説教集 目次へ 

 

マルコによる福音書93037

 

  一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

 

『仕えるために

           

本日与えられましたマルコ福音書9章のみ言葉には、イエス・キリストとその一行が、ある場所を去って、ガリラヤを通って行き、カファルナウムの家に着いた。という旅の途中のことについて、伝えております。

 

どこから進んできたか、というのはあまりはっきりしておりません。おそらく、少し北の方から進んで来て、いま、ガリラヤ地方にやって来た。そして、ペトロの家のあるカファルナウムにやって来た、ということと思われます。

 

その道を先導するのは、主イエスでありました。弟子たちの誰かが、「あっちへ行きましょう、次はこっちへ行きましょう」、と提案したのではなく、主イエスが、その道の方向をお定めになりました。

 

今日の個所ではまだ、はっきり書かれていませんが、それはエルサレムへの道でした。それがはっきりと活字に現れるのは、10章になります。

10章の32節にこうあります。

一行がエルサレムへ向かって行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。

そこまで至ると、目的地がはっきり記されて来ます。そして、主イエスがその道を先導しておられる様子が、はっきり伝わってきます。

一行がエルサレムへ向かって行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。

 

主イエスにはブレがないようです。どっちへ行こうかな、あっちにしようか、こっちにしようか、といったブレが感じられません。

 

今日の個所でも、主イエスの中にブレがなくなっていることを示す、ひとつの表現があります。それは、出だしの所。

一行がガリラヤを通って行くとき、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。とあるところです。

 

病人を連れて来る人がいる。悩みを抱えて来る人がやって来る。あるいは、み言葉を聞かせてくださいと訪ねて来る人がいる。それを好まれなかったのです。

 

だから、ガリラヤを通って行ったという書き方がなされているのでしょう。ガリラヤにとどまったり、そこで誰かに会ったりすることを好んでおられない。

 

ご存じのように、このガリラヤは、イエスが宣教を始められた場所。弟子たちをお選びになった場所。たくさんの癒しをなさった場所。大勢の人との出会いがあった場所。

マルコ福音書をこれまで読んできたら、すぐに分かります。このガリラヤ地方には、イエスの信奉者がいくらでもいること。イエスがそこにいらっしゃると聞くと、すぐに人が大勢集まって来ること。食事をする暇もなくなるような状況が生まれること。

 

いま、イエスは、そういう状況になることを望んでいらっしゃらない。人に気づかれたくない。それを好まれない。

 

もっと大きなことのために、前へ進まなければならないと思っておられるのです。

わき目もふらないお姿が、ここに描かれている。主イエスの中にブレがないことを見てとることができるのです。

 

皆さんは、自分の歩む道、迷いがないでしょうか。まったくブレずに進んでおられるでしょうか。これまでの人生、振り返っていかがでしょうか。

 

わたしも四十四歳になりましたが、四十歳のことを不惑と言います。惑わない、と。でも、どうかな、と最近よく思います。ずいぶん惑う自分がいます。

四十歳を過ぎておられる皆さんは、もう惑うことなく歩いておられるでしょうか。

おそらく、そうもいかないのではなかろうか、と思います。それが、わたしたちの現実ではないでしょうか。

 

聖書学では、マルコ福音書のテーマのひとつは、「弟子たちの無理解」だと言われます。

弟子たちが、なかなかイエスのお心を理解しない。理解できない。このお方だ、と信じて歩みつつ、本当のところ、十分にイエスのことが分からない。

 

あなたはわたしのことを何者だと思うか、と聞かれて、あなたはメシアです、あなたこそ神のみ子、キリストです、救い主です、と答えはしたものの、本当のところはイエスのなさること、イエスの言われることを理解できずにいる。

それで、マルコ福音書のテーマのひとつは、弟子たちの無理解と呼ぶのです。

 

でも、それは無理解でありつつ、迷いと呼んでもよいのかもしれません。それは弟子たちの迷いだと。惑いだと。

弟子たちも、年齢はともかく、不惑ではない。惑っている。どの道を行こうか、あっちにしようか、進もうか、戻ろうか、と迷い続けている。

 

その迷いの原因の一つが今日の個所に、ひとつ示されていました。

いったい、だれがいちばん偉いか。これを考えた所にあったと。

 

だれがいちばん偉いか

これは、二つのことが見えてきます。

ひとつは、上になりたい、という気持ち。それが、だれがいちばん偉いか、という議論につながります。

 

もうひとつは、他者との比較です。もし、他者との比較がなければ、だれがいちばん何何、ということは、いっさい考えずに、生きていけるのですから。

 

先週木曜日、藤枝礼拝堂の聖書講座で、ルカ福音書20章を学びました。イエスを何とか罠にかけようとする人々が、質問をした場面です。

皇帝に税金を納めるべきでしょうか、それは律法にかなっているでしょうかと。すると、イエスは、デナリオン銀貨を見ながら、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい、とお答えになった。

 

その言葉を参加者の皆さんと考えながら、いろいろと意見を交わしました。

その中で、ひとりの方が、「神のものは神に返す。この言葉から、他者との比較ではなく、ただ、神さまからいただいたものを受け取り、そして、神さまに返していけばいいのだ、と思うと、楽になる」と言われました。

 

わたしには何があるだろうか、あの人には何があるだろうか。

持ち物だけでなく、才能とか、境遇とか、考え出すと、いろいろな違いが見えてきます。

でも、み言葉が教えているのは、神さまが、あなたにお与えになったものという視点。その与えられたところから、神さまにお返ししていくということ。

 

礼拝の献金もそうです。キリスト者の立つところは、皆さんが、献金のお祈りでしばしば言われる通り、「これはあなたからお預かりしたものを、お返ししたにすぎません」と。

「これはわずかですが」という言葉を添えることもあります。仮に、かなりたくさん献金したとしても、わたしたちは、おそらく、「わずかですが」という気持ちになるはずです。

なぜなら、もともと、全部神様のものだから。自分の家も、家族も、仕事も、お金も、持ち物も、そしてこの命も・・・。その信仰があるならば、わたしはけっこうたくさん献げました、という気持ちにはなりえないはずです。

 

むしろ、痛みを覚えます。

これは、信仰的な痛みです。神への畏れと相通じる痛みです。

 

それは、旧約聖書の時代で言えば、小羊をささげる時の痛みでした。

昔の人は、献金の代わりに、犠牲の小羊をささげていました。かわいらしい子羊。それを≪ささげる≫というのは、それを焼き殺すのということです。

自分自身の罪の赦しを願う時に、小羊を献げました。だから、犠牲の小羊と言います。自分の身代りの小羊です。

 

その意味をしっかり受け止める者は、焼かれる小羊を見ながら思ったはずです。

本当は、自分があそこで、焼かれるべき。神さまにささげると言ったら、このわたしの命をささげるべき。心痛めながら、そう思ったはずです。

 

でも、そのように痛みながら、ささげるのなら、それこそ、わたしが一番喜ぶ捧げものだ、と主は言われます。

どんなたくさんのお金をささげるよりも、どんなたくさんのいけにえをささげるよりも、神さま、ごめんなさい、という痛みを覚えつつ、そこにいるならば、そこにその祈りがあるならば、それは、何よりも尊い捧げものだ、わたしはそれをこそ喜ぶ、と神さまは、語られるのです。

 

そのような心境に至る時、人は、他者との比較などというものから、解放されます。他人がどうか、などということは、見えなくなります。見えるのは、ただ、神様とわたしということだけです。

そして同時に、もっと上に行きたい、という願いも消え行きます。

 

イエス様は、あの日、まさに、≪ささげる≫ということについて語られました。

何をささげる、と言われたのか。

自分をささげると言われました。わたしが犠牲の小羊だと語られました。それが受難予告であります。

 

そして、その予告通り、イエス様は、エルサレムへ向かって歩まれ、まっすぐに歩まれ、そこで、御自身をささげられました。十字架上で、身をささげられました。

 

イエス様には、迷いはなかったのでしょうか。

なかったとは言い切れないと思います。なぜなら、ゲッセマネというところで、できれば、この苦しみの杯を取りのけてください、と父なる神に祈られましたから。

でも、その迷いは、ただ、父なる神のために、父なる神のみ心のために、という立ち帰りの中で、消えて行きました。

 

わたしたちの中にも、迷いがあります。また、時に、わたしだけがどうして、こんなに苦しい目にあうのか、といった惑いも生まれます。ほかの人が楽をして、自分だけが苦労しているように思える時も来ます。

言葉にはならない悩みの中におかれることもありましょう。

道の途中で、立ち止まってしまうことがありましょう。

 

そのとき、ただ神さまのために、わたしにできることをしよう、と考えることです。

いただいたものを、神さまにお返しするのだ、というところに立ち帰る。

そこから、新しい一歩を踏み出すことができるのです。

 

悩み戸惑いの中にある弟子たちをご覧になった時、イエス様はゆっくり腰をおろして、座って、語り始めました。

迷いの中にある弟子たちを、優しく包みながら、大空が広がるように、優しく、穏やかなお顔をなさりながら、静かに語ってくださいました。

 

小さな子供を腕に抱きながら、父なる神様は、こんなふうに、お前たちひとりひとりのことを、愛してやまないのだぞ、心配するな、迷うことがあっても、必ず、出口はある、心配するな、と語りかけられたのです。

 

イエス様は、わき目もふらず、エルサレムへ向かわれました。

それはとりもなおさず、わき目もふらず、わたしたちを救うことに全力を尽くしてくださる、神様の愛を現わしていたことにほかなりません。

 

わたしたちの気持は、揺らぎます。いつでも、惑います。道に迷います。

でも、思い出しましょう。わたしたちの目も、心も、神様の方に向けること。イエスさまがまっすぐエルサレムに目を向けられたように、わたしたちの思いも、まわりのあれこれではなく、主なる神さまの方に向けること。

そこから、新しい歩みは始められるのです。

 

主はいつでも、あなたに救いの手を差し伸べられます。信じて歩いて行きましょう。

 

 

                                   2009927日 礼拝にて

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ