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マルコによる福音書21822

 

 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」




『新しいぶどう酒』

 

 先週木曜日、藤枝礼拝堂での聖書講座で、ルカ福音書(19章)に記されているひとつのたとえ話を学びました。それは『ムナのたとえ』と呼ばれているものです。

 

ある主人が、王の位を受けるために旅立って行く。その際、十人のしもべたちに、一人一ムナずつ渡して、「わたしが留守の間、これで商売をするように」と託します。

王位を受けて帰って来ると、しもべたちに「あの一ムナでいくらもうけたか」と決算する。一人目のしもべは、「あなたの一ムナで十ムナもうけました」、もう一人は「あなたの一ムナで五ムナもうけました」と。主人は彼らを、「良い僕だ」とおほめになる。

しかし、もう一人のしもべは、「あなたが恐ろしかったので一ムナは隠しておきました、これです」と差し出す。「不忠実な僕だ」と怒られ、その一ムナを取り上げられる、といった具合の話です。

 

教会生活の長い皆さんは、それを聞くと、「ああ、タラントの話か」と思い出されるかもしれません。ルカ福音書では、ムナのたとえとなっています。

 

福音書にはこういったたとえ話がいくつも記されておりますが、そこでは、まず、イエス・キリストご自身が何かにたとえられることが多いようです。

この話で言えば、王位を受けるために旅に出て行く主人が、イエスのことであることがすぐにわかります。「なるほど、天に昇って行かれたイエス様が、≪わたしはまた帰って来る≫とお約束なさった、そのたとえだなぁ。そして、一ムナずつを託されて主人の帰りを待っている十人のしもべが、わたしたちのことなのだろうな」と、わかるのです。

 

ほかにも、ぶどう園で働く労働者たちを雇うぶどう園の主人であるとか、いろいろな土地に種まきをする農夫であるとか、はたまた迷子になってはぐれた羊を必死に探しに行く羊飼いであるとか。

イエス様のたとえ話は、その話をなさっている主イエスご自身が、その中心にいることが多いようです。

 

本日与えられましたマルコ福音書2章のみ言葉。それは、今ご紹介したようなたとえ話のひとつではありません。

でも、よくよく読んでみますと、たとえ話の要素を含んでおります。イエス・キリストが、話の中に、たとえられながら登場しておられます。

 

何にたとえられていたでしょうか?

まず、イエス様は、花婿にたとえられていました。

「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねられた時、「彼らは、今、花婿と一緒にいるのだから、断食などするわけがないだろう」とお答えになっておられます。

 

弟子たちは、今、婚礼の祝いの真っ最中だ、と。花婿と一緒にいるのだ、と。

結婚式のめでたい時には、祝宴を開く。断食とは正反対。普段食べないような豪華な食事を用意して、みんなで楽しむ。断食などできるわけないだろう、と。

 

わたしたち日本人も、そのあたり、共感できます。結婚式の日は、そのあとの披露宴を存分に楽しみます。

これは日本人だけではありません。やり方はさまざまであっても、婚宴の祝いは多くの国でなされています。

 

特に聖書に出て来るユダヤ人。彼らも実は、結婚の祝いはかなり派手にやるようです。

律法に厳しくて、質素な暮らしをしているような印象を与えていますが、結婚式は例外です。

彼らの間では、結婚の祝いが一週間も続くそうです。

ラビの規則には「花婿に付き添う者はすべて、彼らの喜びを少なくする全ての宗教上の慣例から除外されていた」とあります。

つまり、分かりやすく言えば、結婚式の時だけは、大いに羽目をはずしてよい、うんとよろこび楽しみなさい、と教えているのです。

 

そういう背景を持った彼らに対して、主イエスは、「いま、わたしの弟子たちは、まさにその婚宴の祝いのただ中にいるのだ。断食などしない。」と断言なさったわけです。

 

これは考えさせられます。彼らはどちらも、神様を信じて、神様に従おうとする民です。

断食をする民も、神様を信じて、神さまに従うために断食する。

かたや弟子たちも、神さまに従い、神様を信じているからこそ、断食せず食べている。

どちらも神様を信じている点では同じです。

 

わたしたちは、自分が信じている神様を、自分の生きざまを通して、周りの人に見せることになるのです。

たとえば、先日もニュースで「不幸なことが起こるから」と言って、ずいぶん高額な値段で壺を売ったという事件の報道がありました。

言ってみれば、その行動から見えるのは、そう教える神様を信じているということです。それをしないと、裁かれるかもしれない、という神様を見ているのです。

 

そういった宗教、そういった信仰は、しばしば見かけます。

「終わりの日に裁かれないように」とたくさんのノルマを課せられる宗教があります。それを信じる信者さんたちがたくさんいます。その、必死にノルマを果たそうとする信者さんたちの姿は、そういうふうに彼らを強いている神様を映し出しています。

 

ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の人々にとっては、断食をする姿を通して、彼らがどんなふうに神様と相対(あいたい)していたかが、わかります。

その姿を見たら、「ああ、神さまは厳しいお方なんだな、このくらいやらないと認めてもらえないのだろうな」と周りの人の目には映るでしょう。

 

それに対して、主イエスの弟子たちは、断食などしない。むしろ罪びとたちと食卓を共にする。

今日の個所のすぐ直前では、≪徴税人レビが弟子に召され、彼は従った。そして、彼の家でおおぜいの罪びとたちと一緒に食事をして楽しんだ≫と書かれています。

 

これが、イエス・キリストによって信仰に導かれた者の姿です。

それが、つまり、花婿と過ごす者の姿にたとえられておりました。

 

わたしたちに与えられている信仰生活は、結婚生活なのです。花婿を迎えた暮らしです。その祝いであり、その生活です。

結婚したということは、もう他人ではないということです。一緒に暮らしているということです。喜びも悲しみも共に担っている関係だということです。

クリスマスのしるし、インマヌエルです。神、共にいます!ということです。

 

そして、これが新しいぶどう酒です。

≪いつでも、わたしはあなたと共にいる、なぜなら、わたしはあなたの花婿だから、あなたを愛し、あなたとずっと一緒にいることを誓った花婿だから。≫という、この知らせが新しいぶどう酒です。

 

「そのぶどう酒をそそがれたふさわしい革袋になっているか」と今日のみ言葉は、わたしたちに語りかけています。

「この新しいぶどう酒と、一体となるような革袋になっているか」と。

 

おそらく、わたしたちは、そこで大変かたくなな民ですから、そのすばらしい神さまからの呼びかけに十分こたえきれない革袋なのです。

古い自分を引きずっていたり、あちこちに破れがあったりして、この素晴らしいぶどう酒、いつも共にいてくださるイエス・キリストという新しいぶどう酒を、十分受け止めきれない革袋なのです。

 

しかし、それでも、イエス様は、わたしたちのところに来られる。

どんなに破れがあっても、どんなにかたくなで古い自分を捨てきれなくても、イエス様は来てくださる。

 

その結果、わたしたちは受け止めきれずに、ぶどう酒は、地面に落ちて行きます。

その、落ちて行くぶどう酒の姿のとおり、イエス様は、人々に捨てられ、十字架につけられました。

 

当時の人々が、イエス・キリストを受け止められなかったこと、それは、わたしたちと無関係のことではありません。

当時の人々が、イエス・キリストと相対し、反抗し、ついになき者にしてしまったというのは、わたしたちが十分、このぶどう酒を受け止めきれないことそのものなのです。

 

そのように、捨てられることが分かっていても、イエス様は来られました。

新しいぶどう酒として、わたしたちを生かし、わたしたちを救うためのぶどう酒として来られました。

 

わたしたちにできることは、「主よ、わたしたちを、いつも主が共におられる喜びに満たされた革袋にしてください」と祈ることです。

「あなたの愛、あなたの恵みを、十分に受け止めきれない、感謝も忘れる者ですが、どうぞ、おゆるしください。」と胸を叩きながら、祈ることです。

 

そこに主は来てくださいます。その祈りに答えて、主は来てくださいます。

徴税人レビや、大勢の罪びとたちが、あの日、イエスの食卓に招かれたように、わたしたちもこの弱さや、破れを抱えたまま、イエス様に招かれることを、そこで知らされます。

 

これこそが、天の食卓です。

罪びとたちを、すべてゆるし、受け入れ、「さあ、一緒に食べよう、飲もう!」と招かれている。それが、天の祝宴です。

 

わたしたちは、この食卓を知っているものです。この救いの席に招かれたことを知っている者です。今、皆さんが座っている、教会の席も、その席です。イエス様に招かれた喜びの席、救いの席です。

 

だから、わたしたちは、この世でも、断食の民とならない。いつも、主が共におられるという喜びの中に生きる民となるのです。

 

イエス様は、今日も、明日も、あなたという革袋の中に入ろうとして、やって来られます。

どんなに古くても、どんなに破れが大きくても、その革袋を愛して、主は来られます。

 

主の愛に満たされていることをしっかり受け止めて、また歩き出したい、このように思います。

 

                                 2009614日礼拝にて

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