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ヨハネによる福音書151117

 

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのでない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

『主の愛によって』

 

 本日は、ヨハネ福音書1511節からの御言葉が与えられました。

 先週からの続きになります。

 

 ヨハネ福音書は、13章〜17章まで、最後の晩餐と呼ばれる夜に、イエス・キリストが弟子たちにお語りになった言葉が記されています。今日与えられた15章も、その真っ只中で語られたところということになります。

 

 マタイ福音書における、山上の説教のように、美しい言葉が次々と語られているところですが、この翌日、主イエスは捕らえられ、十字架にかけられて殺されます。

その日が来る前に、この最後の晩餐の夜に、主は、愛する弟子たちに大切なみ教えを残されました。

 

  それだけに、結論めいた言い方もここには含まれています。

 特に、最初の一節。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

 今まで、いろいろ弟子たちにお教えになられた。たくさんのことをお話し下さった。

それは、そういういろいろのことをお語りになったのは、主イエスの喜びが、弟子たちの喜びとなり、その喜びで弟子たちが満たされるためであった・・・そう告げられております。

 

 明日捕らえられて、十字架にかけられるイエス様が、わたしの喜びと表現なさいます。

 明日十字架上で、手や足にくぎを刺され、茨の冠をかぶせられ、あざけられ、槍で突かれる。その日を前に、主は、わたしの喜びとおっしゃいました。

 

 イエス様の中にある喜び。その喜びが、弟子たちみんなの中にも宿り、その喜びで、みんなが満たされるようになる。

 

 いったい、イエス様がこの時おっしゃった喜びとは何だったのでしょうか。あとに続けておっしゃった言葉にも耳を傾けてみます。

 

  これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。・・・この言葉は、最後にもう一度繰り返されます(17節)。

 

  弟子たちの心に喜びが満たされるために、と前置きしたうえで、イエス様は、「互いに愛し合うこと」をただ一つの掟として、差し出されます。

 

  イエス様の喜びとは何だったのか。それは、弟子たちを愛したことでした。

  その弟子たちの中にも、同じ喜びが満ちあふれるようになる。そのために、弟子たちにたった一つの指針が指し示される。互いに愛し合いなさい、と。

 

  喜びの源は愛である、とイエス様は、最後の夜にはっきりとお教えになった、ということです。

 

  なんとなく平易な文章で、淡々と描かれているので、このあたり、あまり気にも留めずに読んでしまいがちですが、これはわたしたちの生き方をザックリと切り裂く言葉です。

 

皆さんは、あなたの喜びは何ですか、と聞かれたら、何を思い浮かべられるでしょうか。

そして、私たちは、通常、自分の喜びを捜そうとするときに、どんなことを考えるでしょうか。

 

そう問われて、その質問に従って、はて、自分自身が喜ぶためには何があるだろうか・・・と、そう考えた時点で、もう、イエス様のお考えとずれが起こっています。

つまり、愛することではなく、中心が自分自身になっているからです。自分がどう喜ぶかが、喜びを考える基準になっているのです。

 

あなたにとって喜びとは何か、と問われて、そこで、自分がどういい思いをして、自分がどう喜ぶかを求めることが、本当の喜びに通じるのかどうか、立ち止まって考える必要があるのだと、今日の御言葉は語りかけています。

  そうではなく、互いに愛し合うところに喜びがあるのだ、と。それが、わたしの喜びであり、その喜びがあなたの中にもきちんと宿るように、その喜びであなたがたが満たされるように、それが、明日死に行くわたしの最後の願いだ、とおっしゃっておられます。

 

  イエス様がお語りになるときの[愛する]という言葉は、自己満足とは相容れないものです。むしろ、自分を捨てることです。他者のために、自分を捨てる。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。と書かれているとおりです。

 

  究極的には、そこまで至る。イエス様が愛ということを言われるときには、そういう愛を意味しております。そのような愛の生活が、喜びだと告げております。

 

  これはそう簡単に口にすることのできない、重みをもっております。

  わたしごとき、若輩者が、みなさんの前で、大きな顔で言えることではない、そういう重みを感じます。

 

  友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない。

 イエス様だからこそ、言える言葉でありましょう。

  でも、だれにとっても、本当の喜びとはそこにあるのだ、とイエス様は、一歩も譲らず、語っておられます。

 

さあ、そのような喜びを、味わったことがおありでしょうか。

たぶん、大なり小なり、おありだと思います。

 

  たとえば、小さな我が子が病気の時や苦しんでいるとき、おそらく大抵の親御さんは、痛々しくて、代わってあげたいと思う。そんな感情を抱けることは、とても、幸いなことです。わたしの幸せを思う時より、誰かの幸せのために、自分が何かしたいと願う時、人は本当に幸せを感じられます。

 

 これは、祈るということも同じです。心からなる祈りというのは、誰かのために、という祈りです。わかりやすい例をとりましょう。たとえば、時代劇なんかを見ておりますと、お百度参りをする女性の姿が映されることがあります。雨が降ろうと、雪が降ろうと、素足のまま、神社の境内を行ったり来たり、百回も繰り返して祈る。

 そうまでして祈るのは、商売繁盛や、学業成就ではありません。人は、自分のためには、そこまで祈らないのです。裸足のまま、雨風の中でも祈るのは、誰かのためです。誰かの病気が治りますように、とか、時代劇でいえば、戦いに出た大切な人の身の安全を祈るとか。

 

 あの人のために、という思いが強くなったとき、人は本当に祈ります。

わたしたち牧師は、たとえば祈るのが≪仕事≫ですが、その祈りが自分のためというのであれば、毎日は祈れなくなると思います。でも、神さまから託された兄弟姉妹のために、ということで、祈り続けられます。

 

この、「誰かのために」生きる自分を考える上で、今日の個所には、もう一つ大切なキーワードがありました。という言葉です。

 

  今日も、幾人かの中学生、高校生の方々が見えています。みなさんは、友達がいるでしょうか。学校の勉強ができなくてもいいです。もしも、みなさんが、一人でも、自分のことをいつでも親身になって思ってくれる友達ができたら、それでしあわせです。

 

 昔から、まさかの友が真の友、と言います。まさかこんな、と思えるような、大変な事態の中で、助けてくれるような友達こそ、あなたの本当の友達ですよ、という意味のことわざです。そんな友達を、一人でも持っているなら、しあわせです。

もしそんな友達がいないなら、あなたが、周りの人にとって、そんな存在になってあげてください。それが、あなた自身の本当の喜びになります。

 中学生、高校生のみなさんに向かってお話ししましたが、大人になってからも、それは言えることではないでしょうか。

 

  イエス様は弟子たちを愛された。そこに、イエス様の喜びがありました。

 もちろん弟子たちだけではありません。すべての人のために、そのご生涯をかけられました。その命をかけられました。

 その最後の時となる十字架が、明日と迫っている。その中で、イエス様は、このわたしの喜びが、あなたがたの内にあり、あなたがたの喜びとなってあなたがたを満たすように、と願われました。

 

だから、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。そこでこそ、あなたがたも喜びで満たされる、と。

 

  私たちは、ときに愛に失敗します。

  イエス様のように、完全な愛を実現することができない存在です。それは、はっきりと自覚しておく必要があります。それが、聖書で罪と呼ばれております。

 

  愛し合ってこそ、喜びで満たされる。そう言われても、また外に出て行ったら、自分本位の生き方をしてしまう。それが、私たちの現実の姿です。

 

  でも、そういう私たちであることは、百も承知の上で、イエス様は、おっしゃいます。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

  そのためにこそ、わたしはあなたを選んだ、ともおっしゃってくださいました。

 

  あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、選ばれたのだと言われます。

イエス様のもとで結ばれる実は、自己満足の実ではありません。愛の実です。

愛の実を結ぶように、・・・ちょうど今、春を迎え、いろいろな植物が花や実を結ぶ季節ですが、わたしたちは、愛の実を結ぶように、と神様に選ばれた存在。

愛の実を結ぶ喜びが、あなたがたを満たすように。

そのために、あなたがたをわたしは選んだ、任命したのだ、と言われているのです。

 

  私たちは、神様によって造られ、選ばれて、命与えられて生きております。たった一度の人生を生かされております。いったい何ができるか。何をすべきか。

 

  精一杯愛に生きていくお互いでありたいものです。

愛に破れたときには、主御自身は、まことの友となって、その命を捨ててまでも、このわたしのことを愛しておられることを、思い起こしたいと思います。

 

  新しいときが始まります。

主は、私たちをお選びになり、愛の器として、送り出されます。いつも共におられる主を信じ、歩いていきたいものです。

 

 

                                  2009517日礼拝にて

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