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マルコによる福音書22328

 

 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「ご覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」

 

  「安息日の主」

 

 

先週の日曜日に学んだ聖書のみ言葉、覚えておられるでしょうか。時々、そう問いかけるのは、皆さんの脳の活性化によろしいかもしれませんね。覚えておられるでしょうか。

 

先週学んだところ、人々はイエスに言いました。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。

人々は、イエスの弟子たちが断食をしないことについて、尋ねました。それは、質問というより、少し非難めいた響きがあります。

ヨハネを中心とする集団、ファリサイ派と呼ばれる集団、神に従う人々のグループは、断食という忍耐のいる苦行を行って、修業というか、神への忠実な姿勢を表そうとする。ところが、イエス・キリストを中心とする弟子集団は断食をしない。むしろ、いつも食べている。罪びとたちとも食卓を共にする。どうしてですか、という問いかけから始まる個所でした。

 

それを受けて、イエスは、わたしと共にいることは、花婿と共にいるようなもの。いわば、婚宴の席にいるのだ。断食などできようか。むしろ、喜び祝って、感謝しつつ、この日々を生きるのは当然であろうと、そのようにお答えになったのでした。

 

イエス・キリストを信じて従う者の生き方。イエス・キリストによって招かれた生き方。そこには、喜びが中心に座る。悲しみではない、痛みではない、絶望ではない、喜びと感謝がその心の中に宿る。そのような生活を送る。そう教えられておりました。

 

実際、クリスチャンには、断食せねばならないというような戒律はありません。もちろん、思うことがあって、それをしたい人はやってもよいでしょう。また、ダイエットのために、という人もいらっしゃるかもしれない。

でも、それをしなければ、とても神さまの前に立てない、申し訳なくって・・・、というような関係はありません。

 

イエス様によって招かれているのは、赦された世界。あなたのことを、そのままでここにおいでなさい、と招かれる世界。イエス様の救い、イエス様の恵みを知った者は、感謝と喜びの内に生きることを知るのです。

彼らは、花婿と一緒にいるのだから、断食はしない。その宣言は、すぐ隣で聞いていた弟子たちをどんなにか慰めたことでしょう。

 

さて、今日の個所も、少し似た展開です。やはりイエス・キリストに向かって、「まったくあなたの弟子たちは、どうしてこういうことを平気でやるのですか」と非難がましい横やりが入っている。

それに対して、主イエスがお答えになられた言葉が記されております。

 

それは安息日のことでした。安息日というのが、最大の論点でした。しかし、安息日についてお語りになりつつ、もっと大きなことについて、イエス様は語っておられます。

そこをご一緒に学びたいと思います。

 

ある安息日のことでした。イエスが麦畑を通って行かれる。弟子たちもあとから一緒に歩いてきているのでしょう。

些細な表現ですが、弟子たちは歩きながら麦の穂をという、歩きながらというところは、逐語的に訳すと、道を作りながら、という言葉です。道なき道、あたり一面麦が生え、伸びているような畑の中を、かき分け、かき分けしながら、進んでいった、というような情景です。

そうして歩きながら、時に立ち止まったりして、弟子たちは麦の穂を摘んでいった。

 

麦の穂を摘んでいったから、それが泥棒みたいなまねだ、と非難されてはいません。ユダヤ人たちの教えでは、人の麦畑に入って手で摘むことは良い。でも、鎌を入れたらいけない、なんて言われていたようです(申命記232526)。

では何を指摘されているかと言えば、それが安息日だから、ということです。

 

これは前回学んだこととちょっと意味合いが違う。罪びとと食事をするとか、断食をしないとか、それとはまた次元が違う問題。安息日にしてはいけないことをしている。

これは、モーセの十戒の一つです。とても大事な一つです。

 

わたしは牧師になってから、いったい、どれだけこの十戒について人に語って来たでしょうか。ルーテル教会では、洗礼を受ける人に、堅信式を受ける人に、新しく教会の仲間に入る時に、十戒、使徒信条、主の祈りを学びます。

また、別の機会にもわたしは、これを繰り返し教えなさい、というルーテル教会の考え方に従って続けてきました。おかげで、これらについては自分自身何度も学ぶことになりました。聖書の勉強をしたから牧師になったというより、牧師になったから聖書をよく勉強する恵みを与えられた、と表現したほうが正確です。

毎週欠かさず礼拝に出る模範的な信徒だったから、牧師になったというよりは、牧師になったから毎週安息日を守る人生へと導かれた。毎週聖書研究会に出る人生へと導かれた。そう表現したほうがいいでしょう。今度、栄光教会に神学生の方がいらっしゃる。そういう思いでお迎えしてもよいかもしれません。

 

教会では、何か奉仕する人がいちばんたくさん恵みをいただく、と昔からよく言われます。その時は大変なことのようでも、教会の奉仕は、やった人が恵みをもらう。いろいろな意味で。それは味わった人だけが証言することのできることでしょう。

その意味では、牧師にさせていただいた人間は、どうあっても安息日を守り続ける。しかも栄光教会では、日曜日ごとに、だいたい三回の礼拝を守る。安息日がどんなにすばらしいか、それを、これでもか、これでもか、と味わわせていただいている者です。

 

さて、話がそれましたが、そのように恵み深い安息日ということが、しかし、ゆがめられていきました。

安息日にきちんと礼拝を守っているか、という監視の目が生まれていくのです。

そして、安息日、その名のとおり、安息しているか、というきつくて怖い監視の目が生まれました。それがファリサイ派の目です。

 

わたしは、今日の個所、あまり本質的でないことをふと考えてしまいました。弟子たちが麦の穂を摘みながら歩いている。それを、ファリサイ派は見て、イエスに言いつけている。彼らは、今どこにいるのだろうか。彼らは、その時何をしていたのだろうか、と。彼らも、安息日のために、あまり出歩かず、おとなしくしていないといけないのに、なんて。

 

でも、それは余計な詮索なのです。やはりそれは聖書が伝えようとする本質ではない。

むしろ、ひとつの本質は、彼らがそういう人の行動を監視するような生き方をしていた、ということです。そして、世間の人々が、人の目を気にして生きていた、ということです。

 

この意味で、前回の個所と重なります。「ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちは断食する。でもあなたの弟子は断食しない。」

人によっては、ああ、あの人たちが一生懸命断食している。多くの人が断食している。ならば、わたしもしなくっちゃ。となるかもしれない。少なくとも、そういうプレッシャーは生まれやすい。それは、今も昔も同じなのです。周りの目を気にしながら生きるのは、日本人だけの問題ではありません。いつでも、どこでも生まれる現象です。

 

そうやって、わたしたちは、いろいろなことに支配されている。世間の目によって、行動を規制される。特に、キリスト者の少ない日本に住むわたしたちは、キリスト者としてこういう日々を送りたい、と思っても、それがゆるされないことも多々あります。

いつでも、どこにでも、わたしたちの行動を監視する目があるのです。

 

それを象徴するかのように、ファリサイ派の人々は、イエス・キリストに向かって言った最初の言葉。それは、御覧なさい。でした。見てみなさい。強い訳をしている翻訳は、見よ、と訳されています。

ほら見てごらん・・・彼らは見ている。弟子たちの行動を。そしてそれを非難している。

 

ほらご覧。見てみよ、と言われたイエス・キリスト。言われるままに、ご覧になったことでしょう。無邪気に麦の穂を摘んでいる弟子たちをご覧になったでしょう。

さあ、主イエスは、どんなまなざしで弟子たちをご覧になったのか。

 

ひとことで言えば、大きなまなざし、彼らを包みこんで余りあるような大きなまなざしで、イエス様は弟子たちをご覧になりました。いつもと変わらないことです。

いまでも、変わらないことです。今、わたしたちのことをご覧になっておられる主のまなざし。そのまなざしで、主は、弟子たちをご覧になりました。

 

安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。

ここで定められたと訳された言葉は、むしろ、造られたという意味です。

創世記を読みますと、神さまは、天地万物を造られた、とあります。天のもの、地のもの、そして命あるものをお造りになったと。

そして、今日のみ言葉は、神さまは安息日を造られた、と。そのように理解することができます。

 

誰のために?人のために

天も地もそうです。空を飛ぶものも、海を泳ぐものも、地を這うものも。大地から生え出る木々や花や草も。全部、わたしたちのためにお造りになられました。全部を整えてから、神さまは最後に人をお造りになられました。すべてが、わたしたちのためでした。

 

安息日もそうだと。人のためだと。なにもかも、神様がおそろえになったものだと。

何と恵み深い言葉でしょうか。そのことだけでも、しっかり心に留めておきたいことだと思います。

 

そのうえで、さらにだから、人の子は安息日の主でもある。とおっしゃいました。

イエス様は、すべての主。わたしたちの主。すべてをそのみ手に治めたもうお方。わたしたちは、このお方の手の中で永遠の安らぎを、絶対不可侵のゆるしの中に入れられます。

 

だから、当然、安息日という日も、イエス様の御手の内にある。

今日この日、こうして礼拝を守るわたしたち、神さまが造られた安息日のおかげで安らぎ、救いをいただくのです。

 

でも、安息日だけが突出して大事であるわけではない。

それも含めて、すべてをそのみ手の内に治めておられるイエス様が、主である。

わたしたちは、ここから生まれ出て、ここに守られ、ここに帰って行く。それがすべてだから、と今日のみ言葉は、わたしたちに語りかけているのです。

 

そのイエス様の御手の中にあるものを、わたしたちは、時に我が物顔で振舞おうとします。そこにわたしたちの愚かさがあります。

 

まことの主はだれか。まことの王はだれか。すべてのものを支配しておられるのは誰か。

イエス・キリストが、わたしたちの主。その命を張ってでも、わたしたちを守ってくださる愛の主です。

この主を信じなさい。この主をしっかり仰ぎ見て、生きて行きなさい。

それが、今日のメッセージなのです。

 

 

                                  2009621日礼拝にて

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