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使徒言行録1111

 

  テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

 

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 

  さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 

 

 ルカによる福音書244453

 

  イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」  そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 

           

                                          昇天主日2009524日 島田、藤枝)

    「地の果てまでも」ルカ福音244453

もう一カ月以上たちましたが、ちょうど六週間前、412日に、わたしたちはここで、復活祭の礼拝を守りました。主の復活を喜び、お祝いをいたしました。

 その日以来、今日まで、聖壇には白い布をかけて礼拝を守って参りました。

 

 聖壇の白は、勝利の色、栄光の色と言われます。

そして、白はいのちの色であり、復活の象徴であります。

復活祭からの日々は、白い布をかけて礼拝を守ってきました。キリストの勝利、死をも打ち破り、復活なさった。わたしたちに、永遠のいのちをお約束くださった。その喜びを思い起こすために、白い色で礼拝堂を彩っています。

 

 召天者を記念する全聖徒主日でも、白い布をかけます。またお葬式を上げるときも、礼拝堂は、白一色になります。葬式と言えば、黒が基調だと思われがちですが、礼拝堂は白です。死を思い、悲しみつつも、同時に復活の希望に思いを馳せるためであります。

 

 ここに私たちの信仰があります。ここに私たちの希望があります。 私たちが信仰によって、この世での生涯を過ごすというのは、いつでも白い布に覆われながら、神さまによって救われる日、復活の日を待ち望みながら過ごすということであります。

 

 そのことが、今日与えられた聖書の中にも描かれておりました。

 

  先ほど、ルカ福音書の最後のページを読みました。それによると、イエス・キリストは天に上げられる時、愛する弟子たちをベタニアの辺りまで連れ出して、祝福しながら天に上げられていった、と書かれています。

しかも、これによって、弟子たちは喜びにあふれ、神殿に行って神をほめたたえたと記されています。

 

 信仰に生きる者にとって、主イエス・キリストの昇天の出来事は、喜ばしいことだということが、ここで教えられています。

 お別れのときなのですから、ある程度、寂しさとか、哀しさとか、そういうものがあるはずなのに、ルカ福音書は、そういうことは一切記さずに、イエス様の昇天の出来事は、弟子たちを喜びに満ち溢れさせた、としております。

 

  イエス様が天に上って行かれる。・・・それは言い換えれば、イエス様が天から来られて、なすべきことを成し終えて、天に帰って行かれたことと言い換えることができるでしょう。

 

 これは、私たちにとっても同じことです。

 私たちもやがて、この命尽きる時を迎えます。また、こうして生きておりますときに、家族や友人や、大切な人が先立っていくのを見送るときがあります。

 それは悲しいことです。悲しいことですが、しかし、私たちの命が神様によって与えられているという信仰に立つならば、また、神様のもとに帰って行くこととして、死を受け止めることができます。

いのちや復活を表す白い色が、わたしたちの心をも染めてくれる力となります。

 

 死んだらどうなるのか、・・・死んでみないと分からない。それは事実です。

死んだらこうなるのだ、とまるで見てきたかのように語るならば、それは、人の領域を越えたこととなるでしょう。

 

 でも、私たちは信仰によって、希望を与えられております。

決して、この目で直接見たわけではありませんが、そこに、大きな祝福が待っていることを、信じることがゆるされております。

 

 私は、本日与えられた聖書の個所、三つともとっても好きです。それぞれの聖書個所から、三回に分けて説教をしたいと思えるほどです。

 二番目に読みましたエフェソ書1章。この御言葉を、私初めて読んだときに、非常に感動し、そして、励まされました。

 ここには、使徒パウロの祈りの言葉が記されています。

 

 17節にこうあります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

 更にこう続きます。「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

 

  特に最後の、「聖なる者たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」という祈りに、私は心を打たれます。

 

 私たちは、残念ながら、大変不信仰な者ですから、自分たちが神様から与えられる恵み、約束の恵みとは大体こんなものだろう、と考えてしまうことがあります。

 

 それは、結局自分の持っている尺度が小さいためです。

≪もしも自分が神様だとしたら、罪深い人間に対して、このくらいの恵みを与えるだけかな≫と勝手に量ってしまうからです。

その思いが、神様の恵みを見る目を、さえぎります。

 

 でも、神様は、私たちの思いをはるかに越えたお方であります。神様の恵みは、私たちが人間同士でやり合うような、小さなものでは決してありません。

 だからこそ、神様なのです。

 

 そこで、パウロは私たちの心の目が開かれて・・・顔についているこの目ではなくて、心の目が開かれて、あるいは信仰の目が開かれて、と言い換えてもいいでしょう。心の目が開かれて、神さまが私たちにお与えになるもの、私たちが神様から与えられるもの、受け継ぐものが、どんなに豊かな栄光に輝いているか、悟らせてくださるように・・・。

そう祈るのです。・・・これは、私たちみんな、各自の祈りとしたらいい言葉です。

 

 イエス様は天に上られた。あなたがたのために場所を用意したら、あなたがたを迎えるために、また戻って来る、という約束もなさって、天に上られました。

 

 私たちは、おそらく本当の意味では、やがて与えられるものの大きさを知らずに、あまりたくさんの期待を寄せずに、この言葉を聞いている者かもしれません。それが、私たちの信仰の限界でもあると思います。

 

 だからこそ、パウロは、祈ることが大切であることを知っていたのでしょう。

 私たちがやがて受けるものがどんなにすごいものか、私たちの想像をはるかに超える恵みを神様がご用意なさっていることを、信仰の目を開かれて、悟ることができるように・・・。

こう祈ることを教えているのです。

 

  福音書に戻りますが、主イエスは、天に上げられる前、弟子たちに何をなさったでしょうか。 45節に記されています。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。

 まさに、エフェソ書に記された言葉の通り、主ご自身が、この時、弟子たちの心の目をお開きになられた。そのお陰で、弟子たちは離ればなれになるにもかかわらず、喜びに満ち溢れて、神殿で神をほめたたえることができたのです!

 

  ルカ福音書はここで閉じられます。

それは俗な言い方をすれば、ハッピーエンドということになります。

 でも、同時にそれは、これを読んでいる者に、そこから新しい人生を始めるように促す終わり方です。

何か、この物語がこれからも続いていくよ、ということをほのめかしているような終わり方です。

 

 そして、実際、ルカは、このあと使徒言行録をも記します。ルカ福音書の続きが使徒言行録で展開されます。 それを、今日は一番初めに読みました。

 

 イエス様が天に上られた後、残された弟子たちに聖霊が降り、教会が生まれる。新しい歴史が始まります。

 ある神学者は言いました。「使徒言行録は終わりのない物語である」と。「ネバーエンディングストーリーである」と。

 

 つまり、その言いたいことは、今からおよそ1900何十年か前に、イエス様が天に上られて、そこにいた弟子たちから新しい歴史が始まった。地の果てに至るまで福音を宣べ伝えよと言われました。

 私たちはその続きを行っている。2000年近くもの間、信仰が継承され続けてきた。私たちも今、ルカ福音書の続き、使徒言行録の続きを生きている。時を越え、地の果てまでも。

 終わりのない物語というのは、そういう意味です。

 

 島田、藤枝、焼津。栄光教会の三つの礼拝堂は、いずれも、宣教開始以来50年以上の歴史を刻んできました。

そこで起こった一つ一つの歴史、そこで起こった出会い、そこで導かれた人の証、そこで交わされた励ましの言葉、慰めの言葉・・・全部、使徒言行録の続きです。 見えざる形で、使徒言行録の続きとして、神様のもとで書き記されていると私は思います。

 

 そして、それはこれからも続いていきます。

だからこそ、これからもこの歴史を刻み続けることができるように、私たちは主に、「私たちの心の目を開いて下さい」と祈らなければなりません。

 

イエス様はその祈りに答えてくださいます!

 神様のくださる恵みの大きさを味わうことができるように、私たちの心の目、信仰の目を開いて下さい、と絶えず祈ることが、私たちに求められていることです。

 

 かつてイエス様は手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上られました。今も同じです。イエス様は、今も、わたしたちに向けて、その手を広げて、祝福しておられます。

 

 しかも、天の上からだけではありません。イエス様は、いつもあなたがたと共にいると約束されました。二人または三人がいるところに、私も共にいるとおっしゃってくださいました。この祝福のもとで、私たちの歩みは支えられています。

 

 主は天に上られました。弟子たちの心の目を開き、両手を上げて祝福しながら、天に上られました。 天に上られたイエス様の祝福は、永遠の祝福です。私たちは、この祝福のもとに生かされている群れです。

 

 今日、私たちも祈りましょう。主よ、ここにいてください。私たちを祝福してください。私たちの心を開いて、真理を悟る者とさせてください。そして、喜びをもって生きる者、そして、その喜びを隣人に伝える者としてください。あなたの救いの知らせが地の果てまでも響き渡りますように。

 

 神の御子、イエス様は、死の壁を打ち破り、復活なさいました。そして、天に上り、永遠の祝福の方となられました。

 私たちはこの祝福を受けた民です。信仰と希望を胸に歩いていきましょう。

 

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