説教集 目次へ

ヨハネによる福音書15110

 

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

 

『わたしにつながっていなさい』 

 

 

 新約聖書を開くと、はじめにマタイ福音書があります。

マタイ福音書は、多くの人に愛されています。読み始めると、すぐ山上の説教というところに出くわすからでしょう。

 

空の鳥を見よ、野の花を見よ、というキリストの言葉が目に入る。

これは、その絵画的イメージを豊かに膨らませながら、わたしたちの心をさわやかにとらえてくれます。

 

その絵画的イメージが、ヨハネ福音書15章にもある、と言われます。

それは、今日のみ言葉。

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。と語りかけてくる言葉。

これも、聞いているだけで、ぶどう園の牧歌的な映像が浮かんできます。

 

イエス・キリストは、今で言えば、すぐれたコピーライターのような面もお持ちだった気がいたします。その口から出てくる言葉の一つ一つが、人の心をさっととらえます。

そういうひとことを探すのは、容易ではありませんが、イエス・キリストはそういった珠玉の言葉を、どれだけお語りになったでしょうか。

 

もっとも、イエス・キリストがすぐれたコピーライターのようだった、と言いましても、口が上手だったということを意味してはおりません。

むしろ、幼子のようなお方だったのでありましょう。

幼子のように、父なる神様を信頼し、幼子のように、父なる神様の造られたこの世界、そして、父から与えられたいのちを堪能しておられた。

 

だから自然と、ゆたかな言葉が生まれて来たと思います。

天の喜びを、この地上で、そのまま言葉にして表してくださったということです。

天の恵みの素晴らしさを、何とかわたしたちに伝えようと、この地上の言葉で表現してくださったのです。

恵み深い言葉の数々は、そこから生まれ出ました。

 

礼拝に来ることによって、そのみ言葉を味わえます。

そして、その恵みに浴するように、わたしたちは招かれています。神さまは、そのために、安息日をお造りになられました。

今日も、安息日。恵み深い天の言葉を、ご一緒に味わう日です。

 

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

確かに、牧歌的な響きがあります。映像が浮かんできそうです。

 

が、しかし、あぐらをかいて、のんびり聞いていることもできない面もあります。

わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

わたしにつながっていない人があれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

 

ある注解書を読んでおりましたら、こんなことが書かれていました。

リストラなどで会社から切り捨てられた人が、教会に救いを求めてやって来て、ここを読んだら、「教会でも同じか、実を結ばないなら、取り除かれるのか」と思ってしまうだろうと。

なるほど、読みようによっては、そのようにも聞こえてくるところです。

 

しかし、イエス様は、会社のように、何か成果を求めておられるのではありません。

わたしたちのいのちが、どうすれば、輝くのか、わたしたちの命の本質はどこにあるのか、何を土台とすべきか、を語っておられるだけです。

 

この世の何かを土台にして生きているなら、いつか、それは倒れてしまう、ということが語られています。

たとえ、どんなにみ目麗しいものがあっても、たとえ、この世の人々が大騒ぎするようなものがあっても、それは、決して、あなたのいのちを根底から支える土台にはなりはしない、土台を間違えるな、根っこを間違えるな、そうでないと、枯れてしまうから、とイエス様は必死で呼びかけておられる。

それが、今日のみ言葉です。

 

その思いを感じさせるひとことがあります。わたしはまことのぶどうの木という言葉です。

わたしはぶどうの木ではなくて、わたしはまことのぶどうの木と言われます。

 

このまことのという言葉、これは、正真正銘の、ということです。わたしこそが、正真正銘の、ぶどうの木だと。

つまり、それは裏を返せば、この世の中には、いろいろなぶどうの木がある、どれが、わたしの木だろうか、どの木につながっていればよいだろうか、と迷わせるほどに、わたしがぶどうの木だよ、と語るものがこの世界にはある、ということです。

 

たとえば、≪お金≫という名のぶどうの木があります。その木につながっていれば、わたしたちは生き生きと枝を張り、実を結ばせることができると。

お金という名のぶどうの木も、わたしたちに語りかけることでしょう。

 

あるいは、≪自分の知恵と力≫という名のぶどうの木もあるでしょう。なにものも頼らない、なにものも信じない。自分だけを信じる。自分は間違いない。大丈夫だ、と語りかけるぶどうの木です。

 

あるいは、≪この世をうまく生きる≫というぶどうの木もあるでしょう。

とにかく、うまく生きていく。それは、先ほど申し上げた自分の知恵と力という木と関連がありますが、時代の波に乗って、人々の歓心を買って、うまく世を渡る、というぶどうの木もあるでしょう。

 

しかし、それらの木を根っことして、つながっていると、枯れるのだ、と言います。

枯れるのだ、と言っておられるよりも、そんなところに根を張って、そんなものを土台にして、枯れてほしくないというのが、イエス様の御心です。

本当に生き生きとした枝として、実を結ぶ人生を送ってほしい。その命、輝くのだから、その命、豊かに実を結べるのだからと。

 

そのためには、あなたを本当に生かす、本当のぶどうの木につながっていないといけない。

それが、イエス・キリストというぶどうの木。

 

これは、言い換えれば、愛という名の木。あなたを生かし続けるのは、変わることのない愛という名のぶどうの木です。

 

また、これは言い換えれば、希望という名のぶどうの木。

この世の何かを根っこにして、枝を張ろうとすると、絶望の日が来ます。その根っこは、実は根っこではなかった。根っこのように見えたものが、実は虚像だったということが分かる日が来ます。

 

でも、イエス・キリストというぶどうの木は、一見、無力のように見えて、一見、礼拝に来るのは大したことのない時間に見えて、わたしたちのいのちを根底から支える希望の木となります。

どんな絶望も、打ち勝つことのできない希望の木、それが、まことのぶどうの木です。

 

昨日、藤枝礼拝堂で、Sさんの記念会を行いました。すでに天に召された方を思い起こす。そのために、教会では、記念会を行います。

イエス・キリストという名のぶどうの木につながっているからこそ、希望の中で、記念会を行うことができます。死と別れという壁に、ひとときは悲しんでも、それが、決定的な絶望にはなりません。

 

いま、焼津礼拝堂での水曜日の聖書の学び、黙示録を学び始めました。

黙示録は、キリスト教会に対する激しい迫害の中で、その信徒たちを励ますために書かれた手紙です。仲間たちが殉教の死を遂げる、また、捕らえられる。島流しにもあう。絶望的な状況が続く中で、しかし、希望の手紙を送るのです。

 

ある書物を読んでおりましたら、素敵な言葉と出会いました。それは、「有限の絶望と無限の希望」という言葉です。

 

わたしたちは、生身の体と心を持って生きていますから、いくら信仰があると言っても、絶望はします。肩を落とすことはあります。お先真っ暗に見えることもあります。

 

しかし、絶望は有限です。いつか終わります。でも、希望は無限。神につながるならば、そこには無限に広がる希望の大海原がある。ひととき、絶望の中にあっても、もしも、イエス・キリストにつながっているならば、希望を見出すことができる。

 

その希望の礎が、まことのぶどうの木、イエス・キリストです。

この木につながっているなら、わたしたちは、枝を張ります。希望に満ちた枝として、この世の中で、雄々しく、顔を上げて生きていけます。いのち輝きます。

 

そのようであってほしい、という願いが、わたしにつながっていなさい、というみ言葉に込められています。わたしこそが、正真正銘のぶどうの木なのだからと。

 

このまことのぶどうの木につながる道は、み言葉に聞き続けること。礼拝につながり、み言葉を聞き続けることです。

 

 

 

イエス様が、御自身をぶどうの木にたとえてくださったのは、本当にふさわしいことでした。まっすぐに上に伸びる木ではなく、横へ広がって行くぶどうの木。細い枝が絡み合うようにして、広がって行くぶどうの枝。

 

ぶどうの枝が、豊かに広がると、そこは、心地よい木陰を生みます。多くの人を憩わせる空間が生まれます。

横へ横へと広がる、ぶどうの枝。天の父から、イエス様へ、イエス様から、わたしたちへ、そして、わたしたち一人一人から、また、隣の人へ。

ぶどうの木は、救いと慰めを、次々と周りの人へつなげて行きます。

 

今、ここにおられない方が、皆さんのご家族、ご友人が、イエス・キリストというまことの命の木に、つながるように祈りましょう。横へ、横へ、実を結ぶように祈りましょう。

 

わたしがまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。

イエス様は、今も、わたしたちに呼びかけておられます。

 

愛の主、復活の主、いのちの主につながり続けて、そして、その喜びが、隣の人にも伝わるように祈りながら、生きて行きたいと思います。

 

                                    2009510日礼拝にて

 

 

 
日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ