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マルコによる福音書93850

 

  ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 

 

  「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

 

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『小さなひとりをも』

 

本日与えられました福音書個所は、マルコ福音書9章の38節から50節まで。少し長いので、二つに分けることもできそうな所にも思えます。いや、全体を読みますと、二つどころか、いくつものテーマがちりばめられていて、四つか五つくらいに分けることができるようにも思えます。

 

まず、出だしの所は、イエス・キリストのお名前を使って悪霊を追い出す人の話。そういう人が、たとえ、私たちについて来ているわけでなくても、決して反対者ではないであろう、といった話です。

今の私たちにたとえて言えば、年の瀬になると日本人の多くがクリスマスを祝っている。あるいは、クリスマスだけ教会に来る人がいる。そういう人を見て、弟子たちがちょっと目くじらを立てた。あの人たちは、信仰もないくせに、ムードだけ求めてクリスマスには礼拝に来ているのですよ、と。そして、ヨハネは、それをやめさせようとしたと。ふさわしいたとえでないかもしれませんが、そんな感じです。

 

これは、イエスに尋ねられて、ヨハネが答えたものではありません。ある時、ヨハネが、主イエスに向かって口を開いて言ったことです。「先生、実はですね、こんなことがありました」という具合に、自分から口を開いて言っています。

自分の取った行動にある意味、自信があったのかもしれません。よくやった、ヨハネ、お前は、そういう輩とは違って、命がけでわたしに従って来ている、クリスマスだけふらっとやって来る人とは大違いだ、分かっているぞ、といったほめ言葉の一つも期待していたかもしれません。

 

ところが、あにはからんや、主イエスの口から意外な言葉が返って来る。少なくとも、ヨハネにとっては意外な言葉。やめさせてはならないと。

仕事を放ってでも、家族を放ってでも、わたしに従う者もいる。かと思えば、信じているのかどうかもあやしいのに、わたしの名前を語って悪霊を追い出している者もいる。毎週礼拝にやって来る信徒たちもいれば、クリスマスだけやって来る人たちもいる。・・・いいじゃないか、とイエス様はおっしゃった。

ずいぶん、馴れ馴れしい言い方ですが、このときの主イエスのおっしゃり方は、そんなふうにわたしには感じられます。いいじゃないか、ヨハネ。その人だって、その人なりの信仰を持っているかもしれない。少なくとも、わたしの名前を語っておきながら、その後でわたしの悪口を言いはしないだろう。と。

 

ここに記されていることは、いつでも、だれにでも当てはめてよい、絶対基準とは思いません。事実、聖書の別の所を読めば、主に従うということは中途半端な気持ちではいけない、家を建てるのにその予算があるかどうか計算するように、心構えをしておきなさい、といった言葉も、別のところで、イエス様は語っておられます。

本来、信仰は生涯かけて、貫くものです。だって、イエスさまは、命をかけられたのですから。わたしたちのために死んでくださったのですから。

それを受けて、イエスの十字架の死を、そのみ苦しみを知っていながら、それを信じていながら、中途半端な生き方をしているなら、それは本来おかしい。まっすぐ主に従い続けること・・・こっちのほうが、基準と言えば、基準であります。

 

でも、イエス様は、この日、ヨハネに向かっては、こう語られた。

そして、これは絶対基準ではないけれども、わたしたちはこのやめさせてはならないというみ言葉を、胸に刻んでいてよいのではないかと思います。

ここには、それこそキリストに従う者の豊かな生き方、振る舞い方、物事の考え方、そして、隣人への敬意の表し方が示されていると思うからです。

 

さて、この前半のところ、ヨハネの言い方に、ひとつの引っかかりを私は覚えました。イエス御自身、これを引っかかって聞かれたかどうかは分かりません。でも、ヨハネと主イエスのここでの問答をよく読むと、ひとつものの考え方のヒントがあります。

ヨハネは言いました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

 

ヨハネは、わたしたちに従わないので、と言いました。言っただけでなく、心の中にあった思いでしょう。彼は、あなたのお名前を使うだけで、≪あなた≫に従わないので、・・・とは言わずに、あなたの名前を使うだけで、わたしたちに従わないので、と言いました。

 

このわたしたちとは誰でしょうか。ここは、教会員の皆さんも、よく考えねばならないところです。あの人たちは、わたしたちに従わない。だから、やめさせた。

おそらくヨハネが言うところのわたしたちは、≪わたしたち弟子集団≫でありましょう。仕事を捨て、舟を捨て、父親をもその場に置き去りにして、従ってきたわたしたち

 

人間には、いつでもこういう自負が生まれます。わたしにもあります。これをやって来たのだ、という誇りとか、努力とか、苦労とかあればなおのこと、自負は生まれます。

しかし、そこには注意しなければならない面が生まれる。つまり、それは、他者への裁きにつながるということ。

あるいは、自分たちだけを入れた囲いを造ってしまい、周りの人を寄せ付けなくなること。お前も、ここまで登って来い、そうしたら、この囲いに入れてやる、といった思いがそこに生まれる。ここまで来てもいないのに、お前におれの苦労がわかるか、という思いが生まれる。こちらの雰囲気、わたしたちのやり方を受け入れる人だけが、ここに来てよい・・・その瞬間、その両者には壁ができる。これがわたしたちに従うということ。

 

それを受けて主イエスはどうおっしゃったか。

「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

イエス様もそこで、わたしたちと言われました。まるで、ヨハネの言い方を反復するかのように、はじめは、わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしわたしと言いながら、その後で、わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。と、主語をわたしたちに変えられました。

 

ヨハネの言ったわたしたちとはちょっと違う響きを感じます。ヨハネが、わたしたちに従わないので、と訴えているのをお聞きになって、イエスは、はっきりと、ヨハネに向かって、わたしたちとは何なのだろう、と問いかけられているかのように聞こえます。

 

ヨハネよ、こうしてわたしに従うお前、そして、ここにいるわたしの弟子たち。そして、わたし自身を含めた、わたしたち。わたしたちは、どんな思いで、他者と接したらよいだろう。どういう生き方が、わたしたちにふさわしいだろう。

イエス様は、そう語り始められているのではないでしょうか。

 

その上で、続けられました。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。

しっかりついて来ることのできない者、中途半端な形でしかついて来れないように見える者、そういう者をつまずかせてはならない、ということを伝えるために、ずいぶん荒々しいというか、ぎょっとするような言葉を続けられました。

何度も聖書を読んでおられる教会員の皆さんは、あまり驚かなくなっているかもしれませんが、これはひどい言葉です。滅多に口にできるものではありません。

 

しかし、それはキリスト者として、そういう寛大さを身につけなさい、というみ教えであると見ることができます。それがわたしたちの生き方だと。小さな所で、目くじら立てて、わたしたちに従わない者は、・・・なんて言わない。

 

これが語られたのが前半。これは、キリストの弟子として他者に対するあり方です。

そう見るならば、そのあと続けられたのは、今度は、他者に対してではなく、自分に対してのあり方です。

それもまた、ひどい言葉の連続でした。あなたの片方の手が罪を犯すなら、その手を切り捨ててでも、命に与かるがよい。あなたの片方の足、片方の目、それらを失ったとしても、両方そろって地獄に行くよりは、片方になって、神の国に入るほうがよいと。

 

いまどきはテレビや映画で、特に昔のものを再放送する時に、放送コードというのがあって、そのまま流せなくなっているものが増えています。ものによっては、もうお蔵入りするほかない。今はもうとても茶の間に流せないということも起こっています。不愉快な表現、不適切な表現がありました、と。

そういう基準で行けば、ここに書かれているイエス・キリストの言葉も、聞くに堪えない響きがあるようにすら思えます。ここだけを抜き取って、これがイエスの言葉だよ、と紹介されたら、みんな逃げて行ってしまうのではないでしょうか。

 

でも、それくらいの強烈な言葉を、弟子たちにおっしゃいました。要求なさったと言ってもよいでしょう。ひとことで言えば、≪他者には優しく、自分には厳しく≫ということになるでしょうか。それが、キリスト者に求められるのだと。キリスト者の皆さんに求められているのは、そういうことだ、と。それが、わたしたちではないか、とイエス様は、ヨハネに向かって、また弟子たちに向かって語られました。

 

これらを締めくくるものとして、最後にの話がなされました。は、あるところでは聖めのために、物を腐らせないために、そして、味付けのために、用いられます。

他者に対して、相手を腐らせないよう、むしろ、相手を生かすような塩味を利かせる。また、自分自身に対しては、聖めの塩を内側に持つ。

よく仏式のお葬式に行きますと、清めのお塩を服の上からかけられます。日本でも、古くから塩はきよめに使っている。

でも、イエス様が言われるのは、服の上からかける塩ではない。塩は自分の内側に持っておけと言われる。そうすれば、平和に過ごすことができると。

 

そのとは何でしょうか。わたしは、つまるところ、それはイエス・キリスト御自身だと思います。ここで言われるは、人間の努力で手に入れるものではありませんから。

優しさ、寛大さだとか、他者への愛、自己への厳しさ、そういったものを神さま抜きに、自力で手に入れられると思ったら、大間違いが起こります。いや、そう考えていること自体が、もう大間違いです。そこですでに、神を畏れぬ傲慢が顔を出しています。神様をあっちへ追いやる背きが、そこですでに始まります。

 

内なる、それは、神さまからいただかないといけない。へりくだって、祈る。祈り続ける。塩気をつけるのは、人間のわざではありません。これは、神様の領域です。イエス様の領域です。だからイエス様によって塩気をつけてもらわねばなりません。

 

今日の個所、両手のまま、両足のまま、地獄に落ちるより、とか、両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるより、といった表現がありました。

地獄って何でしょうか。それは、語り出すと、聖書学的な角度で説明をいっぱいしなければならなくなるので、今日はできません。でも、一口で言ってしまえば、神さまに見捨てられているということが地獄です。神さまと共にいない、ということが地獄です。

 

地獄、あるいは天国というと、特に日本人である私たちは刷り込まれているものがあって、なんとなくいろいろな映像が浮かぶかもしれませんが、天国も、地獄も、場所や、どんな有様だとか、そういうことは問題ではありません。

主が共におられるならば、それが天国です。変な言い方ですが、たとえ地獄にいても、主がおられるなら、それは天国です。

逆に、たとえ、すばらしいパラダイスと思えるところにいても、神さまが共におられないなら、それは地獄です。神なきこと、それが地獄です。

 

いずこにあっても、主のみ言葉を失うな。主の約束を忘れるな。そのみ教えを心にとどめよ。そうして従って来なさい。わたしと共にいるとき、あなたがたも塩となる。地の塩、世の光となる。わたしがすべてのものを受け入れ、どんな小さなひとりをも滅ぼすまい、とこの身を献げたように、さあ、共に世に出て行こう。

イエス様は、わたしたちにそのように呼びかけておられます。

 

わたしたちは、イエス様に選ばれた者です。この世に生を受けたこと、これ自体、もう神に選ばれたことですが、さらに主の弟子となって、この命をささげるようわたしたちは召されております。何と名誉なことでしょうか。

 

主は、わたしたちを通して、愛のみわざをなさりたい、救いを求める者をいやし、支え、救いたいと願っておられます。わたしたちの働きが、主によって支えられ、み旨にかなうわざができますように、これからも祈りつつ、励んでまいりましょう。

 

 

                                      2009104日 礼拝にて

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