って耳を傾けています。

イエスさまは、一言も言葉を挟まれずに、弟子たちの話を聞いて

います。彼らの失望、悲しみの話。このような耳を傾ける姿勢は、

「共に歩む」「共に生きる」ことを目指すなら、大切になってくる

態度です。

そしてその後、イエスさまに話を聞き、それを振り返り二人の弟

子は思い出すのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明

してくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(32

節)

復活の主は世の終わりまで、私たちとともにおられます。

                   (2019/04/20・21)