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マルコによる福音書42634

 またイエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それはからし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 

 イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

                       

 

「神の国のたとえ」

 

  本日与えられましたマルコ福音書4章の御言葉は、イエス様がお語りになったたとえ話でありました。

 

 最後の所に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」と書かれているように、イエス様はたくさんのたとえ話を、人々に語られました。

皆さんは、どんなたとえ話を思い出されるでしょうか。

 

  たとえば、羊に関するたとえ話がいくつかあります。

 私たちは羊、そしてイエス様はよい羊飼いであると。よい羊飼いは、羊をよく知っており、羊のために命を捨てることもあると語られました。

 また、百匹の羊がいて、そのうちの一匹が迷子になったら、九十九匹を置いてでも、その一匹を探し出しにいくのだというお話もなさいました。

 

 あるいは、今日の御言葉のように、植物を題材にしてお話しになられたものもたくさんあります。

父なる神様は農園の農夫、そして、イエス様はぶどうの木、そして私たちはその木に連なる枝々である。だから、枝であるあなたがたは、わたしにしっかりつながっていなさい、そんなたとえ話もお残しになりました。

 数え上げればもっともっとたくさんあります。皆さんの中にも、いろいろなたとえ話が、心に残っていることでしょう。

 

  いずれにしても、それらのたとえ話は、神の国に関わること、あるいは、救いに関わることであります。

 たとえの中で、神様がご主人にたとえられる。そして私たちがその僕であったり、木につながる枝にたとえられる。

 いろいろにたとえられますが、それらはすべて、私たちがいかに生きるべきか、いかにして神様との関わりを受け止めるべきか、そして、いかにして、神の国は私たちに開かれているのかを伝えます。

 

 見えざる神様について、また見えざる神の国について、見えざる神の御心について、イエス様は、それを見えるものにたとえてくださったのであります。

 

 今日の個所でも、やはり、そのたとえは、神の国のたとえとして差し出されております。一体どんな御言葉をもって、イエス様は神の国についてお語りになったのか。そして、それは、今の私たちに何を語りかけているのか、ご一緒に振り返って参りましょう。

 

  この日、イエス様は、二つのたとえ話をなさいました。一つは、種まきの話です。人は土に種をまく。それが、話の状況設定です。

 人が種をまく。・・・教会のお庭にも、いろいろな植物が育っていますが、どんな植物も元は、小さな種でした。

 人が種をまく。古今東西のだれもが、身近に思い起こすことの出きる話です。

 

 蒔いた人が夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出す。

 蒔かれた種は、土の中で育ちます。土の中にある養分、また太陽の光を浴びて、また今の季節のように、雨が降り、蒔かれた種は育ちます。

 

 人が夜昼寝起きするうちに。些細な表現ですが、聖書では、よく夜昼と書かれています。日本語では、普通、昼夜も問わず、とか朝昼夜というものですが、聖書は夜昼とよく書いてあります。

 これは、ユダヤ人たちが一日を夜から数えていたためです。

 彼らにとっても一日は、日没から始まります。朝起きたら、一日が始まるのではないのです。ですから、安息日に関する話になると、夕暮れになり、安息日が明けると、といった表現が出て来ます。

 話の本筋とは関係ありませんが、知っておいて損はないことでしょう。

 

 さて、人が夜昼寝起きするうちに、種は芽を出して生長する。しかし蒔いた人はそれを知らない。

 人は知らないと書かれていますが、何を、人知らないのでしょう。

 

 先ほど申し上げたように、蒔かれた種が、土の中の養分を取り、太陽の光を浴び、水が十分に与えられると育つことくらい、私たちも知っています。それを知っているから、種を蒔きます。

 学校で理科の勉強をすれば、生物が育つメカニズムについて、知識を得ます。雨が降るメカニズムもしるし、あるいは、人体の不思議について知ることが出来ます。

 また、難しい論理を知らなくても、たとえば、人の成長も同じです。二千から三千グラムくらいの体で生まれてくる。小さな赤ちゃんの姿で生まれても、ちゃんと食べて寝て、毎日を普通に過ごしていれば、大きくなることを知っています。

 

  でも、本当の意味で、私たちは知っているのでしょうか。

 こう考えるとよいでしょう。私たちが精巧なロボットを作ったとする。でも、そのロボットが、食べ物を食べたり、だれかと感情を持ってお話をしたり、恋をしたり、結婚をしたり、そして、また新しい命を生むという事が起こるか。

 

  私たちが生まれ、そして成長するということ。これは当たり前のようでいて、決して当たり前ではない。命がそこにあるということ。その命が成長しているということ。それは決して当たり前のことではありません。

 

  私たちは知らないのです。私たちは命を造り出すことも、命を支配することもできはしません。

 私たちが夜昼、寝ては起き、寝ては起き、暮らしている中で、私たちの目には見えないところで、見えざる方が養っておられる。

 

  イエス様は今日のたとえ話の中で、それを、土はひとりでに実を結ばせると表現なさっておられます。ひとりでに、としか言いようのないあり方で、命は育まれております。

 

  そして、そんなあり様の中に、神の国はあると言われております。

それは決して私たちの造り出すものではない。私たちの知らないところで、確実に、その命の種の中に、神様の御心が満たされる。私たちがいかようであれ、確実に神の国は、この世に実現されている。

そういうことを告げているように聞こえます。

 

  では、私たちの出る幕はないのか。そんなことはありません。

 人は種を蒔きます。そして、時が来れば、収穫のために鎌を入れます。

 

 私たちのことは放っておいて、私たちを置いてけぼりにしていかれるのではなくて、神様は、神の国が次第に成長する過程に、私たち自身をしっかり組み込まれる。そして、その喜びを、味わうよう導いてくださいます。

 

  でももちろんその始めから終わりまでを導かれるのは、主なる神様御自身であることが、ここから教えられます。

 

  さて、更にもう一つのたとえ話を付け加えてくださいました。

  神の国はからし種のようなものだと。

 

 わたしはこういう植物のこと、詳しくはないのですが、ある文献を読んでおりましたら、黒からし種というのがあって、それは直径0,九ミリくらいで重さは一グラムほどだそうです。目にも留まらないものです。

  しかし、成長すると、一,二メートルほどになる。ガリラヤ湖周辺のからし種は、三メートルにもなるそうですから、私たちの背丈の倍くらいのものになる。

  全く不思議なことです。

 

  からし種に限らず、植物の種を思い起こしてみますと、どれも、手のひらにちょいと乗るくらいの小さなものばかりです。

わたしの家でも今トマトやなすなど、ちょっとした野菜を育てていますが、よく考えると不思議です。気付かなければ、ポイと捨ててしまいそうになる小さな種を土に植えると、やがて、芽が出て、しっかりとした茎になり、葉が出て、実が付く。そして、いくつもいくつものトマトがなって、食べられる。あの種は、どうやって作ることが出来るのか。命の神秘です。

 

  からし種は、特に小さな種だそうです。

イエス様は、神の国をこれにたとえられる。神の国は、からし種のようである。

 

  国と言っても、地球上の国家を思い浮かべる必要はありません。

  今申し上げたように、たとえば、小さな命の中に、神秘を見て、そこに神様の見えざる力、人の力や思いを越えた、神様の無限の力を見ること。そして、すべての造り主、すべてを治められる神様を思うこと。それが、神の国です。

  だから、それは、あそこにあるとか、天の上にあるとかいうことではなくて、私たちのただ中にあるものなのです。

 

  すべてにおいて、神様を認め、神様を尊び、その御心の大きさに圧倒され、ただこの方にすべてをゆだねようと思うなら、そこに神の国はあります。

  それが神の国です。

 

  それは、目には留まらないもの。この世でそれをたとえるなら、からし種一粒のようなもの。

でも、小さいように見えても、それは確かにある。そして、それは成長する。地上のどんな植物よりもからし種が大きく成長するように、神の国の種は、私たちの中にまかれ、私たちの中で、また、私たちの見ることのできないところで、しっかり成長する。

私たちが夜昼寝ているうちに、確実に、神の国は前へ進んでいる。そう今日の御言葉は告げております。

 

  これは私たちを励ます御言葉であったと思います。

 

私たちはこの地球上で、名もない小さな一人一人であり、私たちの献げる祈りも賛美も、小さなものに思えることがあります。

でも、そんな小さなものであっても、そこに命がある。からし種のように、そこに命がある。それは養われ、成長し、やがて大きな実りをもたらす。

 

  私たちの知らないところで、必ず主御自身が、一つ一つを祝福してくださる。

  今日の御言葉は、私たちにそのようなメッセージを届けていたのです。

 

 

                                 2009712 礼拝にて 

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