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ヨハネによる福音書15912

 

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。

                                             

『平和への祈り』                      

 梅雨の明けない、じめじめした7月も終わり、8月を迎えました。さすがに、もう夏らしい毎日になって行くことでしょう。

 

さて8月・・・8月は何の月か。1月、2月、3月、4月・・・とそれぞれの月を過ごしてきました。その月々の顔があります。四季折々を楽しむことのできる日本では、それぞれの季節に顔があり、その季節を、その季節らしく過ごしながら、心やしなわれ、育てられていく幸いがあります。

 

8月は、もう言うまでもないことです、平和を祈る月です。今や、「8月は何の月ですか」と尋ねられれば、その答えの中の、おそらくベストスリーには、「平和をおぼえる月」、「平和を祈る月」という答えが返って来ることと思います。

 

実際、8月になると、全国各地で、平和集会が行われます。広島や長崎だけではありません。日本中が、この一カ月、平和という言葉を何度口にするでしょうか、何度平和という言葉を耳にするでしょうか。普段以上に、平和を思いめぐらすのが、8月です。

 

そして、そこで、立ち止まって深く考える方は、「いったい平和とは何だろうか」という問いに行き当たることでしょう。86日、9日、15日に「黙祷!」といって、目を閉じるだけではなく、また、核廃絶のための署名運動に参加したり、各種平和集会に参加したり、反戦映画を見たりするだけでなく、本当に深く思いめぐらした人は、必ずこの問いに行き着くはずです。

 

「果たして、平和とは何だろうか。それは、ただ、戦争が行われていない状態のことを言うのだろうか。戦争さえ起っていなければ、それは平和と言えるのだろうか。」

 

わたしたちの魂が、そう思いめぐらします。私たちの心が問います。

確かにいま、ここで戦争が繰り広げられているわけではない。何事もなく、それなりに平和に暮らしているかもしれない。でも、「わたしの心は、今、とても平和です。平和に満たされています、何も不足はありません。」そう叫ぶことができるだろうか。

 

そう思い至った時、「果たして平和とは何だろうか。わたしにとって、平和とは何だろうか。わたしたち、みんな・・・万人にとっての平和とは何だろうか。それはただ単に、戦争がない状態、という言葉では言い表せないのではないか」という問いにぶつかります。いや、その問いにぶつかるまで、平和ということについて、考えないといけないのではないか、と思います。

 

この平和主日のために与えられました聖書の言葉は、ヨハネ福音書15章からのものでした。短い段落です。平和について思いめぐらすのに、多くは要らない。これで十分と言っているかのように、短い個所でした。

 

その短い個所に、という言葉が、何度も出てまいります。平和という言葉はありませんでした。でも、代わりに、という言葉が、繰り返されておりました。の中に、平和があると語っているかのようです。

 

さて、そのみ言葉の中に、これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。とありました。

 

イエスは、弟子たちに、また大勢の群衆に、たくさんの言葉を語って来られた。それは何のためであったかと言えば、イエスの中にある喜びが、みんなの心にも宿るように、みんなの心も、その喜びで満たされるように、そう願って、語って来られた、というのです。

 

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

この一節だけを取り出して読んでみたら、実に心晴れやかな、飛び跳ねるような喜びの言葉だと思えます。しかし、これは、どんな状況で語られた言葉だったのか、と言いますと、もうあと数時間後、捕らえられて殺されるという状況の中で、語られたものでした。いわゆる、最後の晩餐の席上です。

 

今日の個所は、最後の晩餐の席上で語られた言葉のゆえに、イエスの告別説教などと呼ばれます。

明日、殺されるということが分かっている、その時に、イエスは、喜びについて、高らかにお語りになりました。

わたしの中には喜びがある。その喜びがあなたがたの心をも満たすためにわたしはあなたがたに多くのことを語って来た、と。

 

最後のときに至って、イエスは、すべてを振り返りながら、わたしの心にはいつも喜びがある。それを、お前たちにも分け与えたいから、今まで、いろいろなことを語り、また共に過ごしてきたのだぞ、と語っておられます。

 

真の平和とは何か。ここに、ひとつ大きな答えがあります。

それは、戦争がないことではありません。健康が支えられていることではありません。心配事がないことでもありません。

たとえ明日死ぬと分かっていても、喜びが胸に宿っているという状態。それが真の喜びです。そのような喜びが宿る時、真の平和を人は味わうでしょう。

 

イエスは、そのような平和を胸に抱(いだ)いておられました。

そのような喜びを携えて、この地上に降りて来られました。そして、そのような喜びを人々にもたらそうと、御自身が持っておられるその喜びを、わたしたちにも抱いてもらおうと、この地上にやって来られました。

 

その喜びの源は、天にあります。この地上にはありません。これは天の領域です。真の愛、真の喜び、真の平和は、天の神様の領域なのです。

この世は、そのような喜びを与えることはできません。この世にある喜びは、限りがあります。たとえば、これはあの人には喜びでも、この人には喜びではない。とか、今ここに喜びがあっても、ちょっとした出来事で、その喜びが曇ってしまうとか。この世の喜びは限りがあります。

 

どんな時でも、消えることのない喜び、そしてどんな人にも共通の喜び、それは、天からいただく喜びです。イエスは、その喜びについて語られました。そのような喜びでわたしたちを満たそうとして、世に下って来られました。

 

では、それはどんな喜びか。

イエス様は、それをどんな言葉で語って来られたでしょうか。

 

たとえば、思い出されるのは、放蕩息子のたとえ話。お父さんを裏切り、勝手放題しまくった息子を、温かく迎え、すべてを赦してくれたお父さんのたとえ話。あそこには、天の赦しが語られております。天の平和が、天の喜びが語られております。

 

あるいは、迷える一匹の羊のたとえ話。その一匹のために、必死になって探してくれる羊飼い。そして、ついに見つけてくれた、抱いて帰ってくれる羊飼い。これも、天の愛を教えていました。天の喜び、天の平和を教えていました。

 

このような愛が、天にはある。あなたは、このような愛によって愛されている存在。あなたのために、神さまは、あの羊飼いのように心砕き、またあのお父さんのように、放蕩息子であるあなたを迎えてくれる。この愛こそ、天の愛。

 

その愛にとどまれ、と今日のみ言葉は語っておりました。

この愛から離れない、この愛にとどまっている。神の愛に包まれていること。それを確信していること。それが、天につながる喜び。天につながる平和。

 

これは、無限です。永遠です。永遠の世界です。つまり、神様の世界です。

 

ゆるせないものはゆるせない!これは、人間の思いです。

その人間の思いにつながっている以上、たとえ、今戦争がなくても、心に平和は訪れません。そこから解き放たれ、たとえ明日死ぬとしても、喜びを味わうとしたら、天とつながっていないといけません。天の神様とつながった所でしか、真の喜び、真の平和は生まれません。

 

わたしたちが、本当に突き詰めて、平和について考えた時、真の平和になかなか行きつかない。いや、むしろ、立ち止まらざるを得ない。「どこに平和があるのか」と。

 

それは、地上に探しても見つからないのです。なぜなら、わたしたちは不完全だから。わたしたちは、自分自身だけで、完結する存在ではないから。わたしたちは、いつだって愛に失敗するから。何でも赦してあげられるほど、わたしたちは無限の広さをもっていないから。

 

でも、そのことに気付き、ひざまずくことができたら、そこにひとつの平和が生まれます。地上の限界に気付くことは、天に通じる思いだからです。

 

聖書が悔い改めを勧めるのはそのためです。

わたしたちに、罪を教えて、限界を教えて、ひざまずくように教えるのは、無限は天にある、わたしたちにできないことが天にある、あのお方のもとにあるということを、伝えるためです。

 

そのことに立ち至った時、わたしたちは、わたしたちの心は、平和で満たされます。天の平和で満たされます。

この世のどんな測りでも測ることのできない、大きな神様の愛に触れた時、その愛にとどまる時、わたしたちには、平和が与えられます。

 

それこそが、主イエスが、届けようとされた喜びでした。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

 

そして、この天の愛に満たされていることを知ったならば、惜しむことなく、あなたも隣人に愛をもたらす人になりなさい、とあります。

そこに平和があるからです。そこに喜びがあるからです。

 

さあ、そう勧められて、そのような愛に、そのような平和に、とどまり続けることができるでしょうか。

残念ながら、それはわたしたちにはできない。この地上で生きている、不完全なわたしたちですから、仕方ありません。

 

ただ最初からあきらめて、何もしないのはいけません。できることをコツコツ続ける。それは、わたしたちにもできることです。時につまずきながらも、立ち上がって、やり直す。それもできることでしょう。

 

でも、何より忘れてならないこと。それは、神様を思い起こすことです。

とどまりなさい、とどまりなさい、と教えられたみ言葉でしたが、実は、とどまっておられるのは、神様の方なのです。

わたしたちがどんなに罪深く、どんなに心が弱く、どんなに神さまに背を向けても、神様の愛は、とどまり続けている。永遠に変わらない。たとえ、もうこれでだめだ、と思えるような時が来ても、神様の愛は、とどまり続ける、あなたのために。

 

このことを信じる。このことを胸に刻んで生きる。そこに、平和は宿ります。

そこに、イエス様が抱いておられたのと同じ喜びが宿ります。

 

イエス様はいまも、そのような喜びがわたしたちに宿り、わたしたちを満たすようにと、祈り続けておられます。

 

わたしたちもまた、主と共に、祈り続けて行きましょう。

自分の心に平和が宿るように、隣の人の心が、喜びで満たされるように。祈り続けて行きましょう。

祈る者の心に、主の平和は宿るのですから。

 

 

                                 200982日 礼拝にて


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