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マルコによる福音書82738

 

  イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 

  それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」




『命を救うもの』

 

 教会生活の長い方には、よく耳慣れた地名というのがあると思います。エルサレム、ガリラヤ、ナザレ、エマオ、ベタニア、カナなどなど。そして、よく耳にする地名を思い出すと、それと一緒に、その場所で、どんな出来事があったかも、あわせて思い出すことが出来るのではないでしょうか。

 たとえば、エルサレムと言えば、イエスが十字架に架けられた所と思い出します。

エマオと言えば、イエス様がご復活なさったあと、ふたりの弟子と夕暮れの道を歩いて向かった場所、それがエマオだったな、と思い出します。あるいは、カナと聞けば、カナの婚礼という、もうまるで、ひとつの単語のように思い出す。イエス様が水をぶどう酒に変えてくださったのがカナだった、と思い起こすことができます。

 

 聖書を読んでいるわたしたちがそうなのですから、まして実際にその場に居合わせた弟子たちにとって、どこかの地名を聞くと、そこで起きたことが鮮やかに思い出されていたことだろうなぁ、と思います。

 

 ちょうど、私たちが、旅行に行った先を思い出すようなものです。四国旅行を何年前に行なった。あの四国と言えば、あの町へ行った、そしてどこどこでこんなことがあった。北海道と言えば、あの人と一緒に行った、神戸と言えば、昔行って、こんなものを食べた、なんて具合に、その地名が、思い出と結びつく。

 聖書の中に、よくいろいろな地名が出てきます。話の筋を書く前に、まず、どこどこに行った時のことであった、と地名が出て来る。それは、そこに居合わせた弟子たちにとって、とても印象深い、あざやかに思い出が残っているためであろうと思います。

 

 今日の場面では、フィリポ・カイサリアという地名が出てきます。これ、実は、聖書の中で、たった一回きりしか出てきません。ですから、フィリポ・カイサリアと聞いても、たぶん皆さんもあまりピンと来ないかも知れない。地図のどの辺かと言われても、浮かんでこないかもしれない。

 でも、このたった一度の地名がここに記されている。忘れられない思い出がこの地名にありました。何かといいますと、この場所で、イエス様が突然、人々は、わたしのことを何者だと言っているかと尋ねられたこと、そして、弟子たちにとって初めて聞く、受難予告がなされたからでした。

 

 フィリポ・カイサリアは、ガリラヤ湖からみてずっと北の方に位置しておりまして、ヨルダン川の上流、川の水源となっています。泉のわき出す所です。写真などみますと、勢いのある滝が写っております。そして、轟音が聞こえてきそうなほどの水が流れています。

 

 わたしは、この夏、家族と共に、富士宮の方にあります白糸の滝に行って来ました。以前富士教会にいたころには、ちょくちょく行っていました。今回久しぶりに行きました。あそこに行きますと、白糸の滝だけではなく、音止めの滝というのもあります。音を止める滝。曽我兄弟が、大切な密議をしていたけれども、滝の流れる轟音がうるさくて話ができない。そこで神に念じたところ、ピタッと止まったといった逸話がありまして、音止めの滝と呼ばれているのだそうです。

 

 フィリポ・カイサリアは、ちょうど、そんなところです。ペトロの信仰告白は、そして、イエス様の受難予告は、こんな所で行われたと思われます。

ひょっとしたら、滝の音、水の流れる音で、声が聞こえなくなりそうになるから、大声で、会話をなさったかも知れません。

 

  イエス様は初めに、弟子たちに尋ねられました。

人々は、わたしのことを何者だと言っているか。

 弟子たちは、世間で聞こえているとおりのことを返します。

  洗礼者ヨハネであるとか、エリヤであるとか、預言者の一人であるとか。

 

しかし、それは前置きでした。本当の質問はその後です。

それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。

 

わたしを何者だと言うのか。

これはよく考えてみますと、深い質問です。たとえば、「角本浩は何者だとあなたは言うか。」と聞かれる。答えはひとつではありません。みんな、違う答えを言います。「うちの教会の牧師です」と答える人もいれば、「まだまだわかっていない事の多い若造です」と言う人もいる。「わたしのためにいろいろ祈ってくださる人です」と言う人もいれば、「ちっとも人の気持ちがわからない人です」と言う人もいるでしょう。岡村神学生にとっては、「研修先の指導牧師です」となります。

つまり、「あなたにとって何者か」という質問によって、見えてくるのは、その人との関係性です。その関係がいかなるものなのか、深いのか、浅いのか、そこそこか、そういったことが見えてきます。

 

イエス様がたずねられる。あなたがたはわたしを何者だと言うのか。

フィリポ・カイサリアではなくて、この礼拝堂で、私たちも問われている。

あなたにとって、イエス・キリストは何者か。

 

ペトロは、答えました。あなたは、メシアです。

  自信を持って答えたように思えます。あなたがたは、どう思うか、とみんなに向けて聞かれた中で、ひとり率先して、声を出す。  滝や川の音にかき消されないように、大きな声で、答えたことでしょう。「あなたは、メシアです。」と。

 

  イエス様は、これをだれにも話さないようにと戒められます。

  この「戒める」という言葉は、厳しく訓戒するといった大変強い意味をもった言葉です。相当激しい口調で、だれにも言うな、とイエス様は、この時激しく言われた。

 

  この単語が、この後二回出て来ます。

  受難予告を聞いたペトロは、イエス様を脇へ連れて行って、いさめ始めた。これも同じ単語が使われています。  つまり、ペトロは、イエス様を叱ったのです。まるで、先生が生徒を叱るように、親が子供を叱るように、イエス様を激しく叱った。

 

  これを受けて、今度は、イエス様がペトロをりました。これも同じ単語が使われております。  激しい感情が、交錯する場面だということがわかります。

 

  その後、イエス様は、受難予告をなさいました。それは、ペトロの言葉の内容説明であります。わたしはメシア、しかも、苦しみを受けて、十字架上で殺されるメシア、そういう説明であります。

 ペトロはこれを聞いて思ったのです。おいおい、それは違うよ、と。メシアっていうのは、言ってみれば、王様。世の中に君臨する王様。人を殺すことがあっても、殺されることはないお方。みんなが頭を下げることはあっても、当人は下げる必要のない方。

 

  ペトロの思いは、しかし、多くの人間の抱く思いでもあります。

 

  そのペトロを、主は、弟子たちみんなを見ながら、りになりました。そして、おっしゃいます。

  わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 

 こうしてじっくり読んでみますと、弟子たちにとって、忘れたくても忘れられない出来事だったことが、よくわかります。特にペトロにとって。

次から次へと、印象深い言葉が続きます。が、しかし、この場面で、もっとも衝撃的な言葉は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。というところにあるかもしれません。

 

  全世界と命。どっちが大事だ、と言われている。

そして、私たちの命は、全世界よりも重いと言われています。もしも私たちの命を天秤に乗っけて、反対側に全世界を乗っけたら、私たちの命の方に、天秤が傾く。

そう言われています。

 

 そういう選択は、できそうでできないことです。

たとえば、国際的なテロリストによって、誰かが人質に捕まった。要求に応じないと人質を殺すと。そういう時、簡単に要求に応じないのが世界の常識です。要求に簡単に従ったら、悪人たちをのさばらせることになる。ひとりの命の犠牲は仕方がない。

戦争などでも、同じ論理です。大きな目的のために、多少の犠牲はやむをえない。

 

 国家規模で考えなくても、私たちの生活の中で、似たようなことは、いくらでも起こります。

それは、言ってみれば、私たちの限界です。何かを犠牲にしないといけない、苦渋の選択をしなくてはならない時がある。口では美しい理想を述べても、そうも行かないことが起こる。そこに、私たちの限界があります。

 

 イエス様のことばは、そこで、響いてきます。

たとえ、どんなに、人の限界があっても、神様に限界はない。あなたを思う神の愛に限界はない。とことん愛しぬく。どうしても刺し違えろと言われれば、自分の命を放り出す。その愛に限界はない。かならず、愛しぬく。あなたを救うために!

 

 かつて、イエス・キリストを誘惑しようと現われたサタンは、わたしにひれ伏したら、全世界を与えると言いました。この世の繁栄をすべて与えると言いました。

でも、イエス様は、これを拒否なさった。「退け、サタン、ただ神にのみ仕えよ、と書いてある」と言って、拒否なさった。

 

 それは、言葉を変えれば、

この世ではなく、一人ひとりの命を救うために、私は歩む!全世界を得るためではなく、小さな一人ひとり、皆さんのことを、愛するがゆえに、その愛のゆえに、わたしはまっすぐ十字架に突き進む!そう言われたことであります。

 

 今日の個所は、イエス様がお弟子たちに、あなたがたはわたしのことを何者だというのかと尋ねられた場面です。でも、結果として、聞こえてくるのは、神さまにとって、私たちは何者だと言われているのか、ということであります。

 

 皆さんは、神さまにとって、どんな存在か。

全世界を捨ててでも、守りたいもの。いや、神様が御自分の命を差し出しても、御自分の命を身代金として渡してでも、きちんと自分の腕の中に抱いて、守りたいものなのだ!・・・そういうみ言葉として響いているのです。

 

十字架を背負って来なさい、と言われましたが、十字架を背負ったのは、私たちではなく、イエス様だったことからも、そのことははっきり示されています。

 

  イエス様が背負われたのは、何だったのでしょう。十字架だったのでしょうか。いや、違います。イエスが背負われたのは、あなたの命です。全世界を担ぐよりも、もっと重い、私たちの命を、イエス様はしっかり背負ってくださったのです。

 

 明日は、墓前において高橋家の記念会を行います。

既に天に召された兄弟姉妹の記念会です。その、召された命の尊さは、だれがいちばん知っていらっしゃったでしょうか。

イエス様です。

 

その命は、全世界よりも重い。だから、わたしが責任を持って担ぐ。背負っていく。そして、天のみ国に迎えるとイエス様は約束なさいます。

この約束は、私たちみんなに届けられている約束です。

 

 全世界を手に入れる気はない。わたしはただ、あなたを救いたい。永遠のみ国へ招きたい。イエス様は、そう願い、この愛のゆえに、十字架に向かって歩まれたのです。

 

命を救うものは、どこにあるのでしょうか。わたしたちの命を、支えるものは、どこにあるのでしょうか。

世の中にはありません。どこを探しても何を求めても、見つかりません。

わたしたちの命を救うのは、神様の愛です。イエス様の愛です。

あの十字架に、イエス様が担がれた十字架に、わたしたちの命があります。

 

今日、改めて、そのことを思い起こしましょう。

イエス様はあなたにとって何者か。

「わたしの救い主です。御自身の命を捨てでも、助けてくださるまことの救い主です。」

今日、はっきりと主のみ前に、ともどもにお答えしたい、このように思います。

 

 

                                    2009920日 礼拝にて

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