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マルコによる福音書103245

 

  一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

 

  ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」


                             「仕えるために」        マルコ福音10章32−45節


 今、木曜日の藤枝礼拝堂での「聖書入門講座」では、ルカ福音書を読み続けております。参加者の皆さんと、一章の一節から少しずつ読み始めて、現在18章まで来ました。

ウィークデーのひと時、聖書を読んで一緒に祈る。これは信仰の成長のためにとても有益です。お時間ある方はみんな来てください。時間を作って来てください。ウィークデーの集まりは私には関係ない、と思っておられる方もあるようですが、どうぞお集まりください。絶対に損はさせませんから。

 

さて、藤枝礼拝堂ではルカ福音書を読み進めています。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、どれであっても、福音書をはじめから読み進めていきますと、途中から雰囲気がガラっと変わります。

何が変わるのか。

途中までは、イエス・キリストがガリラヤにおいて宣教活動をしておられる。カファルナウムとか、ガリラヤ湖のほとりとか、湖のあっちへ行ったり、こっちへ戻ったりしながら、宣教をしておられる。そこでは、大勢の取り巻きがあったり、どこへ行ってもイエス様、助けて下さい、と頼まれたり、その服の裾にだけでも触ろうとする人がいたり、イエス様は大人気です。

ガリラヤの春などと聖書学で言います。ガリラヤにいる時は春。わたしたちももうすぐ春を迎えますが、イエス様のガリラヤで過ごされた時間は春。

 

でも、その春の時間をずっと続けようとはなさいません。

あるところから、イエスさまは、ガリラヤをお離れになります。その歩みがエルサレムに向けられるのです。ルカ福音書で言えば、そのターニングポイントは、9章にあります。9章の終り51節にあります。ちょっと読んでみますと、こういう一節です。

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。

 

これは有名な一節です。ターニングポイントとしてとても分かりやすいからです。ルカ福音書は、この一節を境に、前半と後半に分けられます。

 

現在、木曜日の聖研では、ルカ福音書18章を学んでいるので、エルサレムへの歩みが進み始めて、かなりたったところになります。書かれてある一つ一つの出来事も、ああ、エルサレムに向かう途中で、そのことを十分意識なさりながら、イエス様はこれを言われたのだな、ということを考えながら読むことができるのです。

 

本日、与えられましたマルコ福音書のみ言葉も、まさに、エルサレムへの歩みの中でなされています。もうガリラヤの春は終わっています。しかも、その歩みが勢いを持ち始めている。こう書かれています。

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。

 

おそらく、今まで一緒に進んでいるとき、イエス様は必ずしも先頭に立っておられることはなく、弟子たちが先に行くこともあったのでしょう。

でもこの日は、イエス様が先頭に立って進まれた。しかも、その姿を見て、周りの者は驚き、恐れたほど。

鬼気迫るものがあったのでしょうか。ルカ福音書では、決意を固められたと書かれてありました。その顔が、わき目も振らず、まっすぐ向けられたということです。

 

それまでは、周りの人たち、病気の人や、悪霊に取りつかれた人や、悩み事を相談する人など、いろいろな人をご覧になり、会話も交わされた。

でも、もうイエス様のお顔はあっちこっちに向いていない。まっすぐ向いている。決意が固まっている。エルサレムに向かって。

弟子たちも、驚き、恐れるほどに、その顔がまっすぐに向いておられました。

 

そのような鬼気迫る表情のまま、エルサレムで起こることについて語られました。

ご自身が、人々に引き渡されて、死刑を宣告されて、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれ、殺される。そして三日目によみがえられると。

 

今日の個所は、三度目の受難予告でありますが、二度目の時、弟子たちは、その意味がよく分からなかったけれども、怖くて尋ねられなかったと書かれています(932)。

おそらく、今日の、この、三度目においても同じだったのでしょう。

弟子たちは、そのことを尋ねておりません。むしろ、その表情を見ているだけで、驚き、恐れていました。

 

さて、しかし、その近寄りがたいイエス様に、すっと近づいて行った二人がいました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。しかも、その鬼気迫る主イエスに、二人は機先を制するような言い方をしました。あとでお願いする内容も割と厚かましい内容ですが、まず、主イエスをぐっと抑える言い方ではじめます。

「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

 

ある牧師の説教を読んでおりましたら、これは、分かりやすく言えば、ちょうど妻が夫に「ねえ、ちょっと聞いてね。怒っちゃだめよ。黙ってウンと言って」という感じだと書いておりました。

なるほど、そのくらい甘えた感じなのかもしれません。妻が夫にでもいいし、子どもが親にねだるときを考えて下さってもいいでしょう。それは、イエス様に対してちょっと失礼なものの言い方かもしれないが、しかし、裏を返せば、ヤコブとヨハネは、主イエスに対して、そのくらい親密な気持ちをもっていたのだ、とも書いておられます。

夫婦でも、親子でも、黙って聞いてね、お願いを聞いてちょうだい、と言えるのは、仲がいい証拠です。信頼関係がある証拠です。

 

実際、ヤコブとヨハネは、十二弟子の中で重要な存在です。全体の委員長がペトロだとすれば、この二人は、副委員長と書記くらいです。いつもイエス様のそばにいます。重要な出来事の時、いつも一緒にいる二人です。

 

そして、イエス様も、彼らの願いをきちんと聞いておられます。イエス様は、確かに二人の話を黙ってお聞きになり、それを受け止められました。

でも、まったくそのままに、というわけではありませんでした。

お前たち二人の言いたいことは分かった。でも、少し分かっていないところがあるようだ、と。

 

そこで、言われる。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼をお前たちも受けられるかと。

 

という言葉をおっしゃいました。杯は、お酒を盛って飲むための道具ですが、それはおいしいお酒ばかりではありません。毒を盛られることもあります。昔の王様たちは、毒見係を置いて、前もって杯の毒を確かめさせていました。

そういった意味もあるので、というのは、それを一緒に飲むということを、運命を共にすると考えてきました。

 

わたしの好きな讃美歌の一つは、『讃美歌』285番です。

「主よ、御手もてひかせたまえ、ただわが主の道を歩まん、いかに暗く、けわしくとも、み旨ならばわれいとわじ」あの歌の三節はこうです。「主よ、飲むべきわが杯、選び取りて授けたまえ 喜びをも、悲しみをも満たしたもうままにぞ受けん」

主が注がれるままの。それが何であれ、飲みますという思い、神様へのあつい信頼が込められた歌です。

 

イエス様も、二人に尋ねておられます。たとえ、そこにどんな運命が待っていても、それが主がお備えになられた運命ならば、ためらわず、悲しむこともなく、ぐっと飲むか。

 

 イエス様ご自身は、今、エルサレムに向かう決意を固めておられる。周りのみんなが驚き恐れるほどの勢いで、先頭に立って進まれる。そこに盛られているを飲むために。

 

しかし、それは、大変なことでした。どのくらい大変だったかと言えば、いちばん最後、主イエスご自身、父よ、この杯を取りのけて下さい、と祈られたほどです(1436)。

ただしかし、わたしが願うことでなく、み心が行われますようにと祈られました。

そして、ついに、十字架につけられるという杯を飲まれました。

 

今、まさにヤコブとヨハネにも、同じことをおっしゃっておられる。

いや彼ら二人だけでなく、ほかの弟子たちも集めて、おっしゃっておられる。

そして、今、ここにいるわたしたちにもおっしゃっておられる。

 

父なる神様から用意された杯、飲めるか。

たとえ、それがどんなに苦くても、それがみ心ならば、という一心で飲めるか。

 

イエス・キリストときょうだいになる道は、人に仕える道と言われます。

父なる神様から注がれた杯は、そういう杯だと。

 

さて、そこでわたしたちは、問われる。

すべての人に仕えて生きるという杯を飲んでいるのかと。

そう簡単に飲めません。できれば、このわたしのために誰かが仕えてくれるような、甘い杯も飲みたいな、と欲している。それが本心ではないでしょうか。

 

それが、わたしたちの正体です。それが、ヤコブとヨハネの願いです。彼ら二人のことで、十人が腹を立て、みんなを集めて、みんなにお話しなさったように、この厚かましさは、ヤコブとヨハネだけの問題ではないのです。

 

イエス様は、そのを受けられました。それは、身代金だったと言われます。

その杯を受け取りたくないな、という罪深いわたしたちのためにイエス・キリストが受けられたは、ご自身が身代金となること。誘拐された人を取り戻すように、罪の深みの中にいるわたしたちを助け出すために、受けた身代金となることでした。

 

また、もうひとつ見逃せない表現があります。

異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、というところ。

何気なく書かれていますが、支配者と見なされている人々というのは、痛烈な一言です。

 

本当は支配者ではない。いや、本当の支配者を知らないから、ああいう生き方をしてしまっているのだ、という皮肉にも聞こえます。

この世では、・・・神なきこの世では、力を持つ者、上に立つ者が支配者だと思われている。でも、本当の支配者はだれか、そして、本当の支配者はどういう風に支配しておられるか。それを、あなたがたはよく知るべきだと。

 

真の支配者は、御自分を身代金とするほどの愛。

この世で最高の支配者は、愛である。

その愛の究極は、ご自身をささげた神ご自身。独り子を身代金としてまで、わたしたちを愛しておられるお方。このお方の愛こそが、世を支配する。

この愛によって、わたしたちは救われるのです。

 

わたしたちの前に用意された杯は、神様の愛という名の杯です。

これを飲みなさい。・・・いや、イエス様は、これを飲みなさい、というのでなく、あなたがたは飲むことになると言われました。

これも、ヤコブとヨハネたちだけでなく、今ここにいるわたしたちへの言葉です。

 

キリスト者となられた皆さんは、実際に、杯を酌み交わしています。「これはキリストの血です」と言って授けられる葡萄酒の注がれた杯。あの杯を、信じて飲んでいます。

 

あの杯に込められているのは、「わたしたちの罪のために流されたイエス様の血」ということ。「その血のゆえに、わたしたちは救われた」ということを信じて、飲んでいます。

わたしたちのために、イエス様が身代金となって下さったことを信じて、あの杯を飲んでいます。

 

あの杯を飲むということは、「私は赦されて生きている罪びとです、私は神様の憐れみによって生きています」ということです。その思いを日々確かにしていなければなりません。

 

弟子たちがふらついていても、イエス様の歩みは確かでした。

それはわたしたちを救うための歩みでした。その歩みが全く揺るぎないものだった、と今日のみ言葉はわたしたちに語っていたのです。

感謝して、ともに祈りましょう。

 

                                         200938日礼拝にて

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