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ヨハネによる福音書211519

 

 

  食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


『主に愛されて』

 

本日与えられましたヨハネ福音書21章のみ言葉には、イエス・キリストと、弟子のペトロの間で交わされた会話が記されていました。

 

これは、うっかりすると忘れそうになりますが、先週学んだところの続きであります。

どうして忘れそうになるかと言いますと、今日の場面は、イエスとペトロのふたりきりしかいないように見えるからです。

 

教会生活の長い皆さんは、今日の場面、よく知っておられることでしょう。

イエス様が、ペトロに三度も、同じ質問をなさった。それに対して、ペトロがいささか心を痛めつつ、答えていったという、この話。

わたしたちは、この出来事を独立したものとして受け止めている節があります。だから、これが先週の話の続きだということを忘れてしまいそうになるのです。

 

振り返ってみますと、先週の日曜日は、今日の個所のすぐ前を学びました。

ペトロが肩を落としながら、わたしは漁に行く、と言ってティベリアス湖に出て行く。それなら、わたしたちも行こうと言って、六名の仲間が付いて行きます。ところが、夜通し漁をしたけれども、一匹も魚はとれない。まさに、泣きっ面に蜂。絶望に絶望が重なる。

 

ところが、肩を落としながら岸へ戻って行きますと、そこにひとりの男が立っています。最初分かりませんでしたが、イエス様でした。

主は彼らに、舟の右側に網を投げてみなさい、とおっしゃる。

 

彼らが、言われたとおりやってみますと、153匹もの魚がかかる。彼らは、順次、岸に立つ男が、ほかならぬ主イエスであることに気付き始める。

 

岸に上がってみると、主イエスは、炭火をおこし、魚を焼いて、パンまで用意して待っておられる。そして、一家の主人のようにパンを裂いて分けてくださった。

そのお姿を見た時、彼ら七名はもはや、あなたはどなたですか、と尋ねる必要もなくなりました。さっきまでは分からなかったけれども、間違いない、イエス様だ、と全員確認したのでした。

 

その話の続き、つまり、あのパンと、炭火で焼かれたお魚による朝食を終えた時、こういうことがあった、というところです。

ということは、この場面、イエスと七名の弟子たちが一緒にいる場面ということになります。輪になっているだろうと思います。みんな一緒にいます。

 

でも、読めば読むほど、今日の場面は、イエス・キリストとペトロがふたりきりでいるかのような錯覚を覚えます。だから、前の話の続きであることを忘れそうになるのです。

言葉を換えれば、それくらい、イエス様は今、ペトロに体を向けておられる。

周りの人など目に入らないくらいの、まっすぐなまなざしで、ペトロを見つめ、ペトロに話しかけておられるのだ、と言えましょう。

 

では、なぜ、ペトロか。ほかの六名ではなく、なぜ、ペトロか。

 

二つのことが考えられます。

ひとつは、やはり彼は、リーダーだからです。十二弟子の中のリーダーです。

今まで、ずっとそうだった。彼が弟子グループの先頭にいた。

それは、これからも変わらない。以前と同じように、ペトロが弟子グループのかしらとなる。

 

実際、そのとおりになっていきます。

今日の個所、最後のところで、ペトロの人生の終わりのことまで、暗示されておりました。

はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。

一般論としても、各自、自分のこととして読めるような言葉です。今の時代でも、多くの方々が、そうだな、と共感しつつ読むことができる言葉です。

 

でも、ペトロにとっては、別の意味が込められています。なぜなら、彼の最期を予告しているからです。

ペトロは、ローマ帝国による迫害の中、逆さ十字架に架けられて殉教の死を遂げたと言われます。両手を伸ばして、という言葉の意味は、その時、知らされることになります。

 

でも、それは、裏を返して言いますと、ペトロが、・・・この弱気なところもあるペトロ、この時はまだ絶望の闇の中から抜け切れていないペトロが、やがて、殉教の死に至るまで、その生涯をかけて、雄々しく生き抜いたということ、・・・キリストの弟子として、教会の最初のリーダーとして、最後まで、死をも恐れず、宣教し続けた、ということの証でもあります。

 

その意味で、イエス様は、今、特別にペトロに語りかけられる。ほかの六名を差し置いて、彼に語りかけておられます。

わたしの羊たちを養い、世話をするのがお前の役目なのだと。

 

さて、イエス様が、ペトロに特別に語りかけておられる理由、二つあると申し上げました。もうひとつは何か。

それは、ペトロが罪の中にいた、ということであります。

 

ご存じのように、ペトロは、主イエスが十字架にかけられるそのとき、さっさと逃げ出したのではなく、大祭司の官邸にまで行っておりました。その中庭におりました。

しかし、そこから先へは、行けません。気持ちはあっても、そこから先へは行けませんでした。

 

そんな中、一緒に焚き火に当たっていた人が、「お前もあの男の仲間だっただろう」と尋ねる。

焚き火の炎で顔が見えてしまったのです。

 

その時、ペトロは、思わず、「わたしはあの人のことなど知らない」と答えてしまう。

一番大切な人のことを、「あの人のことなど知らない」と口にする。いけないことと知りつつ、大切な人を裏切る。

これは、どんなに心痛むことでしょうか。

しかも、三回も、です。三回も、「わたしはあの人のことなど知らない」と否認しました。

 

三度めに、「わたしはあの人のことなど知らない」と言ったとき、ちょうど連行されて行くイエス様がペトロのことを見つめた、とルカ福音書には書かれています。

 

どんなまなざしだったでしょうか。哀しさの漂う瞳だったでしょうか。

 

いずれにせよ、そのまなざしは、ペトロの記憶に焼き付けられていることでしょう。

 

今、そのお方が目の前にいる。あの時、見つめられたお方が、目に前にいる。ほかの六名以上に、きちんと目を合わせることのできない思いを持っていたことでしょう。

本心から、裏切ったのではない。本当は大好きなイエス様。でも、彼の弱さゆえに、つい、「あの人のことなど知らない」と言ってしまった。三度までも。

 

ペトロが、わたしは漁に出掛ける、と言って出掛けたとき、そのような絶望の中に置かれていたはずです。

 

イエス様は、いま、だからこそ、周りの六名など目に入らないかのように、ペトロをじっと見つめていらっしゃる。

ヨハネの子シモン、わたしを愛しているかと。

 

あの時の三度を、覆ってあげるかのように、イエス様は三度、お尋ねになりました。

 

これが、ペトロの再出発の時です。言ってみれば、ペトロの復活の時です。

彼は、イエス様の哀しみを知る人となりました。哀しみの満ちたお方であることを知りました。それが、彼をまことの弟子としました。

 

また、彼は、イエス様の愛の大きさ、無限大の赦しを知っています。

裏切られても、裏切られても、過去の罪を覆い尽してしまうような大きな愛が、自分に向けられていることを知っています。

 

よく、わたしたちは、信仰は与えられるものと言います。

そのとおりなのです。このペトロの話を読むと、よく分かります。

イエス様が、消えかかっていた信仰の火、希望のともしび、愛の炎をともしてくださったのです。

 

そして、今、わたしたちは思い起こすべきです。

あの日、ペトロに向けられたように、イエス様のまなざしは、皆さんの一人お一人に向けられているということを。

 

この世の中に、たくさんの人がいる。周りには、自分より輝いている人、脚光を浴びている人、いろいろな人がいる。

でも、イエス様のまなざしは、あなたに向けられています。

なぜなら、あなたは、イエス様にとって、大切な人だから。何があっても、駆けつけて助けずにおれない人だから。

 

くず折れそうな時でも、どんな絶望の中にあっても、それが終わりにはなりません。

なぜなら、イエス様は復活の主だからです。

 

どこで、どういうふうに倒れようとも、必ず助け起こし、どこからでも再出発させてくださる。それが、復活の主です。

 

この主につながり、この主に祈り、この主に従い続けましょう。

 

ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。

尋ねられたら、答えましょう。

「わたしは、十分にあなたを愛せないかもしれません。でも、わたしは知っています。主よ、あなたはわたしを愛しておられることを。主よ、どうか、いつまでも、わたしを支えていてください」と。

必ず、主は、その祈りに答えてくださいますから。

 

                            200953日礼拝にて

 

 

 
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