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マルコによる福音書32030

 

 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルにとりつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊にとりつかれている」と人々が言っていたからである。

 




『神の熱意』   

 

先週の礼拝で学びましたみ言葉、覚えておられるでしょうか。

先週の礼拝では、ある安息日の出来事を学びました。ある安息日、ある会堂で、…ちょうど、わたしたちが今こうして礼拝を守っているのと同じ状況です。そこで、片手の萎えた人をお癒しになったという話。それから、引き続き、湖の方へ出て行かれると、方々から大群衆が押し寄せて来た。イエス・キリストの評判は、ユダヤ全土に、またイドマヤや北の方のティルスやシドンの辺りまで広まり、どこへ行っても主イエスのおられる所には大勢の人が集まっていた。押し寄せていた。押しつぶされそうなほどだった、というみ言葉でした。

 

このあたりですと、どのへんになるでしょうか。大群衆が押し寄せるほどの場所。残念ながら教会ではない。藤枝の蓮華寺池公園とか、休みの日には人がよく集まります。人気のレストランも、休日はお客さんが並びます。

あのころ、パレスチナでは、イエス・キリストがおられるところに、人は集まりました。イエス様が、押しつぶされそうなお気持になるほどでした。

 

さて、きょう与えられたみ言葉を読みますと、その続きが書かれています。イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。と。

また集まって来たと。湖のほとりに行けば、集まった。会堂でも集まった。そして、いま、シモン・ペトロの家に帰って来られた。ゆっくり休もうというお気持ちもあったかもしれないのに、群衆がまた集まって来た。おかげで、食事をする暇もないほどであった。と。

 

さて、ただ今回、ここに集まって来た群衆の中に、ちょっと別な目的で集まって来た人たちがいました。イエスを一目見ようと来た人や、病気を治してもらおうと思ってきた人が多かったと思いますが、それとは違う目的で、ここにやって来た人たちがいました。

 

二種類の人たち。かたや、主イエスの身内の人たち。かたや、律法学者たちでありました。

この二種類の人たち。だいぶ雰囲気は違うと思われますが、共通していたのは、この時、イエス・キリストを否定してやって来たということです。慕い求めて来たのではなく、取り押さえに来たと書かれています。

 

前回の個所では、押しつぶさんばかりに押し寄せた群衆が描かれていましたが、ここではイエスを取り押さえようとして集まって来た人たちが描かれております。

 

イエスの身内の人たち。どういう身内の人か、どのくらいの人数か、何も書かれていません。身内の人というのですから、兄弟や、親戚、さらに、ナザレの田舎ですから、ご近所の人たちも、半分は家族みたいなもので、身内の人たちというのはその辺の人たちも含んでいた可能性はあります。ただ、今日の個所のすぐ後を見ますと、31節にイエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、と書かれています。身内の人たちの中に、つまりマリアとイエスの兄弟たちが数名いたことは確かかもしれません。

その人たちがイエスの評判を聞いた。ユダヤ、イドマヤ、ティルス、シドンにまで伝わっている評判、うわさ。今なら、さしずめ、新聞や週刊誌に連日報道されるような状態だったことでしょう。

 

マリア、幼いころから一緒に育った兄弟たち、その他、身内の人たちがこれを聞いて取り押さえにやってきました。ほかの周りの人は、好意的に来ました。病気を治してもらいたいという人も大勢いました。でも、身内の人たちは、取り押さえに来ました。

評判を聞いて、「あの男は気が変になっている」と思ったためでした。

 

気が変になっている。エクシステーミというギリシャ語の単語が使われています。気が変になるというほか、われを忘れる、恍惚状態になる、という意味もあります。

気が変になっている。他の翻訳を見ると、≪気が狂っている≫と訳しているのを多く見かけました。≪正気を失った≫という訳もありました。

興味深かったのは、いくつかの英語の聖書が、he is out of his mind としていたことです。out of his mind・・・英語の辞書を引けば、やはり「気が狂う」と書かれています。でも、面白い表現です。心から出てしまう、ということ。

 

ギリシャ語ではエクシステーミです。出だしが、エクスなになにという単語は、出て行く、飛び出るというニュアンスを含んでいます。英語のexit、出口も同じです。出エジプト、exodusも同じです。

 

out of mind・・・心から出てしまう。逆の言葉があります。in mindです。たとえば、keep in mindと言えば「心に留めておく」とか「覚えておく」ということです。自分の心という入れものがあるとすれば、その中に納めておくことがin mindです。

 

その反対。out of mind。入れものから出てしまう。はみ出てしまう。ギリシャ語のエクシステーミのニュアンスがそこに込められています。

 

身内の人たちは、イエスが何をしているか聞いています。≪病気を治した。どの律法学者よりもすばらしい教えを語った。悪霊をも追い出した。≫まさに、救世主。まさに、神の子のなせるわざ。それを聞いた時、ああ、あいつは出て行ってしまったと思ったのです。

ただ、寛大な意味での、あいつは出て行ったではありません。狭い了見において、ああ、あいつは出て行ったと思った。だから、取り押さえに来ました。

 

身内なのです。身内の人たちは、お互いを知っています。いや、お互いを知っていると思っています。いや、知っていなければ、おさまらない。自分の知らないところで何かをしているのは、身内ではないのです。手の中におさまらないのは身内ではないと願っている。

 

たとえば親から見た子供・・・思春期を迎えるとき。大人になる。それまで、自分の中にいたのに、自分の手から離れて行きます。

日本語も面白いです。身内。身体の内。小さいうちは、ほんとうに身体の内、手の内にいます。でも、だんだん離れて行く。そして、まったく突拍子もない世界に行こうとしたとき、取り押さえに行くことがあります。ちょっと待てと、ちょっと頭を冷やせと。

 

夫婦でも起こります。それまで、続けて来た日常の夫婦生活。ある時、夫が言います。「おれは神学校に行って、牧師になる」と。逆でもいいでしょう。女性牧師も本当に増えて来た時代です。奥さんがおっしゃる。「わたしは牧師になりたい」と。あれ、この人、気が変になったか、と思うのではないでしょうか。手の中におさまらないことだからです。out of mindです。out of meです。

 

今度、研修にいらっしゃる岡村神学生も、もとは学校の先生でした。牧師になろうという決断がなされた時、岡村さん自身よりも、奥さんがどう思われたか。機会があれば、聞いてみたい気もします。

 

エクシステーミ。気が変になっている。それは、身内の人たちからすれば、そういった思い・・・こいつはどうしちゃったんだ・・・という思いから、取り押さえに来たというのです。そして、取り押さえて、故郷に連れ戻して、自分たちの昔から知っているヨセフんちの息子の大工のイエスに戻ってもらおう、自分たちの手の中におさまる、自分たちのよく知っているイエスになってもらおう、ということでありましょう。

 

さて、もう一方の人たちも来ました。律法学者たちです。

彼らは、やはりイエス・キリストの評判を聞きました。その評判を聞いて、はるばるエルサレムから来ました。身内の人たちと立場が違いますから、言い分も違いました。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と彼らは言っていた。

 

言っていた。というのが微妙の訳ですが、その場で思いついて言ったわけではなく、そのように言っていた、言い続けていた、ということ。しかもエルサレムで。都で。神殿で。お歴々の間で。そして、それを言うために、わざわざエルサレムから下って来た。ユダヤ教のトップから命ぜられて、派遣されてきたのかもしれません。

 

その言葉を受けて、主イエスはかなり過激な発言をなさいました。家の中の内輪もめをたとえにして、サタンだって馬鹿じゃないから、内輪もめして、いがみ合って互いを滅ぼすようなことはしない。だから、わたしが悪霊の頭で、別の悪霊を追い出しているわけがない。と。

 

そのあと、乱暴な押し入り強盗のたとえもなさいました。

まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

何をおっしゃりたかったのでしょうか。の話がなされています。のたとえがなされています。このは、何をたとえているのでしょうか。

このに、皆さんの心が、たとえられているとみてよいでしょう。

皆さんの心という家が、悪霊のすみかになっている。悪霊というとピンとこないかもしれない。柔らかく言えば、皆さんの心の中に、疑いや、迷いや、憎しみや、絶望や、思い煩いや、悲しみや、傲慢などがある。いっぱいある、ということでもいいでしょう。

 

皆さんの心の中から神さまとのつながりを断ち切ろうとする力が働く。それが悪魔の力。イエス様は今、それをわたしが追い出すと言っておられる。その悪魔によって、いろいろな思い煩いが住んでいるあなたの心という家に、わたしが押し入って、その先住者を追い出して、わたしがそこに住むと言っておられる。

そのために出て来たんだ、と。まさに、出て来た。out of mindではない。out of heaven。天から出て来た。

 

天から出て来て、今この地上にいる。だから、わたしのなすわざを見て、自分たちの手の中に治めようとしてもおさまるわけがない。なぜなら、わたしはあなたがたを救うために天から下って来た神の子だから。あなた方を救うために、追い出すことが不可能に思えるもの・・・つまり、罪を追い出すために、やって来たのだ!どうしても、勝つことができないと思っている壁、死という壁、それを取り壊して、あなたがたをこの手におさめるために、天から出て来たのだ。

エルサレムから出て来た律法学者たちの言葉に触れて、イエス様は、そのように熱く語られたのです。

 

終わりの方にある言葉は、ドキッとさせられるものかもしれません。イエス様の口から、永遠に赦されない、という言葉が出ていますから。

でも、永遠の≪罰≫とは言われていません。永遠の罪の責めを負うと書かれています。

 

イエスさまの十字架による贖いを信じないならば、罪というものはほかに清算しようがありません。

主を信じないならば、罪の責めを負い続けることになる、その責めから解放してあげる、どんな罪をも赦すためにわたしは来た、わたしを信じなさい、というメッセージとして聞くことができれば、それで十分と思います。

 

厳しい言葉が目に留まる癖がわたしたちにはありますが、むしろ、はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。という言葉にこそ、比重を置いて聞くことができると思います。

 

イエス様は、わたしたちの中に何があろうとも、わたしたちが、心から信じて主をお迎えする姿勢があるならば、わたしたちの中にある余分なものを追い出して、一緒に住んでくださる。

その約束をきょうご一緒に喜んで受け入れたい、とこのように思います。

 

                                 200975日 礼拝にて

 

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