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マルコによる福音書101731

 

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守って来ました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てたものはだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

『神の国に入る』  

 

 

 本日与えられましたマルコ福音10章には、ある金持ちの人が、旅を続けるイエス・キリストのもとに駆け寄った時のことが記されておりました。

 

 彼は、イエス様のもとに走り寄って、ひざまずいて尋ねたと書かれております。わたしたちは、日常生活の中で、誰かを見つけてその人の下に走りよってひざまずくようなことがあるでしょうか。なかなかそういうことはないと思います。

 

 この人はイエス様を見かけると、走り寄って、ひざまずいて尋ねました。この場面を思い描くと、彼がこのとき、非常に真剣な思いで、あるいは切羽詰った状態でいた、ということが伝わってくるように思えます。

 

 ひざまずきながら彼がイエス様に尋ねた質問は、永遠の命に関することでした。言ってみれば、宗教的な問いであります。≪神様から救いを頂くために、何をすれば良いのか、どう生きていけば良いのか≫という問い。

 この世において、どんな風に楽しく、幸せに暮らすか、いかにしてお金儲けするか、という目先の事柄ではなくて、神の救いを頂くためには人はいかに生きていくべきか、と彼は問うております。

 

 さてしかし、そんな彼に対して、主イエスのお答えは、いささかつっけんどんな印象を与えます。まず彼が、「善い先生」と呼びかけたことに対して、なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。と、聞きようによっては、言葉じりを捕えたようなことをおっしゃいます。

 

 彼はイエスのことを、この世で〔善く生きているお方〕と捉えている。それがこの言葉に表れています。

 このあとの会話で、彼は聖書の教える律法の一つ一つも、忠実に守っている人であることが分かります。彼自身、まさに、〔善く生きている〕。おそらく、周りの人々からみれば、何も欠点のない人と思われていたことでしょう。

 

 当時の人々は、お金持ちであるということは、神様の祝福を受けている証拠だと考えておりました。後半のところに、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。という主イエスの言葉があります。これを聞いて、弟子たちが、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合っております。

 金持ちが神の国に入れないというなら、まして貧しい者はどうなってしまうのか、ということです。これが当時の価値観でした。

 

 ですから、今日の話に出てくる、この富める人は、周りから見れば、神様の祝福を受けている証拠に、こんなにたくさんの財産が与えられている。そして、律法も小さい時から忠実に守っている。しかも、イエス様の前にひざまずくような謙遜な振る舞いも知っている。言ってみれば、押しも押されもせぬ「救われるにふさわしい人」でありました。

 

 でも彼は満たされなかった。それらすべてを束ねてみても、神のみ前に、救いを得たという確信を持つことができなかった。そのもやもやは何か。

 

 多分、彼は今までに、ほかの先生たちにも同じようなことを尋ねたことでしょう。でも満足する答えを与えられなかった。そこで、彼は、イエス・キリストのもとに駆け寄る。この方なら、今の生活に何か付け加えるような、救いを確実なものとしてくれるような、新しい教えをくださるかもしれない。

 そんなこんなの思いを込めて、彼は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねております。

 

主イエスは、このことばによって彼のうちにある問題を見抜かれたようです。つまり、彼が、この世的な思いに支配されているということを、であります。

 

確かに彼は永遠の命を受け継ぐには、という、決してこの世的でない、宗教的な問いを発しております。見えざる神の救いのことを考えております。その事で悩んでおります。

しかし、彼は、それを、見えるもので解決できると考えています。だから、彼は、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうかと尋ねました。

 

とても誠実でありながら、いや、誠実であればこそ、陥ってしまった一つの過ちがありました。

この世の人間関係であれば、わたしがこれだけのことをしたから、その見返りにこれだけを頂く、そういうことは普通です。当たり前のことです。今の言葉でいえば、ギブアンドテイクです。

 

でもそれを神様との関係に当てはめることがふさわしいのかどうか。彼が見落としていた点がここにあります。

 

イエスはそれで、神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。とおっしゃって、彼の目を天に向けさせようとなさいます。

その上で、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという具合に、モーセの十戒の言葉を並べられました。これが神様から与えられたみ言葉であり、生きる指針である。このみ言葉に従って生きていれば十分であると。

 

しかし、これを聞いた彼は不満でした。そこまでなら知っている。それ以上を聞きたい。そう言いたげです。

 

そこでイエス様はお答えになります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

 

この言葉を聞いて、彼は悲しみながら、立ち去りました。たくさんの財産を持っていたからである。と書かれております。

 

イエス様は、この最後のことばによって、何を彼に、語ろうとされたのでしょうか。

持っている物を売り払って、貧しい人々に与える。・・・これは、モーセの十戒に付け加えて、与えられた十一個目の戒めであるということでしょうか。

そうだとしたら、わたしたちにとっても、これは、重要な意味を持ってきます。

 

でもこれは、字面どおりそのまま受け取るべきことばではないように思えます。

 

そして何よりも、これが字面どおりに受け取るべきことばであるとしたら、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうかと聞かれた時点で、真っ先に、こう答えればいいはずです。でもイエス様は、ずいぶん遠回りなことをおっしゃりながら、最終的にこのことばをおっしゃっておられます。

 

イエス様は何を彼におっしゃりたかったのでしょうか。

 

それを考えるには、このあとの、弟子たちとの会話が大きなヒントとなります。

彼が立ち去ったあと、イエス様は弟子たちを見回して、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」とおっしゃいます。

弟子たちはこれを聞いて驚く。驚いている弟子たちを尻目に、イエス様はさらに、「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」といわれます。

 

弟子たちはいよいよ驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合います。

らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。それはもう不可能だということです。誰一人として、救われる者はない、といわれていることです。

金持ちがどうかの話ではない。金持ちだろうが、貧しい人であろうが、誰一人として、救われる者はいないといわれている事であります。

あの富める人に限らず、だれもが皆、悲しみながら立ち去るしかない。

 

驚きというか、絶望というか、複雑な思いに駆られ、戸惑う弟子たちに向かって、イエス様はそこで、決定的なお答えをなさいます。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 

救いを得る。救いを勝ち取る。ということは、人にはできない。

何をしても、どんなに努力しても、どんなに誠実に生きていても、どんなに財産に恵まれていても、どんなに施しをしても、・・・なにをしても、人は救いを勝ち取ることはできない。それは、らくだが針の穴を通ることよりも難しいこと。

 

でもそんな絶望的に思える私たちに一人ひとりを、神様はお救いになることができる。

もうだめだ、と思える人のことも、自分など罪に満ちて、救いに値しないと肩を落としている人も、悲しみにふさぎこんで立ち直れないままの人生を送っている人も、神はお救いになることができる。神は何でもできるから

 

あの財産持ちの男は、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。と尋ねました。しかし、何をしたとしても、それによって、まるでものをお金で買うようにして、命を頂くことはできない、・・・命は与えられるものだからです。

 

私たちに必要なことは、命の与え主である神様を信頼して、この身をゆだねること。それがイエス様のおっしゃりたかったことです。

 

だからこそ、イエス様は、すべてを売り払いなさいとおっしゃられました。

たくさんの物にしがみつき、目に見えるたくさんの行いを積み重ねている彼に対して、すべてを捨てて、ただその身を神にゆだねることを知りなさい、そうすれば、そこに命がある。そこに平安がある。そこに救いがあると、イエス様は彼に伝えておられたのです。

 

さて、イエス様は最後に、しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。となぞめいた言葉を残されました。

それは、こんなふうに解釈することがゆるされると思います。

 

すなわち、罪多く、悲しみ多く、痛みが多い人ほど、神の救いから遠いように思える人。そういう後ろにいるように思える人ほど、実は、与えられる赦しも大きく、慰めも大きく、救いの喜びも大きい。そのために、だれよりも深く、神に感謝する喜びを味わうことができる。ということです。

 

悲しんでいる人は幸いである。その人は慰められるであろう。といわれた主のみ心が、こんなことばによって、私たちに届けられているのではないかと思います。

 

富める人は、悲しみながらその場を立ち去りました。

イエス様は富める人を見捨てられたのでしょうか。

決してそうではありませんでした。子供の時から守って来ましたと必死で叫ぶ彼を、イエス様は、慈しんで見つめられました。

慈しんでと訳されたことばは、ギリシャ語でアガペーと書かれています。アガペー、すなわち、無条件の愛、その愛の眼差しをもって、イエス様は彼を見つめられました。

 

またいつまでもみ心を理解できないでいる弟子たちをも、イエス様は見つめて諭されました。

 

わたしたちは、思いも行いも、すべてにおいて、限りがあります。

しかし、主の愛は、永遠に変わることがありません。まさに、人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるということを、知らされるところです。

 

富める人を慈しまれたように、また弟子たちを見つめながら語られたように、イエス様は変わらぬ愛をもって、今も、わたしたち一人一人に、眼差しを注いでくださいます。わたしたちは、ただこのお方に身をゆだねればよいのです。

主の愛に支えられながら、感謝のうちに、新しい時を生きて行きたいと思います。

 

 

                               20091018日 礼拝にて

 

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