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マルコによる福音書72430

 

  イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。




『恵みを信じる』

 818日から20日まで、東海教区の堅信キャンプに参加してまいりました。今年は、岐阜県の根尾というところにあります、静かな山荘でのキャンプでした。

今回のテーマは、使徒信条。昨年はモーセの十戒を学び、今年は使徒信条。来年は、主の祈りを学ぶ予定になっております。私たちも、礼拝においてこの使徒信条を、声を揃えてとなえます。今日は、この後、ニケヤ信条をとなえますが、基本的には同じです。

 

「私は神を信じております」と、ただ漠然と言ってしまえば、そこには百人百様の、神さまの信じ方が生まれます。そうではなく、ここがひとつの教会である以上、ひとつの信仰に立つ。その信仰とはどんなものか。それを、もっともコンパクトに、そして、漏れなく表したものが使徒信条、ニケヤ信条です。

 

その出だしの所で、「全能の神様を信じます」と歌います。

≪全能の神さま≫。なんでもできる神様。「いくらなんでも、こればかりはできません」とお手上げするのは神さまではありません。神さまが神様である以上、やろうと思えば、なんでもお出来になる。それが、聖書が教える神さまです。

 

さて、そのことに異論はないとする。そして、それを信じることがキリスト教の信仰だとすると、聖書を読んでいきながら、おやっと立ち止まらざるを得ないところが出てきます。神さまが、全能者らしく、振る舞われないことがおありだからです。

 

本日与えられましたマルコ福音書7章のみ言葉、そこで、神のみ子イエス・キリストは、全能の力を振るわれるどころか、むしろ、「いや、お前にはやられてしまったな」という感じで、打ち負かされておられる。全能者ならば、なんでもおやりになればよいのに、なさらない。そういうお姿が描かれています。

 

それは、初めのところに、まずポロッと出ます。イエス・キリストは、その日、ティルスの地方に行かれたとあります。ティルスは、ユダヤ人の地域から見れば、北西の方の町、地中海岸沿いにある港湾都市。なかなか賑やかに栄えた町のようです。

その異邦の港町に行かれたとき、イエスは、ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまったとあります。

 

これも、ひとつの無力さ、ひとつの失敗です。

私たちと同じレベルと言ってよいでしょう。私たちも、たまの休みだからゆっくりしようと思っているときに、何だかんだとお呼びがかかったりします。

今日くらい、知っている人に会わないようにと思って、隣の町に行ったら、ちょうど出張で来ていた誰かさんとバッタリ会ってしまったとか、そんなこともあるでしょう。

 

そんな、私たちにとってよくあるような事が、主イエスの身にも起こった、と。

全能者です。たった五つのパンと二匹の魚で五千人の男たちを満腹させられたこともある、全能の神ご自身です。

「黙れ、静まれ」と言えば、波も風もびっくりして、止まってしまうほどのお方です。

それなのに、いま、異邦人の町で、身を隠すこともおできにならない。

 

さて、そこで見えて来ることがある。

主イエスは、ここで、全能の力で、身をお隠しにはならなかったのであります。

ここは、全能の力の使いどころではなかったということでしょう。何としても身を隠すために、空を飛んで、雲の上でゆっくり居眠りするとか、そういうふうなことをすることは、お望みではなかった、ということです。

身を隠しているつもりでいたけれども、そこに訪ねて来る者がいるなら、会おう、話を聞こう、となさったのであります。・・・そう考えると、この、出だしの些細な出来事は、ちょっと考えさせられるところがあると思えます。

 

さて、そのような中、真っ先に駆けつけて来たのは、ひとりの女性でした。

彼女は、汚れた霊に苦しんでいる、幼い娘のことで助けを求めに来ました。幼いお嬢さんの母ですから、20代か、昔の話ですから、ひょっとしたら10代の女性かもしれません。物語を読んでいると、ある程度、人生の山坂を歩いてきた人のような印象をも与えますが、客観的に見たら、若い女性です。

 

彼女は、どんな行動をとったか。何をしたか。最初に、三つの行動が記されています。

彼女は、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。ここに、三つの動詞があります。

 

彼女はまず、聞きました。噂には聞いていたあのナザレのイエスというお方が、はるか遠方のティルスの町にやって来たと。それを聞きつけました。これが最初。

そして、二つ目。それを聞くと、とるものもとりあえず、イエスのもとに駆けつけました。やって来ました。これが二つ目。

 

そして、三つ目の動詞。その足もとにひれ伏した。

ここにいると聞いた。そして走って来た。必死で駈けて来た。息も切れている。でも、「水を一杯下さい」と言うこともなく、イエスの前に来るとその足もとにひれ伏しました。

 

この女性の姿。主イエスとしては、もっともお好きなパターンではないかと思えます。耳にした、すぐに駆けつけた。そして、ひざまずいた。

 

今、礼拝を守っている皆さんも、この女性と同じです。ここで、イエス・キリストと会える。救ってもらえる。そのように聞いて、そのように信じて、各自の家から、駆けつけて、ここに来ています。

そして、ひれ伏している。椅子に腰かけていますが、礼拝に来ているというのは、主なる神さまの前に、ひざまずいている時間です。体勢はどうであれ、何よりも、私たちの心は、ひざまずいているように。そのことも、今日の個所から学んでよいでしょう。

 

さて、そんなふうにひざまずいている彼女に対して、主イエスは、まず助けるのは子供たち。つまり、イスラエルの民。異邦人はそのあとだとお伝えになります。

これは、旧約聖書以来受け継がれてきた神様のご計画。主イエスも、これを守られる。

 

彼女たち、異邦人のことを小犬とたとえられたのは、やはり厳しいというか、冷たい感じもしますが、とにかくこうおっしゃいました。

 

さてしかし、これを聞いて、女はどう答えたか。彼女は、ひれ伏したままです。二本の足で立ち上がろうとしません。ひれ伏したまま。おそらく地面に手をついたまま。まるで、小犬のように!その姿勢のまま、彼女は言いました。「主よ」

 

あくまで、「主よ」です。御主人さまです。

主と呼ぶ以上、わたしの方はしもべ、逆らうことなく何でも従う奴隷です。

小犬のようにひざまずいたままだから、この言葉も出て来たのかもしれません。

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

 

五つのパンで五千人を食べさせてくださった時も、十二の籠いっぱいのパン屑が残りました。その出来事、彼女は知っていたのでしょうか。

それは定かではありませんが、彼女は、ひざまずいたまま、食卓の下の小犬の気持ちになって、「落ちて来るパン屑で結構なのです」と答えました。

 

あなたの恵みは、あふれて、恵みの食卓から落ちて来るでしょう。その屑で、わたしたちは救われます。いや、その屑でも十分、あなたはだれでも救えるではないですか、だって、あなたは全能なる神のみ子なのですから。

きっと、そんなふうに、イエスの耳に、イエスの胸に彼女の声は届いたはずです。

 

それほど言うなら、よろしい。イエス様が答えられたこの一言も、説教者としては、触れずにはおれないところです。そして、この一言は、聖書翻訳に携わる人たちにとって、腕の見せ所と言うか、気持ちの入れどころのようです。

 

口語訳聖書は、「その言葉でじゅうぶんである。お帰りなさい。」としています。

そのひとことでじゅうぶん。ほかには要らない。そのような一言を言える信仰があるなら、もうそれで十分という思いが込められています。

 

もっと興味深いのは、岩波書店の翻訳。「そう言われては〔かなわない〕。」

これは、なかなかに思いきった訳だと思いました。イエス様が、「参った」と言われた感じです。全能者が、です。神のみ子が、です。異教の地に住む、名もない若い女性のひと言に、負けたことを表す言い方。「そう言われては〔かなわない〕。」

 

さらに、柳生直行先生という方の翻訳は、別の意味で、もっと大胆です。

「その言葉が聞きたかったのだ。」大胆ですが、いい訳だな、と思いました。イエス様の口から、「その言葉が聞きたかったのだ。」と言ってもらえる。

わたしは、一度でも、こう言ってもらったことはあるだろうか、と考えました。イエス様から、「よし、その言葉を聞きたかったぞ」と。そう言っていただけるような言葉を、私たちは、主に向かって発しているでしょうか。

 

いずれにせよ、ここで決着しました。でも、決着の仕方は、「わかった、では、娘さんのところに行こう」ではありません。「よろしい。もう、悪霊は出て行った」と。

 

これぞ、全能者らしいお姿。現場に行きもしない。ただ一言あるだけ。

悪霊ごときなら、一瞬で追い出される。そういうみわざをやってのけました。

 

今日は、全能なる神という角度で、少しみ言葉を考えてきましたが、全能、何でもできるということで思い出すべき話は、富める青年の話です(マルコ10章)。

教会生活の長い方は、すぐに思い出されるところでしょう。

 

彼は、この世で恵まれていました。そのうえ、イエス様と出会った。なのにイエス様の厳しい言葉を聞いて、悲しんで立ち去りました。

その姿を見て、弟子たちは心配になりました。「では、だれが救われるのか。」と。貧しい者も貧しいまま、富める者も神の前を立ち去るのみ。「ではだれが救われるのか」と。

そのとき、主イエスはおっしゃいました。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」1027

 

あの時、神の全能がはっきり宣言されました。

神さまは全能。だから、人にできなくても、神は、誰をも救うことができる!と。

神さまは、全能のお力を、あそこで、ここで、と無駄遣いなさいません。神さまは、ただ、何があっても、あなたのことを救うために、全能の力をお使いになります。

たとえ、あなたが、地獄に落ちた方がいいような罪を犯していたとしても、こんなわたしが救われるわけがない、と思えるほどにつまらない人間だとしても、わたしたちが、女であっても、男であっても、どんな人生を歩んで来ていようとも、神さまは、わたしたちをお救いになることができる。なぜなら、神は全能だから!

 

今日のみ言葉で、異邦の女を救ったのは、この神の全能の力でした。

そしてわたしたちに伝えられているのは、これを信じきっている彼女の信仰でした。

 

「落ちて来るパン屑で結構。」という、ひれ伏した祈り。 ・・いや、もっと言えば、「わたしは、パン屑をいただく値打もございません。救っていただけるような者ではございません。教会に来させていただけるような者でもございません。」という信仰。

 

そこに生きるとき、そのようにひざまずいて主のみ前にひれ伏すとき、パン屑どころか、御自身のおからだを、「これはわたしの体である」と言って、命のパンを差し出してくださるイエス様の恵みを知らされることになるのです。

 

今日の物語は、その豊かな恵みを信じた女性の祈りが生んだ話だったのです。

 

その言葉を聞きたかったぞ。その信仰を見たかったぞ。その祈りを聞きたかったぞ。

わたしたちは、そんなお言葉、言ってもらえないかもしれません。

でも、そう思って肩を落とし、ただひれ伏すばかりの者だと知った時、今度は、私たちの方が、まさにいちばん言って欲しかったひと言をいただけます。

心配するな。お前はわたしの愛する子供。あの日、あの異邦の女が自分の娘のために、と必死になったように、わたしもお前のために、この全能の力をもって、お前を救う。わたしは決しておまえを見捨てない。必ず救い出す。必ず、天の宴席にお前を座らせる!

 

その約束は、与えられました。独り子イエス・キリストを通して、この救いは、届けられました。この約束に、国境はありません。どこにも、何の差別もありません。

信じましょう。神の恵みを、全能なる神の救いのみわざを、信じましょう。信じる者は、必ず救われるのですから。

                             200996日 礼拝にて