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マルコによる福音書3112

 

 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 

 

 

 

『世に来られた神の子』

 

 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

本日与えられたマルコ福音書36節にこういう言葉が記されています。

 

これはまだマルコ福音書が始まって間もないところです。なにせ、3章の6節です。

福音書も終わりのほうになって、エルサレムに入られて、いよいよ十字架の日が近づいて、こういうことが書かれているのではなくて、イエス・キリストがご登場なさって、まだ間もない。マルコ福音書のページにして、まだ4ページか5ページ。

そこで、もうすでに、イエス殺害の話し合いがなされたことが確認できます。

 

さて、それとは対照的に、今日の個所、7節以下を読みますと、主イエスが民衆の間で大人気を博していたことがうかがえます。イエスの評判を聞いて、四方八方から人々が集まって来た・・・ここに記されている地名を、お時間ある時に地図で確認していただくと、パレスチナ地方の東西南北あらゆる地方からであることがわかります。

 

これもまた、考えてみれば、まだ始まったばかりなのに、であります。まだマルコ福音書が始まって、4ページか5ページしか進んでいないのに、もうすでに、主イエスの噂は方々に広まっていたのであります。

今のように、テレビやラジオ、また携帯電話や、インターネットがあるわけでもない。ただ口伝えで広まっていったのです。

 

わたしの青年時代からの知り合いで、松下電器、いまはパナソニックと言うようですが、そこの営業の社員の方がいらっしゃいます。わたしが学生のころに、教会でいろいろかわいがってもらった方です。

その方から聞きました。松下幸之助さんが、「歴史上、最大の宣伝マンはイエス・キリストであった」と。「彼は、その働きによって、方々の人々に知られ、人々の関心を集めた」と。

こんな話を社内で聞いた、とお話しくださいました。

 

確かに聖書を読んでおりますと、特に、チラシを配ったとか、何か宣伝行為のためのアドバルーンを上げたとかは、していない。

でも、その評判は瞬く間に、あちこちに広まっていったのです。

今日の個所にも、その一端を示すようなエピソードが記されていたわけです。

 

さて、その大群衆が集まってきたことについて、マルコ福音書は、群衆が押し寄せたと書いております。そして、イエスはそれをご覧になって、小舟を用意してほしいと弟子たちにお頼みになる。群衆に押しつぶされないためであるとあります。

 

これは、前半のファリサイ派の人々やヘロデ派の人々が、殺害計画を練り始めたというのとは対照的に、たいへん良い話です。イエスのことを殺すどころか、慕い求めている人たちの姿です。

わたしたちの教会も、いつか、群衆に押しつぶされないかと心配するほど、人が集まるような礼拝を守ることができたらなぁ、と私は思います。そのように祈っています。皆さんも、ぜひ、冗談だと思わず、祈っていていただきたい。

 

さてしかし、対照的なのですが、後半の話も、すでにイエスがその言葉のとおり、押しつぶされる話です。そういう日が来ることを、どこか暗示しているように聞こえます。

 

事実、エルサレムにたどりついた時には、この日、押しつぶさんばかりに押し寄せた人たちの中で、この三年後、十字架につけろ、殺せと叫んだ人もいたかもしれません。

十字架につけられた時にも、方々から人々が押し寄せました。たくさんの人が押し寄せました。

そして、その時には、本当に、人々はイエスを押しつぶしてしまいます。

逆に言えば、イエスは、その時には、押しつぶされるままに、押しつぶされます。

 

今日の個所では、押しつぶされないように小舟に移動されました。そして、押し寄せて来る人々の中で、病気に苦しむ人、悪霊に取りつかれている人などを、癒されました。

 

また、会堂の中においては、手の萎えた人をお癒しになりました。

 

主イエスは、この二つの段落の話で、何をなさったかと言えば、助けを求める人たちをお癒しになったのです。

 

 

もしも、イエス・キリストが、このような活動を続けて行ったら・・・。

つまり、その後も、医療行為を続けて行ったら・・・。

奇蹟の医療集団として、弟子たちと旅を続けたら・・・。

いや、旅を続ける必要などないでしょう。今日の個所にあるように、そこにイエスがおられると分かれば、群衆の方から、遠いところからでもやって来る。押しつぶさんばかりに・・・。

 

でも、イエス様は、それをなさいませんでした。むしろ、求める人があまりに熱狂するようであれば、小舟を用意してもらって、少し距離を置かれました。

 

また汚れた霊「あなたは神の子だ」と、その正体をきちんと言い当てているのに、それを言いふらさないようにと、厳しく戒められました。松下幸之助さんが社員たちに紹介されるほど宣伝ができる状態なのに、むしろ、その反対を望まれたように感じられます。

 

どうしてか。

イエス様は、大群衆を相手に伝道しようとはなさらなかったからです。たくさんの人をいっちょう救ってやろうとは思われなかったからです。

 

もし、それが望みならば、サタンの誘惑にも逆らう必要はありませんでした。≪わたしにひれ伏せば、お前に世界の繁栄を与えよう≫と誘いを受けた時、それを受け取っておくこともできました。

いや、サタンにそれをもらわなくても、父なる神様から、そのような力をいただいて、この世に来られることができたでしょう。

 

でも、イエス様は、そのような宣教はなさいませんでした。たとえ、大群衆が押し寄せても、むしろ、そこからは立ち去られました。病気を治してくれ、と望む者がまだいても、その人を残してでも、その地をあとにしました。

 

イエス様は、そういう救い主ではありません。

では、どういう救い主か。

イエス様は、会堂で、安息日に、たったひとりの人をお救いになる救い主です。それを望まれたのです。

 

あの日、手の萎えた人を、会堂で、安息日に、お癒しになられたように、今も、この会堂で、この安息日に、お癒しになることが、イエス様の願いなのです。

 

わたしは先ほど、この会堂に人があふれるような日が来るように祈ると言いました。本当に祈っています。でも、ある意味で、それは間違いなのかもしれない。結果として、そういうことがあるとしても、イエス様の願いは、「たくさんの人」ではなく、救いを求める「ひとり」を救うこと、その積み重ねとしての、たくさんの人でありましょう。

 

さて、聖書に戻ります。

イエス様はおっしゃいました。安息日に許されているのは、命を救うことか、殺すことか。

ここで、と訳されている言葉は、ギリシャ語でプシュケーという単語。これは、別のところでは、しばしば、魂と訳されます。

 

この安息日、この会堂で、許されていることは、魂を救うこと。父なる神様によって、イエス・キリストが委託されて、それを成し遂げるために、この世に降りて来られたわざ。それは、この安息日に、この会堂で、魂を救うことです。

 

皆さんはいま、それぞれの席に着いておられる。わたしは、この聖壇の上に立っている。

でも、イエス様によってこの会堂の真ん中に呼ばれています。あの日、手の萎えた人を会堂の真ん中にお呼びになられたように、イエス様は、あなたを会堂の真ん中に呼ばれる。何のために。あなたを救うために。あなたの魂を救うために。

 

大群衆の病気を治すこともお出来になった。イエス様は神の子ですから。神さまですから。

でも、イエス様は、それを続けて、人気を博すことをお望みではなかった。それは神のみ心ではありませんでした。

神さまのみ心は、ひとりの魂を救うこと。あなたを救うことです。そのために、群衆をあとにして行かれます。医療行為はお続けになりませんでした。

 

みんなを救うためではなく、あなたを救うために、エルサレムに行って、押しつぶされることをお選びになりました。それが、神のみ心でした。

 

今日この安息日に、この出来事を思い起こすのは、大変恵み深いことだと思います。

 

今日、この安息日、この会堂にも、イエス様のこの御心が宿っています。

イエス様は、今、おっしゃる。さあ、立ち上がりなさい。真ん中に立ちなさい。

 

イエス様は、あなたを救われます。あなたを救うために、世に来られたのですから。

あなたを救うために、群衆に押しつぶされたのです。逃げようともせず、押しつぶされるままに、押しつぶされたのです。

その死の向こうには、あなたに届けるための復活の命がありました。

 

今日もこのあと、ご一緒に「主の祈り」を祈ります。「み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです。」と結びで言います。「全てが、あなたのものです」と神様に向かって祈ります。

しかし、きっと、その祈りに応えて、主はお答えになっておられる。

わたしはすべてを捨てる。み栄えを捨てる。力を捨てる。無力のまま、押しつぶされることをわがものとする。そして、わたしは、ただ、あなたを自分のものとする。と。

 

あなたも、わたしも、とこしえに神さまのもの。そうなるように、イエス様は、その苦難の道を歩まれました。

 

あの日、各地から人々は主イエスのもとに駆け寄りました。これは、わたしたちも見習ってよいでしょう。

わたしたちも、常に、どんなときも、イエス様のところに頼りゆく。重荷を担いだまま、悩みを抱えたまま、あらゆる思い煩いを抱えたまま、あるいは喜びや感謝を抱えて、イエス様のもとへ行く。そして、祈る。

 

イエス様は、いつでも、わたしたちのことを受け止めてくださいます。イエス様は、わたしたちの救い主なのですから。

 

 

                                       2009628日礼拝にて

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