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マルコによる福音書11213

 

  それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

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『荒れ野での誘惑』

 

 

 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。といって、今日のマルコ福音書のみ言葉は始まっております。

 

すぐ前のところを読みますと、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時、この“霊”が鳩のように降りて来たと書かれております。美しい光景が描かれているわけです。

洗礼者ヨハネの紹介の後、イエス・キリストが登場してきて、何をなさったかと言えば、まず洗礼を受けられた。他の民衆とご一緒に、洗礼を受けられたといって、マルコ福音書は始まる。

ただ、一緒に洗礼を受けたと言っても、他の民衆と違ったことがあった。それは、イエスが洗礼を受けられると、天から神の霊が降りてきた。しかも鳩のように。平和と愛のシンボルである、鳩の姿をもって神の霊が降りてきた。

 

それだけではない。声も聞こえてきました。父なる神様の声が聞こえてきた。あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と。天の神様が、ただお一人、おまえはわたしの独り子だ、と。特別に、わたしの心に適う存在だと。

 

わたしたちの社会で言えば、たとえば、上司に特別に気に入られている部下のようなものでしょう。ほかの部下たちと並べてみて、特にお眼鏡にかなう。そして、陰でこっそり伝える。心配するな、お前の次のポストは用意してあるから、おれが何とかするから、と。

 

たとえは悪いかもしれませんが、天から聞こえた神様の声は、そんな感じです。

お前はわたしの御曹司。特別だ。お前は、わたしの心に適う者だ、と。分かりやすく言えば、わたしはお前が特に気に入っている、大好きだ、ということです。

 

そのしるしとして、神様の霊が鳩のように降りてきました。ところがすぐに状況が変わります。

「それからすぐ!」新共同訳聖書は、どうしてか、この「すぐ」という単語を訳さなかったのですが、「それからすぐ、」と聖書の原文には書かれています。

“霊”が鳩のように降りて来た。そういう麗しい出来事が起こったばかりなのに、「それからすぐ、」その“霊”がイエスを荒れ野に送り出した、と続いていきます。

 

ここで使われている単語を、少し細かく見ていきますと、“霊”がイエスを荒れ野に送り出した、とあるところ。この「送り出した」と訳されている言葉は、≪追いやる、追い払う、追い出す≫といった意味です。

 

聖書の別のところで、どういう風に使われているかをみると、たとえば、主イエスが、エルサレムに入られた時、何をなさったか。そこで商売をしている人たちや両替をしている人たちの台をひっくり返し、彼らを追い出した、と書かれています。あの、商売人たちを追い出された、というときの単語が、ここでの単語です。

あるいは、イエス様のなさったぶどう園のたとえ話。収穫の季節が来たので、主人が僕たちをぶどう園に送った。ところが、農夫たちは、この僕たちを袋叩きにした、そして追い出した、とあります。あれも同じです。

さらにもう一つ言えば、聖書の中で何回も出てくる、イエスは悪霊や汚れた霊を追い出された、という言い方があります。あれも同じ。つまり、大変強い言葉です。

 

今、それと同じように、あの時、イエスさまが、商売人たちを追い出されたように、悪霊を追い出されたように、農夫たちが僕たちを追い出したように、今、神の霊は、主イエスを荒れ野に追い出した、追い払った、と書かれております。

あの、霊が鳩のように降りて来たという、麗しさが消えています。

しかも、洗礼の出来事は、その日だけのこと、一瞬のことですが、この荒れ野での日々は四十日間です。そういう過酷な試練が待ち受けるところに、追いやられた、無理やり送り込まれた、と伝えております。

 

さて、そのように追いやられた場所は、荒れ野でした。

皆さんは、この荒れ野という言葉をお聞きになって、どんなイメージをもたれるでしょうか。花が咲いた感じはないでしょう。花が咲いているなら、そこは荒れ野とは呼ばれない気がします。石っころや、乾ききった砂地などが連想されるのではないでしょうか。

 

ただ、この荒れ野という言葉も、少しその言葉を学びますと、これは、捨てられた場所、という意味が込められています。捨てられた場所。誰に捨てられたか。人々に捨てられた場所です。

 

たとえば、現代風に言えば、売りに出されたけれども、誰も買い手がつかなかった土地ということになるでしょうか。人が目を向けない。もちろんそこに住むこともないし、行こうともしない。そういう、捨てられた場所。それが荒れ野です。

 

興味深いことに、聖書の中で、ほかにどういう風に訳されているかと言いますと、人里離れた場所、と訳されています。聖書に精通しておられる方であれば、ああ、人里離れた場所と言えば、イエス様が、しばしば、祈るために出て行かれた場所だ、と思い出されるでしょう。そう、イエスは祈るために人里離れた所に行かれた、というときの単語、これが、ここでは、荒れ野と訳されています。

 

その意味では、ただ、花が咲かないという、見た目の状況よりも、とにかく人が近寄らない、そこに行っても、まず誰とも会わない、なぜなら、人がみな捨てた場所だから、人に捨てられた場所、人に見放され、人に見捨てられた場所だから、ということになります。神の霊は、そのようなところに、主イエスを追いやりました。

 

イエスは、この地上に来られた。父なる神様によって、送られてきた。

それはどんなところへ行くためであったかと言えば、人に見捨てられたところへ行くためであった、と読むことができるのが、この一節です。

 

その場所に送り込まれ、四十日間、そこにおられました。そして、その間、サタンから誘惑を受け続けられました。

 

さて、そこで、聖書をよく読んでおられる方は、ひとつ、自分の中にある知識が出てきます。それは、この四十日間、イエスさまは、断食しておられたはずだ、と。

マタイやルカの同じ話を読むと、イエスは、この荒れ野において四十日間断食し、空腹を覚えられたと。その時、サタンがやって来て、おなかがすいたのか、神の子なのだから、そこに転がっている石をパンに変えたらいいではないか、と誘惑したと。そのイメージが、強く残っておられることと思います。

 

荒れ野でのサタンの誘惑と言えば、荒れ野での四十日間の断食、そして、三つの誘惑。石をパンに変えてみろ。そして、神殿の屋根の上から飛び降りてみろ、そして、わたしの前でひざまずいてみろ、すべてを与えるから、という、あの三つの誘惑が出された。

それに対して、イエス様が、すべて、聖書のみ言葉によって退けられた、と。

教会生活を長く続けておられる方の頭の中には、そういう流れがしっかり入っておられると思います。

 

しかし、このマルコ福音書を読むと、何も書かれていません。三つの誘惑の中の一つも書かれていない。よく読むと、断食したとも書かれていない。むしろ、食事は与えられていた、と考えられます。

最後に、天使たちが仕えていたとあります。この「仕えていた」という表現は≪給仕をしていた≫という言葉です。食事の世話をしていたと読めます。

ギリシャ語ではディアコニア。あの福祉村の老人ホームと同じ。お仕えする、奉仕する、という言葉。特に、食事の世話、給仕する、ということです。

 

四十日間、天使たちが、イエスのもとで給仕していた。なにもない荒れ野だけれども、どうやって生きておられたかと言えば、神のみ使い、天使たちが来て、お世話をしていたのですと。

四十日間という期間、サタンの誘惑にさらされ続けた。野獣もいた。同時に、天使たちが仕えていたと。

 

これは、イエス・キリストのご生涯を象徴するような個所です。これから送られる地上での日々を象徴するようなみ言葉です。

神のみ子イエス・キリストは、この地上に送り込まれた。追い出された。追いやられた。それが、父なる神様のみ心だった、と。

 

昨日、藤枝礼拝堂で東海教区の女性会連盟の総会がございました。会場教会ということで、たくさんの会員のみなさんが、裏方のお手伝いをするためにおいで下さいました。

そして、新しい役員さんが5名選ばれました。それは、すんなりいかないところもあったものですから、終わった後、いろいろな方とお話をしていたら、やたらと「神さまのみ心だから」「神さまに選ばれたのだから」と、自らに言い聞かせるかのように、盛んに言われていたのを、耳にしました。

そう、これは、うれしい時にはあまり使わないのかもしれません。自分の意に沿わないとき、まさに、そこに追いやられた時、それが神のみ心だから、と受け止めるのだと思います。

 

イエス様のご生涯は、まさに追いやられたご生涯です。

父なる神様に追いやられた。無理に駆り立てられた。

わたしはこのマルコ福音書一章を読んでいて、サタンは何を誘惑したのだろうかと考えると、サタンは、そのみ心を聞くのはもうやめたらどうだ、と誘惑したように聞こえます。馬鹿馬鹿しいだろうと。もっと実のあることがお前ならできるだろう、もっと充実した時間の過ごし方もあるだろうと。あの声に従うと、いつも遠回りだったり、面倒くさいことだったり、自分の気持ちを何とか納得させないといけないことだったりするだろう。

追いやられる人生の何が楽しいのか、とサタンは誘惑したのではないだろうか、と思えます。

 

しかし、イエス様はその荒れ野にとどまられました。追いやられたその場所に留まられました。

 

この荒れ野とは何か。わたしたちの住む世界、いや、わたしたちの心の中が実は荒れ野です。

 

この世界はすばらしいか。わたしの心の中は美しいか。

そこには、どうしようもない闇があります。神さまから見捨てられても仕方がないくらいの闇があります。教会の群れにも闇があります。いろいろな意味で。

 

でも、そこは、だから見捨てられた場所なのか。

違う!そこに、神様はイエス様を追いやられました。ここに留まれと。なにも生まれそうもないこの荒れ野に行って、そこに留まれと。それがみ心です!

 

サタンは囁いたかもしれない。神のみ子よ、お前はこのような愚かで身勝手で、恩知らずの人間たちのために命を捨てるのか。感謝もしない人間のために、命を捨てるのか。自分を造ってくれた神のことを知らない人間のために、それどころか、お前のことを馬鹿にして、神の子なら降りて来てみろ、と叫ぶような人間のためにお前はその命を捨てるのか、と誘惑し続けていたと思います。

 

まさにこれはイエス様のご生涯の縮図です。

イエス様は、この誘惑の中で、そのご生涯を歩み通されました。その都度、人里離れた場所へ行っては父なる神様に祈られ、み心を聞きながら、歩まれました。

この人間たちを、わたしは愛している、愛してやまない、決して見捨てられない、捨てられた場所、荒れ野のままで放っておけない、この人間たちを救うために、わたしはお前を追いやる、この荒れ野に追いやる、行ってくれ、そこに留まり続けてくれ、というみ心がイエス様を押し出していました。

 

そのみ心に従い続けて下さったイエス様によって、わたしたちは救われました。救われて今があるのです。

 

ときに、わたしたちの心も不毛の地のように、渇きます。また、周りから見捨てられ、お先真っ暗にも思えます。

その時、思い起こしましょう。この荒れ野にこそ、父なる神様はイエス様を送り出して下さる。今この時こそ、イエス様は一緒にいて下さるのだ、と。

 

四十日間、荒れ野に留まり続けられたイエス様。いま、イースターまでの四十日間、この四旬節、わたしたちも、共におられるイエス様をしっかり覚えながら、過ごしていきたいものです。

 

                       200932礼拝にて

 

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