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マルコによる福音書16918

 

  〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

 

  その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

 

  その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

 

 

『信じる者の幸い』

 

 「キリスト教は何を信じているのか。その中心には何があるのか。」と問われた時、ひとつ言えることは、≪復活を信じる≫ということです。

使徒パウロは言いました。キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。1コリント1514

 

もしも、復活がなかったら、皆さんの信仰は無駄だ、と。何もかもが無駄なこと、意味のないことになると。

たとえば、皆さんは、祈られる。いろいろな場所で祈るでしょう。それも、復活の主がおられるから、意味がある。でも、復活がないなら、祈ったって無駄。何もならない。

あるいは、わたしたちは大切な人と別れる時が来ます。神さまに召されて、天に帰る。今までも、皆さん、大切な人たちを送って来られたことと思います。お葬式をする。祈る。それは、復活があるから、とても意味のあることとなる。でも、復活がなかったのなら、それら全部、空しいこと、時間の無駄となる。

パウロはそのように、語ったのであります。

 

先週、その復活を祝いました。イースターの礼拝を守り、お祝いの食事会もしました。十字架上で死に渡された神のみ子イエス・キリスト。しかし、三日後、葬られた墓に行ってみると、もはや墓の入り口をふさいでいた大きな石は動かされ、主イエスのご遺体はもうそこにはなかった。あのお方は復活なさったのだ、と天使が伝えました。

 

今日も、わたしたちは、復活の喜びの中で礼拝を守ります。イースターの余韻を楽しみます。わたしたちを支える、復活ということについて学び、魂を満たされたいと思います。

 

本日のマルコ福音書を読みますと、この大切な復活ということに関して、パウロのように、それが≪ある≫とか、≪なかったら≫とか、そういう言い方はされておりません。

問題は、この復活があったということを、「信じるか、信じないか」ということに焦点が当てられています。

 

復活は、だれも目撃しておりません。当時の十二弟子たちも、墓に真っ先に向かったマグダラのマリアも、その他、だれ一人として、復活の瞬間を見届けてはおりません。

今のように、ビデオカメラでその映像を見ることができるわけでもありません。

 

でも、「復活したイエスと出会いました」という報告を聖書の中で、わたしたちは聞くのです。今日の個所で言えば、まず、マグダラのマリア、また田舎の方へ行こうとした二人の名もなき弟子。そして、十一人の弟子たち。

彼らは、「復活したイエスを見た、出会った、その声を聞いた」と。

≪これを信じるか≫と聖書を通して、神さまは、わたしたちに語りかけられます。

 

今日のみ言葉を読むと、これを信じるならば、ずいぶんいろいろな特典が付いてくることが言われておりました。

まず、信じるならば、そして、信じて洗礼を受けるならば、救われると。

逆に、信じないならば、滅びの宣告を受けると。

 

決定的な分かれ道。人生のゆく手、それは、信じるのか、信じないのか。それによって、二つに分かれる。信じる者の道は救いの道。信じない者の道は滅びの道だと。

 

さらに、言葉は続きます。信じる者にはしるしが伴うと。

信じる者は、イエス・キリストの御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語ることができるようになる。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。と。

 

これが、信じる者への約束です。信じて生きるなら、こういったことがあなたに伴って行く。伴うという言葉は、その人の脇を、連れ添うようにして付いてくるさまを言います。あなたが信じて生きて行くならば、あなたの脇に、悪霊を追い出すことや、毒を飲んでも害を受けないような、しるしが一緒に歩いてくれますよ。というのです。

 

どれをとっても魔術師か、超能力者のような、わざがここに書かれています。

クリスチャンでも、こういった言葉を読む時は、なんとなく、素通りしたりして、これをありのまま読もうとする人はあまりおられないと思います。あまりにも突拍子もなく、日常的でない感じがするからです。

 

たとえば、悪霊を追い出すということ。イエス様の復活を信じているならば、信じて洗礼を受けておられるなら、皆さんは、悪霊を追い出すことができるという約束。それが、あなたの脇を伴いながら、あなたの人生を付いて行くと。

そもそも悪霊と言われると、分かりにくいです。そして、何やら奇妙な世界を思い浮かべてしまいそうです。悪霊という言葉にあまり囚われずに、むしろ≪追い出す≫という言葉を考えてみたほうがよいかもしれません。

 

皆さんは、たとえば、自分の心の中に、追い出したいと思うものがあるでしょうか。

わたしの中にある、追い出したいもの。

≪悲しみ、憎しみの心≫が宿っている。追い出したい、と思わないでしょうか。

≪不安、絶望、戸惑い≫。いつでもわたしたちの心を襲います。

≪自己中心、恨み、ねたみ、不平不満≫。わたしたちの表情をも、固くさせる心がわたしたちのうちに宿ることがあります。

それらを、追い出すことができたら、どんなにすばらしいでしょうか。

そういったものを追い出して、代わりに、自分の心に、喜びや、感謝、希望や、思いやりが宿ったら、どんなに気持ちよく、この日々を過ごすことができるでしょうか。

 

先週の木曜日、島田礼拝堂での「聖書を読み祈る会」に、ひとりの姉妹が見えました。とても久しぶりでした。わたしのノートを見ましたら、ほぼ一年ぶりにいらっしゃいました。ルーテル教会の会員の方ではなくて、別の教会で昔洗礼を受けられた。でも、その後、御病気になって、お住まいを変えた関係で、島田の礼拝堂がいちばん行きやすいところだということで来ておられました。

 

御病気の関係で、ふだん、ほとんど外に出ることもできない生活をしておられます。お一人で暮らしていらっしゃるので、一日、誰とも言葉を交わさないまま、過ごされる日々も多くあるようです。

そういった中、久しぶりにおいでになられた。

この一年の間、どんな暮らしをしておられただろうか、根掘り葉掘り聞き出すより、なにかおっしゃるのを待っていようと思いました。

 

みんなが帰られた後、お庭で立ち話をしました。開口一番、「先生、信仰があるってすばらしいですね」と言われました。「信仰があったから、・・・」「信仰があったから、わたしは生きて来られた。」「もし、信仰がなかったら、・・・」。

御病気と闘いながらの生活は、また、不安との戦い、そして、孤独との戦い、棄てばちになる気持との戦いでもありましょう。

「信仰があったから、・・・」「信仰がなかったら・・・」。

多くの言葉数ではおっしゃられませんでした。でも、ゆっくりと、何度も「信仰があったから、・・・」。「もし信仰がなかったら・・・」と言われる言葉の中に、言葉にはならない重みが伝わって来るように思えました。

 

信仰によって、追い出すべきものを追い出しておられたのではないでしょうか。

いや、「信仰が」と主語にした方がいいかもしれません。信仰が、心に宿ろうとする様々な思いを追い出した。それをひっくるめて言えば、悪霊を追い出したということになるのではないでしょうか。

 

信じるならば、救われる。信じないならば、滅びの宣告を受ける。

それは、やがて終末の時を迎えた時のことというより、こういった日々の営みの中で味わうことなのだと思います。

 

信じるならば、新しい言葉を語る。それは、信仰によって、新しくされた喜びを語るということです。たとえ何が襲っても、きのうまで何があっても、新しい朝を迎える。祈りと共に。そこに、新しい言葉、新しくされた者の言葉が生まれます。

 

信じる者は蛇をつかむ。わたしは、へび年生まれですが、蛇は見るのも嫌です。ですが、信じるならば、手で蛇をつかむ。これは、何を意味するでしょうか。

は、聖書では、やはり創世記のはじめ、アダムとエバをそそのかした存在。人間を誘惑して、神さまから引き離す存在。人の心を盗む存在。

その蛇をつかむ。その蛇につかまれるのではなく、信仰に生きる者は、その蛇を征服することができる。アダムとエバのように、神から隠れるのではなく、復活を信じるなら、たとえ、何度失敗しても、何度つまずいても、立ち上がることができる。あの蛇をつかむほどに、もう一度力をいただく。そういう約束です。

 

毒を飲んでも害を受けない。これも、体のことではありません。

この世の中を生きていれば、受けたくないものを受けることもあるし、見たくないものを見ることもあります。いろいろなものを味わいつつ、それを受け止めつつ生きて行きます。でも、それが、あなたにとって、毒とならないはず、あなたが信じているなら。

あなたが信じているなら、この世のどんな事柄も、あなたを致命傷に追いやらない。なぜなら、復活の主を知っているから!

 

そして最後、病人に手を置けば治る。

わたしは牧師として十五年生きてきましたが、誰か病人に手を置いて治ったという経験はありません。手を置くこと自体は、しばしばあります。でも、それで病気が治ったということはありません。そういう力は与えられていません。

でも、あなたの伏せている枕辺に主がおられることを伝えます。たとえ、体をむしばむ病気があっても、神さまの愛は変わらない、神はわたしたちをお離れにならない。わたしたちに命を与えられた主は、わたしたちの日々を支えておられる。そして、最後は、復活のいのちを携えて、迎えてくださる。

 

先日、ある方からいい言葉を聞きました。「病気になっても、病人にはなるな。」

体は弱いから、病気にはなります。でも、病人にはならない。このわたしが病気とお付き合いする、ということです。

信じて、病人に手を置けば治る。病気は治せないでしょう。でも、病人に救いを語ることはできます。復活の主を信じているからです。

 

弟子たちは、はじめ復活を信じることができませんでした。でもイエス様は必死で語りかけられました。

信じる者になるように。信じて生きる者になるように。信じて救われるように。信じて、あらゆるものを追い出し、希望のうちに、愛のうちに生きて行くものとなるように。

そう願って、イエス様は弟子たちを鼓舞されました。

 

その願いは、今も、わたしたちに対して注がれています。

信じなさい。信じて救われなさい。信じるならば、悪霊を追い出すことができる、新しい言葉で語ることができる、手で蛇をつかむことも、毒を飲んでも害を受けない、病人に手を置いて癒すこともできる。神はあなたと共におられる。信じて、歩みなさい。

 

その熱いメッセージを、今日、ご一緒に受け止めたいものです。そして、信じて生きる喜びを、すべての造られたものに伝えて行きましょう。

 

                                   2009419日 礼拝にて

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