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マルコによる福音書73137

 

  それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」************************************************************************
 

 『エッファタ』  

本日与えられましたマルコ福音書7章のみ言葉には、耳が聞こえず舌の回らない人が、イエス・キリストによって癒されたために、耳が聞こえ、はっきり喋ることができるようになったと記されています。

 

このお話に対して、強い関心を示すのは、どういった人でしょうか。ほかの話はともかく、この話を聞いて、また読んで、ピクッと反応して、耳を澄ますのは、どういう人でしょうか。

 

それは、実際に、耳が聞こえず、言葉を発することができない人たちでありましょう。

つまり、世間でろうあ者と呼んでいる人たちです。そういう障害を負っておられる方々は、今日の個所を聞いたり、読んだりしたら、グッと身を乗り出されることと思います。

 

こういうことが、自分の身にも起こってほしいと願われるかもしれません。

あるいは、反対に、わたしたちの苦労を知りもしないで、こんないい加減な話を書かないでほしい、という気持ちになるかもしれません。

 

今、この礼拝堂には、耳が聞こえず舌の回らないという人はいらっしゃいません。

そういう障害を負った方々も、わたしたちの教会の礼拝に来られたら、うれしい、そういう人たちにも開かれた教会でありたい、と心から願います。

でも、いま、ここでは、耳が聞こえ、口で話すことのできる人たちが、礼拝に集まっております。

 

そういう私たちにとりまして、今日のみ言葉を読んで、自分自身をこの話の中に投影するのは、難しいのではないかと思えます。

この話を、どこか離れたところから、第三者のような立場で眺めている所があるのではないかと思うのです。

 

先週の木曜日、藤枝礼拝堂で聖書講座を行いました。そこでは、ルカ福音書を学んでおります。

先週は、ひとつのたとえ話を学びました。ぶどう園の主人と農夫たちのたとえ話です(20章)。そのたとえ話を聞いていたファリサイ派の人や律法学者たちは、その話が、自分たちに当てつけて語られたと聞きとりました。それで腹が立って、イエスをとっちめてやりたい、亡き者にしてやりたい、という気持ちにまでなりました。

 

この話は、自分に当てつけて言われている・・・これは、ある意味で、正しい聖書の聞き方です。

「ああ、この話は自分に向けられている言葉だ」と感じながら読む・・・そうできることは、大変豊かな聖書の聞き方、読み方であります。

 

今日の個所、わたしたちはどう読むか、どう感じるのか。

 

さあ、そこで、少しこの個所を読み解いてまいりますとき、気づかされる表現があります。

 

主イエスは、この耳の聞こえなかった人の両耳に指を差し入れて、エッファタと言われました。それは、「開け」という意味であるとあります。

主イエスは、この男に向かって、「聞こえるようになれ」と言われたのではなく、「開け」と言われました。

 

「開け」と言われた、ということは、その耳は、≪開かれていなかった≫ということを意味します。≪閉ざされていた≫ということであります。

・・・これは、少し立ち止まって考えてよい表現ではないかとわたしは思います。

 

なぜなら、わたしたちの耳もまた、きちんと開かれているか、と問われて来るからです。

 

今、ここにお集まりの皆さんの耳は、聞こえます。

でも、何を聞いているか。何に向かって開かれているか。

そして、何に向かって閉ざされているのか。

 

とってもわかりやすい話を例にとれば、たとえば、好きな音楽を聴く時に、わたしたちの耳は開かれます。好きな音楽には、耳を開きます。

自分でCDを買って来たり、そういう歌番組を選曲したり、どこかからその曲が流れてきたら、足を止めて聞き入ったり・・・好きな音楽、聞きたい音に対しては、わたしたちは、耳を開きます。体を向けます。

 

でも、嫌いなジャンルの音楽が鳴り出したら、逆に耳をふさぎます。

静かな音楽が好きな人は、派手な音響のヘビーメタルとか鳴り出したら、「ああ、うるさい」と思うことでしょう。耳を開くどころか、耳を閉ざしたくなることもあるでしょう。

 

音楽だけではありません。人の話す言葉に対しても同じです。

自分が好きな人の言葉、自分が尊敬している人の言葉、自分が一目おいている人の言葉には、わたしたちは耳を開きます。

 

「あいつは、親の言うことなんて、ちっとも聞かない。先生からも、言ってください。」と、私なんかでも、頼まれたことがあります。先生と呼ばれる立場だからなのでしょう。

 

皆さんも身に覚えがあると思います。同じ話を聞いているはずなのに、少しも耳に入っていない時がある。でも、あの人がそれを言ったら、・・・信頼を置けるあの人が言ったら、・・・それが、耳に入る。そういうことがあります。

 

さて、では、ここで、主イエスが開かれたのはどんな耳なのか・・・。

それは、神の声を聞く耳です。別の言い方をすれば、信仰の耳。

 

わたしたちの耳は、人の声を聞く。音楽を聴く。物音も聞こえる。

でも、天の神様の声は、聞こえません。

 

人の声や、物音のようには、神の声は聞こえません。

でも、聞くことができる。信仰を与えられれば!

 

たとえば、教会では、こうして説教を語ります。牧師はここで語ります。

これは、いわゆる講演会ではありません。牧師の意見表明ではありません。

 

教会では、この説教というものを、神様の言葉だと教えています。

それは、牧師が神さまだということではありません。その牧師を通して、その説教者を通して、神さまが、いま、ここで、あなたに語りかけておられるのですよ、と教えています。

 

それは、信仰がなければ、受け取れないことです。

信仰がないならば、教会の説教も、どこかの講演会と同じ。学校の先生が、教壇に立って話すのと同じ。・・・信仰がなければ。

 

でも、信仰をもって聞く時、これが神の声として聞こえます。

ひとりの牧師をここにお立てになった、神様のお姿が見えます。

 

聖餐式の時、ここにパンとぶどう酒を用意します。

これも同じ。信仰がなければ、それは、ただのパンとぶどう酒。でも、信仰があれば、それは、畏れと感謝をもって仰ぐ、キリストの体とキリストの血なのであります。

 

そのような信仰を与えられるためには、主によって、信仰の耳を開いてもらわないといけません。「主よ、わたしの耳を開いてください」と祈らねばなりません。

 

でも、信仰生活を続けているクリスチャンでも、いつでも、どこでも、豊かに信じているとは限らないでしょう。

 

信じられない時もあります。心が荒れ廃れた状態になることもあります。

 

そういうときは祈る。「主よ、この耳を開いてください、この心を開いてください」と。

主は、その祈りに、必ずこたえてくださいます。

 

もっとも、今日の物語を読むとき、この男は、「開いてください」と頼んだわけではありませんでした。彼は、自分からは何も行動をしていません。まったくの受け身です。

 

そういう男に向かって、主イエスの方から、歩み寄り、彼を見つめ、彼と向かい合われました。

まるで、大勢の群衆を飼い主のいない羊のようだと憐れまれた時のように、この男をご覧になって、向かい合って、その指を耳に入れてくださいました。

そして、エッファタ!と叫ばれました。

 

わたしたちには、祈る元気もない時があります。「この耳を開いてください」と祈る元気も沸き起こらない時もあります。

 

そういうとき、イエス様は来てくださいます。

憐れんで、心から憐れんで、わたしたちのもとに来てくださいます。

 

わたしたちの耳を開くためにです。

この世の雑音や、冷めた声や、自分の心の中から聞こえる否定的な声に惑わされず、神さまからの愛の声、希望の声、救いの声に、耳を傾けることができるようになるために、です。もう一度、わたしたちの心を、奮い立たせ、生き返らせるために、です。

 

今日の個所に登場していた男、彼は、耳が閉ざされていただけではなく、舌が回らなかったもつれていた、とあります。その舌のもつれを、イエス様はいてくださったとあります。

これも、≪しゃべれなかった男を、しゃべれるようにされた≫とは書かずに、舌のもつれを解いてくださった、と書いております。

 

わたしたちの口は、どんなときに、しゃべれなくなりますでしょうか。

自信がない時、口は重くなります。

話している相手が怖い時、口が重くなります。舌が回らなくなります。

 

その舌を、イエス様は、解いてくださいました。そのもつれいてくださいました。

 

赦しが与えられたからではないでしょうか。

その舌に、神に向かって語る祈りが与えられたからではないでしょうか。

 

この世では、回らなくなる舌も、神さまのみ前では、開かれる。解かれる。

そして、この世のどんな美しいものよりも、どんな強いものよりも、ただ、神様の恵みをほめたたえる者とされる・・・そこに、救いがあります。

 

そのように振り返ってみた時、今日のみ言葉は、決して、どこかの誰かにとって興味深い話というのではなく、わたしたち皆にとって、リアリティをもって語りかけてくる言葉であるということが、示されてまいります。

 

エッファタ!  開け、あなたの心の耳!開け、あなたの信仰の耳!

この世だけを見るな。目に見える者に惑わされるな。開け、あなたの信仰の目!

 

エッファタ!  

 

あの日、耳が聞こえず、舌が回らなかった男と向き合われたように、主は、わたしたち一人一人に対して、その体をまっすぐに向け、その指を伸ばし、その唾をつけるほどに、近づき、その身をわたしたちに重ね合わせ、わたしたちを抱きかかえ、守ってくださいます。

 

その耳よ、神の恵みの言葉をきけ、その舌よ、讃美を奏でよ、その舌よ、祈りをささげよ。その耳よ、神の祝福の声を聞け。

 

今日も、わたしたちのためにイエス様は、おっしゃいます。エッファタ!

そのみ声を、いつも思い起こし、その声を聞き続けることができるように、ご一緒に祈り続けて行きたい、このように思います。

 

 

                               2009913日 主日礼拝

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