説教集 目次へ

 
 

イザヤ5213節〜5312

 

  見よ、わたしの僕は栄える。

  はるかに高く上げられ、あがめられる。

  それほどに、彼は多くの民を驚かせる。

  彼を見て、王たちも口を閉ざす。

  だれも物語らなかったことを見

  一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

   わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

  主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

  乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

  この人は主の前に育った。

  見るべき面影はなく

  輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

  多くの痛みを負い、病を知っている。

  彼はわたしたちに顔を隠し、

  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

   彼が担ったのはわたしたちの病

  彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

  わたしたちは思っていた

  神の手にかかり、打たれたから

  彼は苦しんでいるのだ、と。

   彼が刺し貫かれたのは

  わたしたちの背きのためであり

  彼が打ち砕かれたのは

  わたしたちの咎のためであった。

  彼の受けた懲らしめによって

     わたしたちに平和が与えられ

  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

   わたしたちは羊の群

  道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

  そのわたしたちの罪をすべて

     主は彼に負わせられた。

   苦役を課せられて、かがみ込み

  彼は口を開かなかった。

  屠り場に引かれる小羊のように

  毛を切る者の前に物を言わない羊のように

  彼は口を開かなかった。

   捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

  彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。

  わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり

  命ある者の地から、断たれたことを。

   彼は不法を働かず

  その口に偽りもなかったのに

  その墓は神に逆らう者と共にされ

  富める者と共に葬られた。

   病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

  彼は自らを償いの献げ物とした。

  彼は、子孫が末永く続くのを見る。

 

 主の望まれることは

     彼の手によって成し遂げられる。

   彼は自らの苦しみの実りを見

  それを知って満足する。

  わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

  彼らの罪を自ら負った。

   それゆえ、わたしは多くの人を取り分とし

  彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

  彼が自らをなげうち、死んで

  罪人のひとりに数えられたからだ。

  多くの人の過ちを担い

  背いた者のために執り成しをしたのは

  この人であった。

 

 

 

 

 

『主の(しもべ)の死』

 

  苦しみとは何でしょうか。苦しみは、いつどのように訪れるでしょうか。

  それは、負いたくないものを負うことです。遭遇したくないものに遭遇し、それと面と向かい合うよう強いられることです。

  苦しみがやって来た時、それは自分の思いをわきに置き、自分の楽しみをわきに置き、その苦しみを背負うことが求められます。そして、ただひたすら、それを背負うことに集中することが要求されます。

 

  しかし、わたしたちは、何かを背負うとき、ほかのどのときよりも、魂の叫びを知ります。神様への祈りを知ります。

 

  2009年の受苦日を迎えました。神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のために、身代わりの苦しみを背負われた日。

 自分以外のすべての人を救うために、御自分ひとりで、苦しみを背負われた日。

 

 わたしたちにとっては、救いの日です。

 わたしたちにとっては、命が与えられた日です。その意味で、喜ばしい日です。

 

 しかし、私たちの救いが、何によってもたらされたものなのか。そのことを知るとき、わたしたちは、手放しで喜ぶことができないことを知らされます。

救われた喜び、感謝を抱きます。しかし、それと同時に、大いなる畏れを抱く日です。

 

  この日、私たちに与えられております聖書の個所は、イザヤ書52章の終わりから53章までです。これは、イエス様のお生まれになる500600年ほど前に書かれたものです。

 しかし、信仰に生きる者がこの御言葉を読めば、これが、ほかのどの書物よりも、熱く、深く、重く、イエス・キリストご自身のことを綴っているということがわかります。

 

 ここにある「」と呼ばれている人物こそ、主イエスです。52章の14節にこうありました。

彼の姿は損なわれ、人とは見えず

  もはや人の子の面影はない。

 更に、53章の2節にも同じように記されています。

  見るべき面影はなく

  輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 

 これが、地上に来られた神のみ子のお姿です。

わたしたちは、時折、後光の差した神々しいまでのキリストの聖画などを見かけます。勿論、それは良いものです。私も、いくつかをもっています。

 

 しかし、ここで表現されている彼の姿は、神々しい聖画とは全く異なります。

彼の姿は損なわれ、人とは見えず

  もはや人の子の面影はない。

  見るべき面影はなく

  輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 

 彼の姿は損なわれ、・・・姿が損なわれているというのは、どういうことでしょうか。

たとえば、ニュースの報道などで、ひどい事故にあって亡くなった方のことを、「変わり果てた姿で帰って来てしまいました」と表現するのを耳にすることがあります。

どこか通じる表現にも聞こえます。

 

しかし、ここでは、彼は生きています。生きたまま、その姿が変わり果てたもの、損なわれた、と書かれています。

 

 ある聖書学者の方は、ここを≪彼の顔は破壊されていて≫と訳しています。

顔が破壊されている。これもこれで、すさまじい表現です。

 

 その結果、3節、

  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

  多くの痛みを負い、病を知っている。

  彼はわたしたちに顔を隠し、

  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

 は、これほどに損なわれた姿をしており、人々から見捨てられ、そして病を知っている。

 は健康を知っているのでなく、健康と親しんでいるのでない。は、病を知っている。病に伏せる日々を知っている。そのような日々に親しんでいる。

 天から降りて来られた神の独り子は、神々しい光に包まれているのではなく、人知れず、病の中にいる。痛みの中にいる。人々から捨てられた場所にいる。

 

  わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

無視していただけではない。ここまでひどい目に遭うというのは、は何かよほど悪いことでもしたのだろう。それで、神の罰を受けているのだろう、とまで考える。

 

彼が担ったのはわたしたちの病

  彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

  わたしたちは思っていた

  神の手にかかり、打たれたから

  彼は苦しんでいるのだ、と。

 

ところが、のんきに彼を見下していた人々が、まったく予期せぬことを知らされることになります。

 

 4節から。

   彼が刺し貫かれたのは

  わたしたちの背きのためであり

  彼が打ち砕かれたのは

  わたしたちの咎のためであった。

  彼の受けた懲らしめによって

     わたしたちに平和が与えられ

  彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

 あざ笑っていた。の姿を見て、人々は、あざ笑っていた。

そして、これほどまでに苦しむからには、何かひどい罰を受けているのだと見下ろしていた。一体、どんな罪を犯したのか、と眺めていた。

 

 ところが、思いも寄らぬことを知らされる。

それは、すべて、あなたの罪。これほどの苦しみを背負うことになる重い罪とは、ほかならぬあなたの罪。

 

 あなたは、それを他人事と思っている。よほどの悪人の話と思っている。そのために、彼が苦しんでいると思っている。

 しかし、この世のものとも思えぬほど、姿が損なわれるほどの、この苦しみを余儀なくされる罪とは、あなたの罪。

 

 ここにいる彼が背負っている苦しみ、あるいは、それが神からの罰であるとするならば、それは、あなたが負うべきもの。それを、今、彼が代わりに背負っている。

 

  彼の苦しみ、痛みの姿が生々しければ、生々しいほど、私たちの罪の深さが、いかにひどく、生々しいものなのか、ということを、この詩は教えてくれます。

 

 昨日、焼津礼拝堂で、聖木曜日の過越しの食事礼拝を守りました。

過越しの羊の肉を食べました。

 

羊の肉を食す時の、式文の言葉は、次のようなものでした。

「過越しの小羊とは、その夜、聖なるお方がエジプトの先祖たちの家々の前を通り過ぎられる時を記念して、主にささげた小羊を表している。」

 

過越しの祭りの小羊。それは、犠牲の小羊。

人々の罪を背負って、身代りに焼かれて、殺される小羊。

祭りの時、それを食べる。おいしいお肉です。でも、やんや、やんやと騒いで食べられません。静かに食す。

なぜなら、今、自分が口に入れた肉は、わたしの代わりに殺された羊の肉。この羊によって、神さまは、わたしをお裁きにならず、わたしの前を過ぎ越される。

立ち止って、わたしの罪を裁かれるのでなく、わたしの前を過ぎ越される。この羊のゆえに。

 

イザヤ書にも歌われています。

 

苦役を課せられて、かがみ込み

彼は口を開かなかった。

屠り場に引かれる小羊のように

毛を切る者の前に物を言わない小羊のように

彼は口を開かなかった。

 

千九百数十年前の、この金曜日。が、小羊になりました。

イエス・キリストが、小羊になられました。

 

多くの人の過ちを担い

背いた者のために執り成しをしたのは

この人であった。

 

わたしたちの罪は、浜辺の砂のように、限りありません。

でも、わたしたちは救われます。

イエス様が、身代りの小羊となってくださったからです。

 

わたしたちは、救われた命を生きています。わたしたちの毎日は、あのお方の捧げられた命によって支えられています。

今日は、そのことを最も深く思いめぐらす夜です。

 

小羊なるイエス・キリストを思いつつ、しばしの黙祷をしましょう。

 

                                  2009410日 聖金曜日礼拝にて

 

 

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ