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ヨハネによる福音書3112

  さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証しているのに、あなたがたはわたしたちの証を受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

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『新たないのち』  

 

  本日与えられたヨハネ福音書3章のみ言葉には、イエス・キリストとニコデモという人の対話が記されています。

 

与えられた段落の中に、三度、<イエスは答えて言われた>というところがあります。ただ「言われた」というのではなく、答えて言われたとあります。答えて言われたということは、当然、質問があってそれにお答えになった、というものです。

事実、5節では、「母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」という質問があって、イエスはお答えになったとあり、10節では、「どうして、そんなことがありえましょうか」という質問を受けて、イエスは答えて言われたとなっております。

 

 ところが、最初のところ、3節だけは違います。イエスが<答えて言われた>とありますが、ニコデモは何も質問をしていません。ニコデモは、挨拶をしただけです。彼は何も質問していません。

でも、イエス様は、この挨拶を聞かれると、答えて言ておられます。それもいきなり、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、核心に迫るようなことを、いささか挑戦的に切り出しておられます。

この会話は何なのでしょうか。ニコデモの挨拶の中に、イエスは何を聞き取られたのでしょうか。

 

 まず、ニコデモという人物についてですが、彼は、ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員であったとあります。

ファリサイ派は、福音書でたびたび登場してきます。イエスと論争を繰り広げることが多いので、あまりよい印象をもたれていないかもしれません。でも、不真面目で、乱暴で、無秩序な人たちであったわけではありません。

 むしろ、神様を恐れ敬い、大変まじめに、信仰生活に取り組んでいた人たちでした。ファリサイという言葉自体は、分離とか区別という意味です。彼らが、ユダヤ人の中にあっても、他と分離されるくらい、清い生活を送っている集団であったことを意味しています。

 ニコデモもその一人。ですから、真剣に神について救いについて考えています。

 

 彼は、訪問したとあります。

これについての多くの聖書学者の解釈は、人目を忍んで、夜に行った、としています。ファリサイ派に属する、ユダヤ人の中の議員という立場にある人、しかも、話の流れからして、彼は老人です。年配者です。

そんな彼が、ガリラヤの田舎から出てきた30歳そこそこの、ある所では悪いうわさも聞く、一人の男のところに、話しを聞きに行ったとあっては、世間体が許さない。そこで、彼は人目をしのんで、訪れた、とこう考える。多くの注解者たちの意見です。

 

しかし、ある好意的な角度で見た人の意見があります。

 人は、夜にこそ、大事な話しをするのだ、と。昼間は働いて、汗水たらして、その中で、ふと、果たしてわたしは何のために働くのか、人は何のために生きているのか、なんてことを、ふと思い巡らす。

でも、昼間は、そこで立ち止まれない。まあ、いまどきは、夜の仕事をなさる人も増えてきましたから、一概に言えないわけですが、それでも、昔は、夜の仕事というのは、ほとんどありません。夜は、静かに考える。祈る、そして、真理について対話をする。それにふさわしい時間です。

 

 栄光教会では、藤枝礼拝堂で夕礼拝があります。夜八時から。夜の礼拝のほうが好きと言われる方は、意外と多いのです。み言葉が染み渡ると言われます。祈りも心地よいと。

わたし自身も、感じています。私も信徒のころ、夕礼拝が好きでした。昼間も好きですが、夜の礼拝は、ちょっと昼とは違う気持ちになれます。

 

 ニコデモが夜、主イエスを訪ねた。とても大切な魂の問題について、神様のみ心について話をするのに、やはり、夜がふさわしかった。そういう見方もできましょう。

 

 いずれであれ、訪ねて来たニコデモ。彼は、年齢的に言えば、息子か孫に当たるようなイエスに対して、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言います。並々ならぬ尊敬の仕方です。

 神のもとから来られた、そして、神が共におられる方。それがあなた。だから、あなたとお話ししたい、と。

 

たとえば、皆さんがだれかを見る。ああ、この人を見ていると、確かに神様は生きていらっしゃる、と思えてくる。この人を通して、神様の優しいお顔が見えてきそうだ。

そう思えるなら、きっと皆さん、その人に、これは、と思うことを尋ねられるのではないでしょうか。きっとよい答えをくださるだろうと期待して。

 

あの人は、人格的に素晴らしい、とか、聖書をよく勉強している、とか、そういう、能力や性格などの問題と違って、あの人には神様がついていらっしゃる、と思える。

 

旧約聖書を読むと、ダビデなんかがそうです。彼を見て、周りの者が、ああ、主はあなたと共におられる、と感じる。この人のやることなすこと・・・人間的にはもちろん、欠点があっても、それでも、この人にはやはり神様がついているのだな、なんて感じさせる。

 

周りの人が、それを感じるのです。その人を通して、その人の向こう側に、神さまが見えて来る。

ニコデモはイエス様を尊敬しているというあいさつをしました。お世辞ではありません。人生経験豊かな彼が見て、この人物は、まさに神さまが共にいらっしゃるお方だ。神さまの息がかかっているお人だ、と感じている。その意味で、一目おいている。

事実、彼は、今日の対話を終えた後、議会で、イエス様をかばったり、十字架で処刑された時には、アリマタヤのヨセフと一緒にイエス様のご遺体を丁寧に葬るお手伝いをしているくらいですから、これは、心からの言葉であったはずです。

 

でも、それを受けて、イエス様は、答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

まだ何も質問を受けていないのに、答えて言われたのは、イエス様が、ニコデモの心の中の問題を、彼がまだ口にしていない、心の中の引っ掛かりを、しっかり見届けられたということでありましょう。

それは何だったか、ニコデモが言葉に発する前から、イエスが見抜いておられたこととは、・・・・それは、そのお答えになった言葉から知ることができます。

 

イエス様はニコデモに対して、新たに生まれることと神の国を見ることについて、答えられました。

すなわち、これが、ニコデモの疑問、心の中のわだかまりだったのです。

 

周りの人たちから、ファリサイ派、分離、区別していると呼ばれるほどに、まじめに信仰生活を送っている。神様を求めている。神の国を求めている。神様のご支配を求めている。しかし、現実には、ローマ帝国の支配を受けている。生活も思い通りにならない。民の信仰も廃れていく。神さまではなくて、別の勢力が世を支配している。・・・神様はどこに。神様の支配はどこに。

自分自身が先生でありながら、夜、こうしてイエスのところにやって来る彼。

 

そのうめきを、イエス様は感じ取られた。それで答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 

新たに生まれる。これを聞いて、ニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と聞き返します。

 

イエス様の言葉は、分かりやすく言えば、人生、最初からやり直せ、ということです。二十代くらいまでの若い方々なら、それはできる。励ましにもなる言葉です。

でも、年を重ね始るごとに、今からやり直せということは、酷な言い方になってきます。

 

信徒の方の口からも時々耳にします。「ああ、もうちょっと若いときに聖書を読んで、信仰生活をしていたら、わたしももう少しましな人生を歩んでいただろうな」と。

 

やり直しのきかない人生を私たちは知っています。それは、年を取れば取るほど身にしみて、感じていくものでしょう。

二コデモは、どうやってやり直せというのか、と反問します。

 

  イエス様はお答えになります。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」

 

水と霊。洗礼を意味している言葉です。

でも、ここで、イエス様が、そういう儀式そのものを言われたとは思えません。

洗礼式を軽んずる気は毛頭ありませんが、しかし、ここで繰り返される、霊から、とか、新たに、という言葉の重みは、単に、機械的に≪洗礼さえ受ければ、≫ということとは違うことのように思えます。

 

霊から生まれる新たに生まれる。この地上の力とは違う、神さまご自身の力と関係している響きです。地上ではなく、天からの力。地上のどの知恵でもない、地上のどの心でもない、天のみこころ、私たちをはるかに凌駕する大いなるみ心について言われていること。

この世で生きながら、神のみ手の中に世界をしっかり生きるということ。

この世は、見える世界だけで判断すると、至らないところがたくさん見えてきます。肉の目だけで見るならば。

でも、その一見、至らないことの多いこの世界を、その向こう側で支えて祝福しておられるお方を通してみるならば、この世の見え方は変わります。生き方が変わります。

 

信仰がなければ水は水です。でも信仰があれば、水によって受けた洗礼が永遠の救いとなります。パンとぶどう酒は、信仰がなければパンとぶどう酒です。でも信仰があれば、それは、イエス・キリストの体と血です。

信仰がなければ、ここにいる面々はどこにでもいる人たち。でも、信仰があれば、ここにいる人たちは皆、神様の子供たち、キリストをかしらとするひとつの体です。

使徒信条やニケヤ信条で、聖徒の交わり、聖なる、公同の教会を信じます。と表明する。それは、この目では見えないものを、信じています、という証しです。

 

これが肉によってではなく、霊によって生まれ、霊によって生きるということです。

そのように生きる時、人は、神の支配の中で生かされていることを知る。そのことを知った時、今、肉の体において、何歳であろうとも、そこから新しいいのちが始まる。天に生きる生き方、神様と共に生きる生き方、霊によるいのちが始まる。

 

壁にぶち当たっているニコデモに向かって、いささか厳しい言い方もなさりながら、イエス様は、熱く真理を語られました。答えて言われました。

 

霊によって生きる。新しく生きる。新たないのちを生きる。

それは、信じて生きるということです。

神が共におられるということを、周りの人から認めてもらわなくとも、神が共におられるということを、信じる。

新しいいのちは、そこから始まります。

 

                              200967日礼拝にて

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