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 ルカによる福音書12638

 

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

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『御心が成るように』

 

 今日の日曜日は、主の母マリアの日として祝っております。

ご存じのように、クリスマスは1225日。その日を、神のみ子イエス・キリストがお生まれになった日としてお祝いをしております。そのように日を定めますと、マリアがイエスをその胎に宿したのは十月十日前で、この三月にあたります。

四旬節の期節ですが、今日は、主の母マリアを通して、信仰に生きる喜びを学びたい、また彼女の身に起こった神さまのみわざ、神さまの御心をご一緒に学びたいと思っております。

 

このルカ福音書1章のみ言葉を読んでおりますと、説教のテーマとして取り上げたいところが目白押しという気がします。どの一節をとっても、恵みに満ちていると思うのです。

その中で、多くのクリスチャンが間違いなく、これはとても大事な言葉だ、と無条件に認めることのできる一節は、おそらく結びの天使の言葉、神にできないことは何一つない。という一節であろうと思います。

 

わたしたちも普段、全能なる神さま、と言います。お祈りする時にしばしば、それを枕ことばのようにつけて言います。

神さまは全能です。なんでもできます。だから、神さまです。

クリスチャンになった者は、そこに疑いを持っていないでしょう。そこに疑いを持たないから、キリスト者となったと言っても過言ではないでしょう。

 

でも、神様が全能です、ということを信じていると言う時に、そこには必然的に、もう一つのことがくっついて来ます。それは、全能なる神さまだから、そのなさることは間違いがないのだ、という信仰です。

信仰は、そこで試されると言ってもよろしいほどです。

 

たとえば、神様が全能者であるということについて、わたしたちの信仰がぐらつきそうになる時があります。それは、わたしたちの祈りがかなわない時です。今、ここで、神さま、あなたの出番ですよ、早くおいで下さい、今こそ、御力をふるって下さい、と祈る。

しかし、何も起こらない。願いどおりにならない。つらい思いをしてしまう。

その時、果たして、神様は本当に全能なのか、と疑いが芽生えます。

 

わたしは、今、少し日本のキリシタンの時代を学び直しています。

わたしたち、プロテスタント教会の者は、フランシスコ・ザビエルによって最初にキリスト教が伝えられた後のこと、豊臣秀吉のあたりくらいから禁教令が出されたり、迫害が起こって行ったこと、キリシタンたちが隠れて信仰生活を続けていたこと、果たしてどのような思いで、そして、どのようなあり方で信仰を守り続けていたのか。あまり勉強していません。

 

鎖国が解けて、再び宣教師たちがやって来た時、そこにキリスト者たちがいたのですが、それまでの間、どうやって信仰を守っていたのか。中世から近代に至るくらいの間、そこはカトリック教会からの宣教師たちだけがやって来ていて、プロテスタントの宣教師がやって来たのはそのずいぶん後ですから、わたしたちは、あまり知る機会がないのです。本屋さんに行ってもカトリックの本屋さんに行ったほうが、そういった時代の歴史の本は豊富にあります。いくつか読みながら、信徒の皆さんにも、これはよいと思えるものがありましたら、いつかご紹介できれば、と思っております。

 

話がそれましたが、何を言いたかったのかと言えば、その隠れキリシタンの時代、今日にも明日にも殺されるかもしれないという時代、神さまのことをただ信じて、祈ったり、讃美歌を歌ったり、聖書を読んだり、という生活をしていたいというだけで命を狙われる。そんな不条理なことがあるなんておかしい。神さま、あなたもおかしいと思うでしょう。おかしいと思うなら、神さま、今、出て来てください。あなたは全能なるお方です。この世のどんな力も及ばない、どんなことでも出来るお方です。今こそ、奇跡を起こして下さい。そんな祈りもあったのでは、とその時代のことを思うと考えてしまうのです。

 

もちろん、そのような時代でなくても、皆さんの日常生活の中で、特につらい状況、悲しみの状況の中で、神さまに対して今こそ助けてください、主よ、今こそ、奇跡を起こして下さい、全能なる主よ、と祈られることはあるのではないでしょうか。

そして、その祈りがかなえられないことを、幾多も経験しておられると思います。

 

願いがかなわない、自分の願いどおりに、神様が全能の力を発揮して下さらない、ということを経験しながら、それでも、神様が全能であるということを信じる。そこで生まれるのは、神さまの御心を知る、ということです。

 

だから、全能の神さま、という時に、もう一つの言葉を添えることがあります。それは、全知全能の神さま、という言葉です。

なんでもご存じで、なんでもできる神さま、と。その「なんでもご存知」という部分があって、そのうえで、「なんでもできる」神様を信じる。

 

神さまがなんでもご存知、という時、それは、裏を返せば、わたしたちは、何でも知っているわけではない、わたしたちには知らないことが多い、ということです。

神さま、今こそ、あなたの出番です、とわたしたちが祈っても、そんなふうに言いきっても、なんでもご存知の神さまが、いや、今は出番ではない、と言われたら、そちらが正しいということをわきまえる。

そこに、神さまの大きさ、神さまのお力、神様だけが神様であることを、無条件に認めることが求められる・・・それが神の前に生きる僕の姿と言えましょう。

 

マリアは言いました。わたしは主のはしためです。と。はしため。女奴隷という意味です。奴隷とか、僕と訳される言葉の女性形です。わたしは僕です、という意味と同じです。

神さまの全知と全能を知り、神様を心から尊敬し、畏れ敬い、わたしの願いではなく、何でも知っておられる神さまのお考えになることが一番です、という信仰・・・。

 

でも、そういうふうに考えてくると、なんだかもう祈ることは馬鹿馬鹿しいことのように思えるかもしれません。どうせ、全知全能の神さまが、そのご計画、その御意志によって、何でも一番よいようにしてくださるなら、わたしたちの出番はないではないか、と。

そう、わたしたちの小さな脳みそで考えると、そんな結論も一つ生まれてしまいます。でも神さまは、・・・全知全能の神さまは、そうお考えではないようです。それは、御心にかなわないようです。

では何がお望みか。二つのことを、今日は考えたいと思います。

 

ひとつは、神さまは、わたしたちが、神様を畏れ敬いつつ、その畏れ敬いの心を持ったまま神さまと取っ組み合いをすることをどうやらお望みだということです。

 

わたしたちは例えば、自分の心の中で葛藤というものを繰り返します。うーん、こっちだろうか、いや、あっちだろうか、と心の中で迷いが生じたり、答えが見つからなかったり。自分の中で、もう一人の自分と闘っているような状態です。

 

それと同じように、神様と闘う。こればかりは譲れない、という思いを持って神さまのみ前に立つ。神さまの絶対主権を認めつつ、しかし、これは神さま、たいへん失礼なこととは存じますが、聞いていただきたいことがあります、ここはご主人である神様にも折れていただいて、わたしの願いを聞き届けてほしいと思っております、・・というくらいの思いで面と向かう。そのように正面切ってやってくることを神さまは、お望みのようです。

 

それは、つまり、そのくらい強い思いで、わたしたちが与えられたこの人生を生きているということになるからではないでしょうか。

どうせ、こんな人生、こんな命、どうなってもいいや、という思いがあるなら、何としてもこればかりは、という祈りは生まれません。

神さまと刺し違えてもいいから、聞いてもらいたい、というような祈りを抱くとき、それは、わたしたちが与えられた命を本気で生きている証でしょう。

 

聖書にも、讃美歌にも、礼拝式文にも、イスラエルという言葉が出てきます。普通、イスラエルと聞けば、あの中東で紛争の絶えない現在の国家のイスラエルを思い浮かべてしまうかもしれませんが、もともとこの言葉の意味は、神と闘う、という意味です。

神さまがお選びになった民を、神様ご自身がイスラエルと名付けられた。神と闘う民、神と向き合う民、と。

ルーテル教会の礼拝式文の最後、ヌンク・ディミティスで「み民、イスラエルの栄光です」と歌う時、あの国家としてのイスラエルではなく、常に神と向かい合い、神に祈る民、それはわたしたち自身のことだ、と受け止めて歌っていただきたいと思います。

 

さて、全知全能の神さまが、わたしたちに望んでおられること、二つあると申し上げました。もう一つは、神さまのご計画、神さまのなさろうとしておられることを、わたしたちが受け止めて、一緒にそれをなしていく、ということです。

 

神さまが全能で、全知であるから、わたしたちの出番はないのでしょう、ということではなく、神さまは、その御意志を成し遂げるために、わたしたちに一緒にやってくれないか、おまえにもアーメンと言って、わたしの気持ちをひとつ受け止めてほしい、と願っておられるということです。

 

今日のみ言葉は、そのことをよくあらわしていました。神さまは、ご自身のなそうとするみわざを、どんどん勝手にお進めになるのではなく、田舎に住んでいる一人の少女の協力を仰ぎました。今から、全人類の救いという、大プロジェクトを行いたい。おそらく、全人類の、全宇宙の中で、もうこれ以上ない大プロジェクト。それを神さまはご決断なさった。よし、これをやろうと。そのために、ナザレのガリラヤという小さな村に住む一人の少女にお願いなさいました。ちょっと砕けた言い方をしてしまえば、わたしの計画に乗ってくれないか、ぜひともお前の協力が必要なんだ、お前が協力してくれないと、この計画は断念せざるを得ないのだ、と言われたのです。

 

あなたの救い、わたしの救いが、二千年前の一人の少女の決断にゆだねられたのです。神さまの腹は決まった。あとは、このマリアという名の少女の決断にかかっている。

マリアも、葛藤しました。格闘しました。これはどういうことかと戸惑い、考え込んだ、とあります。さらに、どうして、そんなことがありえましょうかと疑念とも闘いました。しかし、その果てに、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。と言いました。

 

これは、わたしたちにとって遠い話ではありません。わたしたちも、与えられたこの命、この人生の中で、神さまから、救いのわざ、愛のわざ、奉仕のわざを一緒にやってくれないか、とお声をかけていただきます。それは、人の目には小さな、名もない働きかもしれないけれど、あの日、マリアが受け止めたのと同じ価値をもつものです。

 

そのような生き方を可能にするのは、わたしの願い、わたしの言葉の通りになることではなく、神さまのみ心、神さまのみ言葉の通りになるように、そのことを祈り、そのように生きていくことです。それを、神さまは望んでおられます。

 

いやあ、わたしは欲が深くて、自分の思いばかりだし、そんな立派な生き方はできない、と言いたくなるかもしれません。でも、そのわたしたちを、全知全能の神さまがお用いになられるのです。その時こそ、わたしの力ではなく、神の力を信じる。それが、信仰です。

 

神さまは今も生きて、わたしたちに働きかけておられます。

主よ、わたしはあなたのはしため、あなたの僕です。あなたのみ言葉が、あなたのみ心がこの身になりますように。・・・そう祈りながら、遣わされて行きたい、と思います。

 

                                    2009322日 礼拝にて

 

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