説教集 目次へ 


マルコによる福音書63044

 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります、それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

『天の愛、地に降り注ぐ』          .........

 

五つのパンと二匹の魚で、男五千人を満腹させたという、マルコ福音書6章のみ言葉は、聞く者の心にさわやかな風を送り込みながら、語り継がれて来ました。

マタイも、マルコも、ルカも、ヨハネも、みんなが書き残しました。実は、それは、珍しいことです。四人がそろって紹介した話は、多くありません。

それほど皆に愛された、みんなが喜んで聞いた話です。

非科学的だ、ということくらい、昔の人だって分かっていました。でも、この話は語り継がれました。聖書が書かれ始めた時代から、現代に至るまで、ずっとであります。

 

なぜ、そんなに愛されたのか。理由はいくつもありそうですが、そのひとつは、ここに登場する人たちが皆、祝福されて、輝いているということです。

登場するのは、使徒たちイエス・キリスト、そして群衆という三者。三者それぞれ立場が違いながら、みんな祝福され、輝いています。

 

まず、使徒たちから見ましょう。彼らは、宣教から帰って来たところです。

先週の日曜日、礼拝で学びました。彼らは、主イエスから、袋も、パンも、お金も持つな。ただ杖を持ち、履物はいて宣教に行けと、そこで、悪霊を追い出し、病人をいやせと命じられました。その旅から帰って来たところです。

そして、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告したと。この「残らず報告した」というところに、弟子たちの興奮が伝わってきます。見知らぬ町や村へ行って、宣教した。そこでは、うまいことばかりが起こったとは思えません。うまくいかなかったこと、伝えたいことをうまく伝えられず誤解されたこと。十二弟子もわたしたちと同じ人間です。いい話ばかりではなかったのではないかと思います。

 

神学生の岡村さんも、宣教研修の期間中、神学校に、月例報告をしていらっしゃる。中間報告もあり、研修が終わると最終報告もあります。それは、目に見えるところでは、神学校の先生への報告ですが、見えないところでは、イエス様への報告でしょう。

「あなたに遣わされて行ってきました。いろいろ経験しました」と、主に向かって報告する。いい報告ばかりにはならないのは、当たり前です。

でも、それを受け止め、聞いて下さっているのは、イエス様にほかなりません。

 

もちろん弟子たちの宣教活動は、良い面もたくさんありました。それどころか、かなり大きな成果を収めたと思われます。これは見落とされがちですが、弟子たちの宣教は、影響力大だったようです。と言いますのは、食事をする暇もないほど、大勢の人が追っかけて来ているからです。もっと話を聞かせてくれ、もっと癒してくれ、と。

 

今まで群衆は、主イエスを追いかけて集まりました。でも、今日の場面は、明らかに、弟子たちの人気です。このあと、イエスと十二人が、舟に乗って、人里離れた所へ行こうとします。そのとき、人々は、彼らが出かけて行くのを見て、先回りした、とあります。

「イエスが出て行くのを見て」先回りしたのではなく、彼らが出かけて行くのを見て、先回りしています。もはや、イエス・キリストの人気だけではない。多くの町や村で宣教活動を行なった弟子たちのことをも、群衆は慕って、追いかけています。

宣教に遣わされた弟子たちの、祝福と輝きが、ここからもうかがえます。

 

さて、追いかけて来た群衆。この群衆はどの点で祝福されているか。それは、彼らが、並々ならぬ熱意をもって神の恵み、神の祝福を追い求めているという点です。

 

教会では、洗礼を受ける前の人を求道者、道を求める者と呼びます。大変いい言葉だとわたしは思っています。洗礼を受けて、キリスト者になってからも、だれもが、求道者でいるべきです。大切なものを追い求めているとき、人は祝福され、輝くからです。

 

今、群衆は、神様の愛、神様の祝福、神様の救いを求めている。なんと、舟で進むイエスと弟子たちの一行を、陸伝いに回って、先回りしていたほどの熱意をもってです。

子供がよくやる姿を思いだします。焼津のジャスコなどに家族で買い物に行く。わたしたちが、ゆっくりエスカレーターや、エレベーターで昇ったり、降りたりしていると、子供たちが、階段ですごい勢いで走って行って、わたしたちが到着するのを先回りして待っていて、ニコニコしながら、ジャーン!とか言います。

 

言ってみれば、群衆は、それくらいの勢いです。舟で直線に進むところを、陸伝いに大周りで行き、先に着いていたと。しかも、すべての町からと書かれていますから、どんな遠くからでも、みんなが集まって来たというありさまです。

彼らは、飢え渇きを満たすものを欲している。陸伝いに向こう岸へ先回りするほどの熱意で救いを求めている。神さまの祝福を求めている。そこに、彼らの輝きがあります。

 

満たされている人が輝いている、成功した人が輝いているとは限りません。

救いを求めて祈る姿に、本当の祝福と輝きがあることを、聖書は教えてくれます。

 

この世で、この世のもので満たされてしまうことは、幸いとは言い切れません。この世のものでは満たしきれない、何か別のものがある、目には見えない何かがある、この世だけでは答えが出ない、という、魂の求めを感じた時、それは、とても大切な入り口となります。神さまと出会う、救いの知らせと出会う、大切な入り口となります。

だから、求道者は祝福され、輝きます。祈り求める者は祝福され、輝きます。

群衆の幸いはそこにありました。彼らの祝福、輝きはそこにありました。

 

さて、三番目の登場人物。イエス・キリスト。このお方が、いかに人々を大きな御腕で包み込んでくださるかが、今日のみ言葉の随所から、うかがえます。

 

まず、宣教の旅から帰って来た弟子たちを、温かく迎えてくださいました。残らず報告する弟子たちを、わが子を見守る、親のような眼差しで聞いておられた様が浮かびます。

そして、彼らの心身の疲れを気遣って、人里離れた所へ行って休むよう促されました。

 

人里離れた所は、普段イエスがおひとりで行かれる所でした。そこへ行って、主はいつも祈っておられました。

今、宣教の旅を終えて帰って来た弟子たちに向かって、御自身がなさるのと同じように、人里離れた所へ向かわれる。ただ手足を伸ばして、ああ、やれやれというだけの休息ではありません。イエス様がいつもなさるように、父なる神様に祈る、祈って天からの安らぎをいただく。それが、まことの安息です。これは、今、それぞれの生活の場から、この礼拝にいらっしゃった皆様も同じです。だから、これを安息日と呼んでいます。

 

さて、しかし、行った先は、人里離れた所となりませんでした。大勢の人が待ち構える場所となっていました。息せき切って到着していた群衆がいたからです。

 

その姿は、飼い主のいない羊のようとイエス・キリストの目に映りました。主は彼らを深く憐れみます。そして、その憐れみの思いに突き動かされて、彼らに教え始められました。

彼らの心を慰め、その魂をいやす言葉を、お語りになったことでしょう。

 

ある神学者の書を読んでおりましたら、もうこれで十分、この話は、イエスがこの群衆を深く憐れんで、教えてくださり、彼らを心の底まで慰め、励まし、癒してくださったのだから、もうこれでおしまいでもいい。十分ハッピーエンドだ、と。

そうでしょう。わたしたちもそうです。この礼拝に来て、み言葉を聞き、祝福をいただけば、それで十分です。ヌンク・ディミティスで、「今、わたしは主の救いを見ました」と歌って帰ることができます。み言葉をいただくことができたら、十分なのです。

 

ところが、この日、主イエスはさらに、大いなるみわざをもって彼らを養われました。

そこにあった五つのパンと二匹の魚を祝福して、お配りになる。男五千人もいたのに、みんなを食べさせ、満腹させられた、と。

 

どうやって増えたのか、よく読んでもわかりません。おそらく食べていた群衆も、そして、配る役目を仰せつかった弟子たちも、どうして増えたのか分からなかったのではないかと思います。そしてもちろん、これを書き記したマルコも、本当のところ、どうやって増えたのかは分からないまま、これを書いたのではなかろうか、と思います。

 

でも皆が食べて満腹しました。食べ終わったパンの屑と魚の残りを集めてみたら、十二の籠にいっぱいになったほどです。最初の量より、食べ終わった残りの方が断然多かったよ、と。

 

興味深いところがいくつもあります。この一回の説教では扱えないくらいの恵みがこの個所には盛り込まれていて、説教者としては歯がゆいくらいです。

まさに、いくつがあっても、入りきれないくらいの恵みが、この個所にはいっぱいあります。先人が、喜び伝えて来た気持ちが、よく分かります。

 

ひとつのことを言えば、イエス様は、群衆に並ばせられたということ。

ここで使われた単語は、苗床とか、花壇といった意味も持っています。つまり、こう、まっすぐな列に、きちんと並ばせられたというイメージです。

 

群衆は、はじめ、飼い主のいない羊のようでした。うろうろ迷える羊でした。

でも、今、その民を、きちんと整列させてくださる羊飼いが現れました。この民を整えて下さる羊飼いが、いま目の前に現れた!という、その瞬間がここに描かれています。

 

これもまた、もうこれで十分と言えることかもしれません。もうこれで、群衆は満たされます。救われます。迷うことなく、バラバラにならないでいられます。

 

わたしたちは、知っています。自由に、好き勝手に、というのを憧れる反面、それがとても不自由であるということを。本当に心休まるのは、信頼できる人に道を示してもらえることです。そして、整えてもらうことです。

自由に使えるお金や、時間がたくさんあって、やりたい放題の人生を過ごせる。

そこに憩いがあるか?NO!と聖書は教えてくれます。ただ手足を伸ばし、好き放題に生きるところに心を満たすものはない、と聖書は教えております。

 

では、どこに救いがあるか。癒しがあるか。それは飼い主を知ること。自分のことを、どんなことがあっても愛してくれるお方を知ること、この世においてもはや希望なしと思えることがあっても、恐れることなく、顔を上げていられること。これが救いだ!と。

 

先日は、地震がありました。怖い思いをしましたね。死ぬかと思った方もおられるでしょう。・・・その恐怖、お金では解決できません。

その恐怖を覆ってくれるものがあるとすれば、あの日弟子たちを迎えたように、わたしたちを、最後に温かく受け止めてくださるお方を知ることです。

どこにつかまったらよいのか、何を頼りにしたらよいのか、とこころ迷うわたしたちを、飼い主のいない羊のように憐れんでくださるお方を知ることです。

 

その愛が、わたしたちを包んでいること。あの日、パンと魚の残りが、十二の籠いっぱいになったように、その愛と憐れみは、あふれんばかりに注がれていて、わたしたちを包んでいること。その愛から、わたしたちを引き離すものはないということ。

そのことを知った時、わたしたちは迷いや、恐怖から、解き放たれます。

 

帰って来た弟子たちを気遣う主イエスの愛。遠い距離をものともせず、熱い思いを持って駆けつけて来た群衆。その彼らよりももっと熱い思いを持って、みんなを受け止められたイエス様・・・。天の祝福が、あの日、この地上で姿を表したら、あのパンと魚の奇跡として、姿を表しました。

 

そのような救いが届けられた。天の恵みは、こんなふうにあふれ出ながら、地上に降り注がれている。あなたにも。わたしにも。きのうも、今日も、明日も!と今日のみ言葉は語っております。

 

あの日、何も配るものがありません、と訴える弟子たちに、イエス様は、あなたがたの持っているものを、彼らに与えなさい、と言われました。

 

さあ、いま、わたしたちは何を持っているでしょうか。

救われた喜びを持っています。恵みのみ言葉を持っています。祈りを持っています。

それを届けなさい。飼い主のいない群衆に届けなさい、と言われる。

そうすれば、無限の喜び、無限の奇跡が起こるのです。

わたしはその奇跡を信じています。あの日起こった奇跡も信じているし、これからも、主の救いが多くの人のもとに届けられるという奇跡を、わたしは信じています。

 

失敗も多い弟子たちが、憐れみのまなざしを受けながら、たくさんのみわざを運ぶ者となりました。

 

主の愛は、ここにいるわたしたちを救っても、まだまだ余りあります。十二の籠いっぱいになるくらい、あふれています。その愛を、今度は、あなたがたが運びなさい。と主は言われます。大いなるみわざが、私たちを通してなされるように共に祈りましょう。

 

 

                                  2009816日 礼拝にて

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ