説教集 目次へ

 
 

ヨハネによる福音書21322

 

  ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 

『神殿とは・・・』  

  本日与えられましたヨハネ福音書2章の御言葉は、聖書学で「イエス・キリストの宮清め」などと呼ばれるところであります。

過越祭が近づいた頃、エルサレムの神殿に行かれたとき、そこにいる商売人や両替商を追い出されたという出来事。縄で鞭を作って羊や牛、そして両替人たちを叩き出され、商売の台をひっくり返された、とありますから、イエス様は優しくて穏やかなお方だとイメージしている者には、衝撃を与える出来事です。いったい、この物語は何を私たちに伝えているのか。ご一緒に振り返って行きたいと思います。

 

  ユダヤ人たちは、エルサレムの神殿に巡礼に赴くことを習わしとしていました。特に、ここにある過越祭は重要なお祭りでした。お祭りと言っても、日本の縁日のようなにぎわいとはいささか趣を異にしていたようです。

歴史を振り返り、感謝しつつ巡礼を行う。それが祭りです。過越祭は遙かモーセの時代、奴隷の地エジプトから解放されたことを思い起こし、神様に感謝を献げるお祭りでした。

 

  しかし、一つ問題がありました。新約聖書の時代、ユダヤ人たちはローマ帝国に統治されておりましたから、神殿で献金を捧げるためには、ローマの皇帝の顔が彫られたものをささげるのは相応しくない。それで、ふだんは使わない古いイスラエルの貨幣に交換する必要があったようです。さらに、遙か遠いところから訪れるので、神殿で献げる犠牲の動物など、いちいち持って来ることができません。それで、必然的に、両替商や、お供えの動物を売る商売が生まれていました。

 

  その日、神殿を訪れた主イエスは、この商売人や両替商たちを、実に乱暴なやり方で追い出され、おっしゃいました。

 「わたしの父の家を商売の家としてはならない。

 

  父の家・・・神に感謝と祈りを献げる神殿を、商売の家としてはならない。

その言われることはよく分かることです。また、実際に、当時、こういった商売や両替をしていた人たちは、レートを引き上げて、私腹を肥やしていた者も少なくなかったといわれます。

神の家に、不純な思いを持ち込むな。今風に言えば、宗教で金儲けをするな、宗教を金儲けの道具にするな、・・・そう考えると、イエス様のなさった行動も,理解できることではないでしょうか。

 

  しかし、商売をしていた人たちだけが悪かったのでしょうか。店をひっくり返されてしまうほどに、いけない行為だったのでしょうか。

  おそらく、数え上げていけば、当時もっと悪いことをしている人は、他にもいたでしょう。この日、たまたまそこで商売をしていた人からすれば、いい迷惑の話だったように思えます。

 

  この日のエルサレム神殿の商売の様が、あまりにも露骨で、これは放っておけないと思われたのかも知れません。

でも、イエス様がこの後、あちらこちらに行っては、同じようなことをされたとは、聖書のどこにも書かれておりません。この一個所だけです。

 

 ですから、これは、教会でバザーをしてはいけません、といったような受け止め方をするのはふさわしくないことです。

むしろ、この出来事を通して、私たちの生き方、また、信仰というものに対して、何らかのメッセージを告げようとして記されていると受け止めるべきでしょう。

 

  では、どんなメッセージなのか。この出来事をしるしたヨハネは、私たち読者に何を伝えようとしたのか。

  それは後半にしるされたユダヤ人たちとの対話に明らかにされていきます。

 

  ユダヤ人たちは、イエス様にくってかかりました。

 「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」

 

  言葉を足せば、「この神の神殿において、これほどのことを堂々と行うということは、おまえはそれなりの権威か何か、神様から与えられているのだろう。その、しるしを見せて見ろ。確かに、おまえがここでこれだけのことをする人だと、納得のできる奇跡の一つでも、示して見ろ。」・・・そう彼らは詰め寄ったのでした。

 

  これに対して、イエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」とおっしゃいます。

 

  当時あったエルサレム神殿は、ヘロデ大王のもとで建てられた壮大な神殿でした。み言葉にも記されているように、四十六年という歳月を費やして建てられたものです。さらに、その後、二十年近くを経たと言われます。

それを壊してみろ、三日で建て直してみせる。とおっしゃる。

 

めちゃくちゃなことを言っている、誰もがそう思ったことでしょう。

  実際に、これを壊すことはだれにもできないことです。ユダヤ人たちは、このせりふに苦虫をかみつぶすような思いがしたことでしょう。

 

この日の出来事は、彼らの記憶に鮮明に残りまして、イエス様が裁判にかけられたとき、おまえは、神殿を三日で建て直すと言った。これは神を冒涜することだ、と罪状として読まれることになります。

イエス様が十字架にかけられ処刑されるための理由のひとつとなる事件となるのです。

 

  この日の出来事が記憶に残ったのは、敵対者だけではありません。弟子たちにとっても記憶に残る出来事となります。

 弟子たちは、イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。と最後に記されているとおりです。

 

  そして、ヨハネは、それらをすべて要約するために、イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。と記しています。

 

  神殿とは、イエス様の言われるとおり、父なる神様の家です。

神様に感謝と祈りを捧げるための場所です。神殿において、人は神の家族であることを思い起こし、新しい生き方を示されます。

今で言えば、教会です。ここで、わたしたちは、礼拝をし、御言葉を聞き、賛美を捧げます。そして、また新しい生活へ送り出されます。

 

  イエス様は、それを三日で建て直してみせるとおっしゃいました。

そして、イエス様ご自身が神殿である、と聖書は記しています。

 

  ユダヤ人たちが、しるしを見せよと求めたときに、イエス様は、三日で建てられる神殿、しかも、三日というわずかな時間の中にいます主ご自身が、しるしであると言われました。

  わたしたちが、この個所から、メッセージをいただくべきことは、ここにあります。

 

  この、イエス様に食って掛かっているユダヤ人たちは、わたしたち自身です。

本当に、あなたが神様なら、この家を司る方なら、しるしの一つも見せてください。そう迫っているのは、わたしたちの姿です。

 

  わたしたちの心の中にも、あれこれとしるしを求める姿があります。

 祈りにすぐに答えてください、あなたが本当に神様なら、わたしの祈りに答えてください、何かしるしを見せてください、と詰め寄る姿があります。

 

  それに対して、イエス様は、しるしは、三日だとおっしゃいます。

  神殿の中で、ずいぶん乱暴な振る舞いをされたことに、心を奪われそうになるかも知れませんが、大事なことはここです。

 

  聖書の中には、いろいろな奇跡物語があります。病人をその場でいやされたとか、目の見えない人、耳の聞こえない人を、即座に直されたとか。はたまた死人をよみがえらされたとか。わずかなパンと魚で、大勢の人を満腹にされたとか。

 

  でも、最大の奇跡は、三日です。神の御子が、人の手によって殺されたこと。そして、三日後に復活なさったこと。聖書の中のあらゆる奇跡は、この三日のためにあります。

 

 神の御子が、人の姿をとって、この世に降りて来られたこと。そして、そのいのちを投げ出して、わたしたちの身代わりとなって下さったこと。これ以外に、しるしはありません。いや、これ以外にしるしは必要ないと言ってもいいでしょう。

 

  裏を返して言えば、わたしたちがいつも心に留めるべきことは、あの三日による、神様のみわざ、救いのみわざなのです。

 

 

  イエス様は、あの日、神殿にある、よけいなものを全部ひっくり返してでも、追い出されました。実に乱暴な方法をとってでも、すべてのものを排除なさいました。

 

  わたしたちは、このエルサレムの神殿でもあります。わたしたちの中にも、あれやこれや、いらないものがある。神様と出会うべき場所に、別のものを持って来たり、求めたりしようとする。

イエス様は、それをご覧になって手段を選ばず、取り去ろうとなさる。こんなものはいらない。神の神殿に、あれもこれも必要ない、とおっしゃる。

 

  ・・・・あなたは神殿だ。神の神殿だ。その神殿の中に必要なことは、多くはない。一つだけ。それは、神があなたをお救いになるために、十字架にかかり、三日後に復活なさったということだけ。それほどまでにあなたのことを、神様は心に留め、愛していらっしゃるということ。それを受け止め、信頼のうちに生きること。他には何もいらない。・・・

  今日の御言葉は、わたしたちにこう語りかけております。

 

 

  みなさんは、今、どんな神殿として立っておられるでしょうか。

  振り返る必要があります。

 

  信仰という名の神殿は、詰まるところ、神様への、絶対的な信頼の上に立っています。

  神様は、ご自身の独り子を死に渡してでも、このわたしを、あらゆる力から助け出して、お救い下さる。

  そのことへの畏れと、感謝と、希望だけが、生ける神殿の土台です。

 

  この日のイエス様の言動は、乱暴です。乱暴きわまりないものです。

  しかし、これほどのことをしなければ、これほど強制的に追い払わなければならないほどに、わたしたちの中に、いろいろなものが根強くあるということでしょう。

  自分を誇る思いとか、認められたいとか、神様の愛を信じ切ることができないとか、自分の身を守りたいとか、他人を裁く気持ちとか。

  いろいろなものが渦巻いています。

 

  イエス様はこれを取り払おうとされる。しかも、取り払って空っぽにするだけではなく、そこに御自分が住もうとなさる。復活のいのちを携えて、わたしたちの中にお住まいになろうとされる。

  あなたの中でこそ、わたしは生きる。罪を背負い十字架にかかるわたしは、あなたの中で生きる。復活のいのちをあずかるわたしがあなたの中に生きる。一緒に生きる。

  その日お見せになった熱情は、救い主としての熱情に他ならなかったのです。

 

 今日は宗教改革主日。改革者たちは、この信仰という名の、まことの神殿を取り戻すために、戦いました。世の支配者と戦い、また、おのれの罪と闘いました。わたしたちの教会は、この原点に立っている教会。今日、そのことを思いめぐらすことができる幸いを思います。

 

  三日で建てられた主の神殿、この神殿を信じ、そこに立ち、感謝のうちに歩いていきたいものです。そして、私たち自身、信仰を基とする神の神殿として立っていたい、このように思います。

 

 

                                20091025日 礼拝にて

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ