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マルコによる福音書1618

 

  安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

『復活の朝』

 

  先ほどお読みいただきましたマルコ福音書16章の冒頭に、「安息日が終わると」とか、「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ」と、これでもかこれでもかと、念を押すように≪時≫を示す表現が続いておりました。

 

  私たちが今こうして迎えた日曜日の朝。これが、週の初めの日の朝であります。イエス・キリストの復活は、この朝、起こりました。

  私たちは今日このことを記念するために、その喜びを分かち合うために、ここに集められております。今日ばかりでなく、毎週日曜日に世界中の教会が礼拝を守るのは、この復活の朝を思い起こすためであります。

 

  たとえ昨日まで、どんな生活をしていたとしても、どんな状態に置かれていたとしても、すべてのことに終止符を打って、イエス様の復活によって、新しい命、新しい今日へと導かれる。そして、希望に生きる者とされる。

 そのために、私たちは、週の初めの日を迎えるのであります。

 

  本日は、特に、その記念すべき時。2009年のイースター、復活祭です。

 御言葉によって命の糧をいただき、その喜びの知らせをご一緒に味わいましょう。

 

  イエス・キリストが葬られた後、その墓へと向かったのは、三人の女性でありました。彼女たちは、週の初めの日の朝、日が出るとすぐ墓に向かいます。日が出るとすぐという表現が、彼女たちのいても立ってもいられなかった心情をよく表しております。

彼女たちは、イエス様のご遺体に塗るための香料を買って、墓に向かいます。

 

  ただ、墓に向かう彼女たちの心には、一つの心配事がありました。

 それは、≪墓の入り口をふさいでいる石を、だれが取りのけてくれるだろうか≫という心配でありました。

  当時の墓は、洞窟のように横穴式で掘られ、その中に遺体を置き、またその遺体を運び入れる人たちが入れるほどでしたから、かなり大きなものであったようです。

 そして、その入り口を大きな石でふさいでおりました。

 

  今、墓に向かっておりますのは、三人の女性です。か弱き女性です。女性がみんなか弱き者かどうかは知りませんけれども、少なくとも、ここに登場する三人は、あの大きな石は動かせない、力自慢の男性陣がいなければどうにもならない、と思い、それが心配で心配でならないのであります。

 

 もっとも、体力的には弱いかも知れないけれども、この女性たちの行動は、特筆に値するものです。十二弟子たちは、この時、どうしていたのか。彼らは、イエス様が十字架におかかりになるとき、既に逃げ出しておりました。

 ところが、この女性たちは、ヨハネ福音書によれば、イエス様の十字架の近くにおりました。マルコ福音書でも、遠くからですが、イエス様を見守っていたと書かれております。

そして、墓に葬られた後も、香料を買っていくような細かい心遣いを示し、日が出るとすぐに、葬られた墓に駆けつけております。

 

  イエス・キリストの十字架上の苦しみと死、そして葬りの後、大きな役割を、これらの女性たちが担ったことは、心に留めておきたいことであります。

 

  さて、ところが、彼女たちが墓に到着すると、石は既にわきへ転がしてありました。復活の朝の最初の驚きです。

  しかし、驚きつつも、彼女たちは墓の中に入ります。すると、そこに、天使とおぼしき若者が座っている。婦人たちは、それを見て、さらに驚くことになります。

  そんな彼女たちに対して、若者は、「驚くことはない」と静かに語ります。

  そして、イエスはもう復活されたので、ここにいない。かねて言われていたように、ガリラヤに向かって、イエス様は先に行かれる。そこでお目にかかれると弟子たちに伝えなさい、と告げます。

 

  ここにおいて、婦人たちの驚きは最高潮に達します。

イエス様が十字架にかけられる時も近くにいた。あるいは遠くで見守っていた彼女たち。弟子たちと違って逃げ出さなかった彼女たち。そして、どこかに閉じこもっていた弟子たちと違って、日が出るとすぐに墓に駆けつける熱い思いを持っていた彼女たち。

  その彼女たちをしても、復活の知らせを受けたときには、恐怖と驚きでいっぱいになって、正気を失ってしまったのでありました。

 

  これが、復活の朝の出来事です。

復活祭は、教会にとって、最大の喜びの日です。信仰に生きる者にとりましては、何があっても、復活という切り札を差し出せば、それですべて収まるというものです。

  しかし、その復活の朝は、驚きと恐怖が渦巻くばかりで、これを喜び祝ったということはどこにも記されていないのであります。

 

 ・・・

  聖書が記す、この復活の朝について思い起こすべきことは、墓をふさいでいたであると思われます。

 婦人たちの心を不安にさせた。しかし到着すると、わきへ転がしてあった石

 

  このは、非常に大きくて、簡単には動かせないものでした。その日駆けつけた女性三人にしてみれば、自力では動かすことが不可能なものでした。

  このの向こう側に、イエス様のご遺体があるはずでした。言い換えれば、のこちら側が人の生きている世界で、の向こう側は、死んだ後の世界です。

 

  確かに、彼女たちの心配のたねは、物理的な意味でのの大きさでした。

しかし、この出来事が象徴しているのは、命と死を隔てるの大きさにあるように思えます。

  彼女たちは、イエス様が十字架にかけられる時、その近くにいることが出来ました。また、葬りの後、こうして墓にやって来ることも出来ました。さらに、遺体に塗るべき香料を買ってくることも出来ました。

  それらすべては、こちらの世界に関することです。しかし、石の向こう側、命の向こう側にある世界については何もできない。ただ、恐怖と不安とおののきを感じることしかできなかったのです。

 それはすなわち、私たちが人の死を前に、無力であること、大切な人のお墓の前で、ただ涙を流すほかできないことと重なっています。

 

  ところが、その石が、動かされていた。≪だれがあの石を転がしてくれるだろうか≫という、彼女たちの心配をよそに、そのは、その日の朝、動かされていました。

  そして、そのの向こう側で、イエス様は、既に復活しておられました。

 

  復活の朝の出来事が私たちに語りかけているのは、このことであります。

  地上の命と、地上を離れた後の世界。その二つの間に横たわる大きな。人間の力では動かしようのない。それが、ごろんとわきへ取りのけられたということ。

  天と地を分断し、命と死の境となっていたはずのが、取りのけられたということ。

それこそが、復活の知らせとなっております。

 

  私たちは皆、三人の女性たちのように、この出来事の前に、ただ立ちつくすものです。なぜなら、それは、人の業ではなく、神のみ業だからです。

 

  驚きおののく婦人たちに、天使は続けて言いました。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」

  イエス様は「ガリラヤへ行かれる。」これは現在形です。英語の聖書など見ると、わかりやすく、he is goingと書かれています。

かねて言われた」これは見ての通り、過去形です。イエス様が、生前弟子たちにいつも語られたこと。

そして最後の、「そこでお目にかかれる。」というのは、未来形です。

 

小難しいことを言って恐縮ですが、このように、ここには過去、現在、未来と、三つの動詞が記されています。

 

  イエス様はかつてお約束なさり、そして、今、先回りして、ガリラヤに行かれる。

  その約束を受け止めて、信じてガリラヤに向かうならば、必ずイエス様とまみえることが出来る。新しい時が開かれる。今のわたしたちも!

そう語っているところではないでしょうか。

 

  弟子たちには、何ら華やかな過去はありませんでした。彼らにあったのは、イエス様を裏切り、逃げ出した過去です。

 天使は婦人たちに、弟子たちとペトロに告げなさいといいました。あえてペトロの名前を挙げています。ペトロには、三度もイエス様を否認した過去があったからなのでしょう。特に彼には、大きな赦しの知らせが必要だと思われたのでしょう。

 

  しかし、ペトロを初め、弟子たちみんなにどんな罪深い過去があったとしても、わたしは復活した後、ガリラヤで待っていると、イエスさまは約束なさいました。

 

  私たちにはどんな過去があるでしょうか。栄光に満ちた過去があるでしょうか。

嘘も偽りも、罪も過ちも、痛みも悲しみもない、過去があるでしょうか。

  きっと、私たちそれぞれに、振り返りたくもない過去があるはずです。

 そして、その過去を背負ったままで、主の御前に行こうとするならば、そこには、大きなが立ちふさがってしまいます。

 

  しかし、主の復活によって、動かしようがないと思われた石が取りのけられる。

 そして、主は、先回りして私たちを待っておられる。

 

これによって、私たちは新しい一歩を踏み出すことが出来ます。

顔を上げることが出来ます。

過去によらず、現在の状態によらず、私たちの前に、希望の未来が開かれるのです。

 

  私たちの歩んでいく先、これから踏みしめていく明日、あさって、これから出会っていく人々、そのすべてが、私たちにとってのガリラヤです。

 そのすべての場所で、イエス様は先回りして、私たちを待っておられる。

そして、ついに、この世の命果てるとき、石を取りのけて、イエス様は復活の命を携えて、私たちを待っておられる。

  それが、復活の朝、わたしたちに届けられた福音です。

 

  弟子たちは逃げ隠れていました、女性たちは恐怖と不安におののいていました。

しかし、皆、この後しばらくたつと、復活を信じ、その信仰によってしっかりと立つ者とされていきます。

 

私たちも同じところに立ちたいものです。苦しみの今があっても、新しい希望へと歩き出す、そういう生き方をここから始めたいものです。

 

 神の御子、イエス・キリストは復活されました。

今日、私たちのために、復活されました。

希望を胸に、新しい時を歩いていきたい、このように思います。

 

                                    2009412日礼拝にて

 

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