説教集 目次へ 

  

マルコによる福音書66b13

 

 

 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

『遣わされて、今ここに』

 

本日与えられたマルコ福音書のみ言葉は、イエス・キリストが、その弟子たちを、宣教するために派遣なさったときの話です。

いまどきは、派遣社員という立場の方々が、職場で活躍をしておられる時代ですが、今日のみ言葉は、もう2000年近くも前に、派遣された者たちの話です。

 

結論を先に見ますと、主イエスによって派遣された弟子たちは、その遣わされた町や村で、多くの悪霊を追い出し、多くの病人をいやした、とあります。

宣教の旅は成功裏に終わった、その成果たるや、イエス・キリストの十二弟子の名にふさわしく、まるでそこに主イエスご自身がおられるかのような働きを成し遂げた、と締めくくられております。ハッピーエンドです。

 

そのようなすばらしい働きを成し遂げた弟子たち、彼らはいったい何をしたのか。遣わされた場所で何を祈り、どんな人と出会ったのか。

考え出すと、想像は膨らんでいきます。

 

なぜなら、彼らは、ほとんど無一物で出て行ったからです。無銭旅行です。

無銭旅行であるけれども、そこで、元気にやっていた、・・・≪元気にやっていた≫どころか、その行った先々で、むしろ、みんなを助け、励まし、立ち直らせるようなことをしていた、・・・となると、いったい、彼らが、その遣わされたところで、どんな日々を送っていたのだろうか、と想像をたくましくせざるを得ません。

 

まっさきに想像してしまうのは、彼らが、どこで暮らしていたのか、ということ。

当然、誰かの家でご厄介になっていたはずです。

 

見知らぬ町へ行って、そこで、誰かの家にご厄介になる。めったにできる経験ではございません。

ある人に聞いたのですが、四国のお遍路さんは、やはりその途中途中で、家々にご厄介になるのだそうです。それで、四国の、あのお遍路さんが行き交うあたりにお住まいの人たちは、もう慣れっこで、お遍路さんが来れば、一泊とめてあげるのは日常的なことになっているのだそうです。

聞いた話ですから、どこまで本当にそうなのか、分かりませんが、ただ、主イエスの弟子たちに関しては、つまりそういうことだったのでしょう。

 

「わたしどもは、イエスというお方にお仕えする者です。このお方は、神の国について豊かに教えてくださるお方。教えるだけでなく、病に苦しむ方、悪霊に苦しむ方々をその手を置いて、癒してくださいます。わたしどもは、このお方を信じています。信じて、従っております。このたび、このお方に、この町に行けと言われました。この町で、わたしどもも、あのお方の教えを教え、あのお方のなさるわざをなしたいと望んでおります。」・・・そう言って、語り出す弟子たちを見て、その真剣な表情を見て、これは本物だと。これはまがいものとか、あるいは何か下心を持ってやっているのだとか、そういうことではなく、これはどうやら本物だ、すばらしい教えだ、と受け入れてくれた人の家で、彼らはご厄介になっていたと思われます。

 

主イエスは、そのように彼らが誰かの家でご厄介になって行くのを見越して、その家にとどまりなさいと指示しておられました。

 

これは、人間の罪深さ、欲深さを表したものではないでしょうか。

初めは、どこの家でもいいから、一泊でもいいから、受け入れてくれるところがあれば、・・・という気持ちでいたのに、だんだん状況が変わって来る。

その町での生活に慣れ、その町で少しずつ顔が売れて来る。信奉者も増えて来る。

あの初めのころにいだいていた謙遜な気持ちが薄れ、よし、次はあの人の家に行こうか、あっちのほうがちょっと家が広くて、住み心地がよさそうだから、・・・なんてことになる。

 

暮らし向きというのは、人間の心の状態をいつでも変えるものです。その家にとどまりなさいのひと言には、そういった意味合いが込められているようです。

 

また、イエス様は、はじめの指示の中で、袋も持たず、という指示もお与えになりました。

。今のわたしたちで言えば、お財布と考えてくださって結構です。それを持つなと。

 

どうしてか。蓄えを持たないように、するためです。明日の分まで、明後日の分まで、持たないようにするためです。

 

彼らの生活、宣教者としての姿を見て、施しをしてくれる人もいたでしょう。その時、余分に受け取らない。袋を持っていると、つい、明日、明後日、その先の分まで、蓄える・・・。

その必要はない。今、ここで、必要な程度を受け取って終わり。まさに、明日のことは、明日自ら思い悩めばよい、明日のことまで思い悩むな、という姿勢です。

 

イエスの教えをうけ、それを携えて生きるということは、そういうことだと。この世のことに思い煩いを受けず、ただ神の働きをここでなすことだけを考えるのだと。

 

あれも持って行くな、これも持って行くな、という厳しい指示が教えているのは、必要なものは神さまが備えてくださる、ということ、そして、わたしたちに必要なことは、それを信じることだと、いうことでありましょう。

 

さて、しかし、その中で、は持つようにと言われました。あれだけ、持つな、持つな、と言いつつ、は持つように、と。

 

聖書の中で、杖に関して思い出されることは、二つあります。二つと言わず、たくさんあるかもしれませんが、わたしは二つのことを思い出します。

 

ひとつは、モーセです。

エジプトを脱出する時、神さまは、モーセをお呼びになり、彼を先頭に立たせられます。そして、イスラエルをはるかにしのぐエジプトという国家、その軍隊を相手に回すのに、モーセには、ただ杖一本を持たせられました。

その一本の杖で、モーセは数々の奇跡を起こし、イスラエルをエジプトから導き出します。

 

いま、弟子たちが、ほうぼうの町や村に遣わされて行く、そのとき、を持つようにと言われたのは、かつてのモーセがイスラエルを奴隷の地エジプトから助け出したように、いま、人々を悪霊から、罪の奴隷から、悲しみから、悩みから、絶望から、救い出すために、ほかの力は要らない。ただ、この杖一本でよい。・・・

 

それは、魔法を行うということではなく、ただ神さまに頼るということのしるし。

その一本の杖を見ながら、まるで、その杖を通して、そこに主が共にいてくださるかのように、その杖を見つめる。ほかの何ものをも頼ることなく、ただ、何も言わないその杖を見る。そして、祈る。

そのために、一本の杖を持って行ったと見ることができるでしょう。

 

さて、と言えば、思い起こすことのできるもうひとつのこと。それは、羊飼いです。は羊飼いの持ち物だからです。

特別養護老人ホームディアコニアに参りますと、入口に大きなステンドグラスがあります。アメリカの宣教師の方々が、募金活動を行い、寄贈してくださったものです。

そのステンドグラスの絵は、羊たちを愛おしく見つめながら、抱きしめておられるイエス様の絵です。

 

そのイエス様の手には杖があります。ただ杖一本を持っておられます。

先っぽがくるっと曲がっています。なぜ、曲がっているかと言いますと、群れから離れて迷い出ようとする羊を見つけると、あの杖を伸ばして、その曲がった所で、足を引っ掛けるのだそうです。そのために、杖は先っぽが曲がっているのだそうです。

 

羊飼いは、杖一本で羊たちを守ります。狼などの獣が来れば、その杖を振り回して、追い出します。逃げて行く羊がいれば、その杖でつかまえます。

は羊飼いの道具です。

 

主なる神さまを羊飼いにたとえて歌った詩編23編も、美しく歌います。

死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。/あなたがわたしと共にいてくださる。/あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。

 

弟子たちは、見知らぬ土地へ行きました。

でも、そこで出会う人々は、見知らぬ人ではありません。

そこで出会う人々は皆、イエス様の羊です。大切な羊たち。一匹も見失われてはいけない、主イエス様の大切な羊たち。

杖を持ちながら、弟子たちは、そう感じていたのではないでしょうか。

 

こうして、弟子たちの宣教は始まりました。

もちろん、本格的な働きは、まだあとになってから。

この出来事は、ある意味で、まだ前哨戦のようなものかもしれません。

 

でも、前哨戦とはいえ、あの時、弟子たちを通して、福音を聞き、悔い改めに導かれ、救われた人もいたでしょう。

主によって遣わされた弟子たちの宣教は、あの日始まったのです。

 

あの日始まって、途中、何度も、何度も、倒れそうになったり、教会が迫害されて、伝道が困難になったり、あるいは教会が世俗的な波に押し流されて、力を失ったり、内部分裂したり、さまざまな困難を経ながら、しかし、確かに、その宣教は続き、わたしたちも、信仰を持つに至りました。

 

あの日、杖一本で送り出された弟子たちによる伝道が始まりとなって、その福音の喜びは、わたしたちのところにも届きました。

 

そう考えた時、それは、人間のわざではない、ということがはっきりわかります。

あのお方が、主御自身が、共にいて、主御自身の御手が、そこに差し伸べられていることを知らされます。

 

そして、主は、間違いなく、いまもここにおられる。

 

今、わたしたちは杖を持っておりませんが、主が共におられるという信仰を与えられている。

主の働きは、大切な羊が一匹でも失われないようにという主の御心が、今も、ここにあることをわたしたちは知っています。

 

わたしたちも遣わされています。

主が共にいます、愛に満ちた主がここにおられます、どんな罪をも赦し、憐れみを注いでくださる主があなたと共にいます、という、信仰という名の杖、ほかには何も持たない、ただ、主を信じるという信仰という名の杖を持って、わたしたちは遣わされている!

 

皆さん一人お一人が、遣わされている場所、遣わされている人々。

家庭も、職場も、近所も、友人も、教会で出会う人々も、そして、まだ見ぬ人々も。みんな、イエス様の大切な羊たちです。

 

そして、何より、あなた御自身が、イエスさまの大切な羊です。失われてはならない人です。

 

わたしたちは弱い者です。迷う者です。思い煩う者です。

ふらふらとさまよいます。そんなとき、イエス様は、あの先っちょの曲がった杖で、わたしたちをグッと引き寄せられる。

 

イエス様は、わたしたちが、迷い行くのを、崩れ行くのを、倒れ行くのを、決して放っておかれはしません。必ず、助け出してくださいます。

 

この愛を忘れず、歩いて行きましょう。

そして、この愛を、隣人に届けましょう。

 

恐れることはありません。イエス様はあなたの救い主です。あなたを愛しておられます。今、わたしたちも、新しい日々へと、送り出されて行きましょう。

 

 

                                   200989日 礼拝にて

 

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ