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マルコによる福音書43541

 

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆をあとに残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

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『荒波を踏み越え』

 

本日与えられましたマルコ福音書4章のみ言葉、それは、もうあたりもすっかり暗くなった頃、ガリラヤ湖の沖で、イエス・キリストと弟子たちを乗せた小舟が、嵐にあった時の話でした。

 

この、わりと短い物語の中に、実は、≪大きい≫という単語が、三度も出てまいります。それは、日本語に訳すときに、いささか不自然な感じを与えるので、≪大きい≫とは訳されていません。

 

どこにあるかと言いますと、ひとつめは、激しい突風というところです。

小舟を襲った突風激しい突風。これは、直訳しますと、「大きな風の突風」とか、「風の大きな嵐」とか、そんな言葉が使われています。

その突風は、「大きな風」によるものであったと表現されています。

 

次に出て来る≪大きい≫は、風はやみ、すっかり凪になったというところです。

艫の方で枕をして眠っておられた主イエスが、起き上がって、風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になったと。

このすっかり凪になったというところは、逐語的に訳しますと、「大きな静けさが生じた」とか、「大きな凪になった」という感じです。

 

「大きな突風」が吹き荒れ、弟子たちは不安に陥った。その風をイエスが叱りつけられると、「大きな静けさ」に変わった。こんなふうに表現されています。

 

わたしたちの普段の言い方であれば、シーンとなったとか、水を打ったようなとか言います。シーンという音が聞こえてきそうなほど、水を打ったのかと思うほど、静まりかえる。ただ黙るというのではなく、静かにするという積極的な行動を取っていると言ったほうがよいかもしれません。「大きな静けさ」・・・重みのある言葉です。

 

さて、最後、三つ目の≪大きな≫という単語は、どこか。

この「大きな凪」になった出来事を目の当たりにして、弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合います。この弟子たちの反応、非常に恐れて、というところ。これが、「大きな恐れ」となっています。

不器用な訳になりますが、「弟子たちは、大きな恐れを恐れた」というのが直訳です。

 

「大きな風の嵐」を受ける。怖くて仕方がなくなり、イエスを起こす。

イエスがその風を叱りつけると、「大きな静けさ」がそこに生まれる。静まりかえる。荒れ狂っていた、あの「大きな風」が、「大きな静けさ」となる。

そのさまを見て、弟子たちは、「大きな恐れ」を抱く、と。

 

さて、弟子たちは、もともとその「大きな風」が怖かったはずです。もう死ぬかと思っていたでしょう。艫の方でいびきをかいているイエス様を見ながら、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びました。

おぼれても。新共同訳は、わりと優しい表現を使いました。他の多くの翻訳は、「おぼれ死んでもかまわないのですか」とか、「わたしたちが滅んでも気にならないのですか」なんて訳しています。単に溺れて、アップアップ苦しい思いをするということではなく、もう死んでしまう、という危機感を持って叫んでいます。

 

自分たちを死に至らせるほどの「大きな風」、荒波。その波が、その風が怖い。

そして、その波風によっていま命終わろうとしていることが怖い。ここで、人生が終わってしまうことが怖い。

 

みなさんも、ひょっとしたら、そんなご経験をお持ちの方もおられるかもしれません。ああ、死ぬかと思ったという瞬間。

 

弟子たちは、それを味わいました。

もう死んでしまう・・・それが怖かった・・・はずです。実際、彼らは、イエスに「なぜ怖がるのか。」と言われています。なぜ怖がるのか。

 

怖かった。彼らは怖かった。波が、風が怖かった。いのち奪われそうなことが怖かった。

しかし、しかしです。彼らは、最後のところで、「もっと大きな恐れ」を感じます。

すなわち、その波風を、鶴の一声で静めてしまわれたお方。

 

ついさっきまで眠っておられた・・・変な読み方というか、いささか不敬虔な読み方ですが、わたしには、どうも、この時のイエス様は、弟子たちに起こされて、ううーん、もう面倒くさいな、といった感じで起き上がられて、「黙れ。静まれ」と言われたように思えます。

 

ものすごい風だった。ものすごい「大きな風」だった。もう舟はのみ込まれる寸前だった。彼らの命は、風前のともしびだった。だから、怖かった。

でも、彼らはもっと「大きな恐れ」を知る。風や波をも従わせるお方を見て、彼らは、「大きな恐れ」を知る。それは、今まで味わったことのない類の恐れ。

 

日本語では、恐怖の意味で、「恐れる」というのと、畏怖・・・畏れ敬う、畏れかしこむ、という時に使う「畏れる」と、大きく分けて二種類のおそれがあります。

 

弟子たちが、最初に味わったのは、純粋な「怖い」という意味での「恐れ」でした。

でも、最後に彼らが知ったおそれは、神を知った人のおそれでありましょう。それこそが、「大きなおそれ」でしょう。

 

それは、いのちを奪いそうな波風に対するよりも「大きな恐れ」です。いや、それはどっちがどう、などと比較にはならないことと思います。

 

そのような「おそれ」を知った彼らは、いったい、この方はどなたなのだろう。と自問します。彼らはまだ分かりません。衝撃波を受けて、立ち尽くしているばかりです。

 

また、その彼らに向かって、イエス様がおっしゃった言葉は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」でした。

まだ信じないのか。裏を返せば、もう信じてもよさそうなのに、です。

もう信じてもよいだろうに、まだ信じていないのか。

 

何を?イエス様は、弟子たちに、何を信じていてほしいと思われたのか。

あるいは、逆に言えば、主イエスは何を信じておられたのか。

 

言うまでもなく、主は、父なる神を信じておられました。

この時≪眠っていた≫というのは、いかにも象徴的。

その大きな御腕の中で、ゆりかごの中で安らぐ赤子のように、主イエスは父なる神を信じて、この地上での日々をお過ごしになっておられた。

だから、怖がらなかった。もっと「大きな恐れ」を知っておられた。

 

これが第一でしょう。そのような信仰、そのように信じることを期待していらっしゃる。まだ信じないのか。なぜ怖がるのか。と。

 

さて、主イエスがもうひとつ、信じていたものがあります。それは、弟子たちです。

主イエスは、父なる神を信じていたから、舟で眠っておられた。

同時に、弟子たちのことをも信じておられたから、安心して眠っておられました。

 

向こう岸へ渡るのは、決してたやすくありません。

でも、いろいろな時にわたしたちは向こう岸へ渡ることがあります。決断の時があります。新しい時へと移る時があります。行く先を知らずに、石橋をたたく暇もなく、渡らなければならない時があります。

 

教会もそうです。教会という名のこの舟、小舟も、この世という大海原の中を漂い進みます。

まだみ言葉を知らない人たちのところへ、さあ、渡ろうということがあります。

新しい取り組みに進んでいくことがあります。いつまでも、同じところにいようとは、イエスはおっしゃらない。「向こう岸に渡ろう」と言われる。

その時、主イエスは、乗組員であるわたしたちのことを、信じてくださっておられます。わたしたちのことを。皆さんのことを。

 

わたしは先週の日曜日、そのイエス様の心境をわずか味わいました。日曜日というのに、わたしは先週、布団の中におりました。熱が出て休みました。

そのとき、ああ、どうなるかな、大丈夫かな、という心配はあまりありませんでした。役員の方を中心に、信徒の皆さんが、きちんとやってくださる。わたしは、今日はゆっくり寝ていよう、と思いました。

神さまへの信頼と、その弟子である信徒の皆さんへの信頼を、同時に覚えました。

 

イエス様も、だから、枕をして寝ておられました。弟子たちを信じていたからです。

そして、その弟子たちを支えてくださる父なる神を信じておられたのです。

 

 

この舟の操縦は、頼んだぞ。この、神の家を頼んだぞ、と。

もう、まったく、頼りないなぁ、と言って手を出したくなることも多々おありでしょうけれども、イエス様は、手をお出しにならない。なぜなら、わたしたちを信じておられるから。

この、父の家を、御心にかなうよう、運営することを託しておられるから。

 

わたしたちは、その期待を受けています。

そして、その期待を受けていることを知った時、そこで、「大いなる畏れ」を知らされます。

「大いなる畏れ」を知った者は幸いです。もはや、この世の事柄に、大いなる恐れを抱かなくてよいからです。死をも恐れなくてよい。

 

もちろん、弱いわたしたちは怖がります。わたしも結構いろいろ怖がりです。臆病風に吹かれます。

でも、それが決定打にならない。決定打は、あちらへの畏れだと知っている!

 

この舟は一見もろそうに見えても、恐れる必要はありません。あの方がおられます。風や湖さえも従わせるあのお方がおられます。

そこに、信仰があります。

 

主はわたしたちに負いきれない荷物を負わせることはございません。

雲の向こうに晴れ間が広がっているように、わたしたちの日々は、主にある、大きな希望に支えられています。愛のみ手がわたしたちを支えています。

 

この舟を信じましょう。この舟の艫の方で、いつもわたしたちと共におられる主を信じましょう。信じる者は、いつも、祝福されます。

どんな世の荒波も、勝利の主にはかないません。主は、あらゆる荒波を、大きな風をも、打ち破るお方です。

主を信じて、新しい日々へと送り出されて行きましょう。

 

                                   2009719日 礼拝にて

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