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マルコによる福音書122834

 

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

『最も重要な掟』

 

 

今週と来週の日曜日、マルコ福音書12章のみことばを学びます。今日の個所は、最も重要な掟についての問答。そして、来週は神殿でなけなしのお金、レプトン銅貨二枚を献げた貧しい女性の物語を学びます。

マルコ福音書12章。これはもう終盤です。まもなくマルコ福音書は終わります。パラパラっとめくると、13章はイエス・キリストが終末について語っておられるところ、そして、14章、15章が、イエスの裁判と十字架における処刑と進んでいます。もう終焉に向かっています。

 

マルコ福音書12章は、イエス・キリストの論争物語です。人々と、論争、問答を繰り返された場面が続きます。たとえば、今日の個所のすぐ前を見ますと、二つの問答について書かれております。皇帝への税金を納めるべきかどうか、という問答、そして、復活があるのかどうかという問答です。

そして、今日の場面に移ります。三つの問答が続けざまに描かれています。

さらに、すぐあとをみれば、「ダビデの子についての問答」と新共同訳聖書では小見出しが書かれています。そう数えてまいりますと、四つ続きます。

今日の個所は、四つ続く問答物語の三つ目ということになります。

 

今日の個所の最後の一言をみますと、もはや、あえて質問する者はなかった。と書かれております。もうこれが最後だと。誰もイエスに質問する者は表れなかったと。

実際、四つ目の問答をみると、これは誰かが主イエスに質問したのではなく、主イエスのほうから皆に問いかけておられます。誰かが、主イエスに質問を投げかけ、それに主イエスがお答えになったのは、もうこれが最後となります。

 

しかも、それは、他の三つとはいささか趣を異にしているようです。前の二つは、イエスに向かって、敵対意識を持つ姿勢から出た質問でした。何とか、あの男をぎゃふんと言わせようとか、あの男をひっとらえる口実を得ようとか、誘導尋問のような意地悪な問いを投げておりました。

それに比べると、今日の個所では、イエスに対して、好意的な姿勢でやって来た人の質問です。言葉じりをとらえてやろうとか、さて、この男は、こういう質問をしたら、どう答えるのか、お手並み拝見とか、そういう意地悪な気持ちではなく、純粋に、この先生なら、わたしの疑問に答えてくれるだろう、という素直な思いから質問をしているようです。

 

この男は、今までの問答をそばで聞いておりました。意地悪な質問をする者の姿も見ていました。そして、それに対して、相手をうならせるような見事な答えを返しておられるイエスを見ておりました。

出だしの所で、この男は、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。とあります。イエスが立派にお答えになっていると彼は認めている。

 

この立派と訳された単語は、あとにもう一回でてきます。彼はこのあと、イエスのお答えを聞いて、先生、おっしゃるとおりです。と答えています。このおっしゃるとおりと訳されているのが、はじめにある立派という単語です。

だから、訳し方によれば、あとのほうも、先生、立派です。と訳すこともできます。いくつかの翻訳では、≪見事≫と訳されています。≪イエスが見事にお答えになったのを見て、彼は質問した。≫そして、最後のところでも、≪先生、見事です。≫と彼は称賛した。と。

 

イエスの口から出てくる言葉の数々を聞いていると、「いや、見事だ」と「素晴らしい!」と、彼は感じ入った。おそらく、「これは本物だ」と感じたのだと思います。だから、彼は、言葉じりをとらえてやろうとかいう邪念など微塵もなく、イエスに尋ねております。このお方なら、きっと本物の答えをくれるに違いないと。

 

そういう思いで尋ねたのが、あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。というものでした。

あらゆる掟。当時のユダヤ人の持っていた律法と呼ばれる掟は、「こういうことをしなさい」というのが248個、「こういうことをしてはならない」というのが365個。合計613個もの掟があったそうです。それだけのものがあれば、黄金律と呼ばれるような教えもあれば、普段はあまり使われないような細かい規定もあったことでしょう。

 

たとえば、今日の個所で、イエスがお答えになったようなもの、神を愛しなさい、とか、隣人を愛しなさい、とか、こういうものは黄金律です。立派な筆で書いて、掛け軸にして、床の間に飾っておいてよいものです。教会の看板に書いて、いつでも目にしておいてもよいものです。

 

そうかと思えば、たとえば、安息日には穂を積んではならないとか、何か動物の肉を食べてはならないとか、非常に、特殊な教えもそこには含まれていました。そういうものは、掛け軸に飾るには似合わない。ある特殊な場面で、顔をのぞかせるものです。

 

そういう具合に、数々の掟がある。613もの掟がある。さて、その中でどれが第一か、と。どれが最も重要かと尋ねました。

 

彼は、律法学者です。律法の専門家です。その筋のプロです。

彼なりに答えは持っていたと思います。また、似たような問いを、民衆から尋ねられたこともあるかもしれません。

一生懸命勉強していたのでしょう。真摯に考えていたのでしょう。神様にお仕えするための掟、律法。おそらくどれもよく知っており、またよく守っていたと思います。

 

思い出してみると、何週間か前に、富める青年のお話を学びました(マルコ福音10章)。彼はやはり、イエスに尋ねておりました。≪何をしたら、神の国に入れますか。≫それを受けて、イエスは、殺すな、姦淫するな、盗むな、父母を敬え、という具合に、掟を紹介されました。それは、モーセの十戒のことばでした。613の教えの根幹になっているところです。

それを聞いた彼は、何と答えたか。≪先生、そういうことなら、子供のころから守っております≫と。

 

そう、これが、ユダヤ人の生き方です。≪そういうことはみな、子供のころから学んでおり、耳にたこができるほど聞いており、そして、実践してきております≫と。

日本人の子供たちが、「はい、小さいころから、英会話の教室に行っています、何々の塾に行っています、公文をやっています」と答えるのと大違い。彼らは、子供のころから聖書の言葉を聞いている。神の教えを聞いている。子供のころから守っている。

 

今日の個所に登場している人は、その中でも、エリートです。律法を知っている程度ではありません。律法学者です。律法の専門家、プロです。

 

その彼に対して、主イエスは答えておっしゃいました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

第一の掟は何か≫と問われたので、第一の掟は、・・・とお答えになりました。それは、『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』ということ。

 

神を愛しなさい、ということだと。

この世の何ものかを愛するのではなく、神を愛しなさい、と。

 

愛するとは、それを大切にするということ。他の何ものをも犠牲にしてでも、それを大切にすること。いや、何かと何かを比べて、こっちのほうが大事というレベルではなく、それだけが抜きん出ているようなもの。他と比べようがないもの。そういう思いを傾けられるのが、愛するということです。神を愛しなさい、と。

 

これで終わってもよいはずですが、イエスは言葉をつづけられました。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

第一の掟は?と尋ねられながら、第二の掟についても語られました。それは、切り離せないからなのでしょう。一位と二位について語られたのではなく、この両者は、切り離しえないということが、ここで教えられているのでしょう。

 

神様を大切にすることを知った者は、この世で与えられた日々において、隣人を大切にする生き方へと向かわざるを得なくなる。そう言われているようです。なぜなら、すべての人が、神様によって選ばれ、造られたものだからです。

 

さて、このお答えに律法学者は、満足行ったようです。わが意を得たり、といった気持になったのだと思います。それは、彼自身、何よりも神様を大切にすることが大事、と思っていたからでしょう。そういう生き方をしていたのでしょう。

 

あの富める青年と違って、≪そんなことなら子供のころから学んできました、子供のころから守ってきました≫という答え方をするのではなく、先生、おっしゃるとおりです。≪先生、見事です≫と感じ入っています。そうだったんだ、やっぱりそうだったのだ、と思えたのでしょう。

 

そのような彼をご覧になりながら、主イエスのほうも、賞賛なさいます。あなたは、神の国から遠くないと。

今まで論争や問答をしてきた誰に対しても、こんなおほめの言葉をかけられた者はいませんでした。しかし、彼は、神の国から遠くないと言われます。

 

でも、あえて言うなら、これは手放しのほめ言葉ではありません。律法学者のほうは、イエスを手放しで称賛しておりますが、主イエスのほうは、100点をあげているわけではないようです。神の国から遠くない。逆にいえば、もうちょっとだ、と。あと一歩だと。かなりいい線いっているようだ、もうちょっとだと。

 

何がもうちょっとなのでしょうか。そして、では、だれがそのもうちょっとをクリアしているのでしょうか。

 

そのもうちょっとは、今ここで見事な答えをしているイエスというお方を、わが主よ、わが神よ、と受け入れることではないでしょうか。彼は、このイエスというお方を、先生と呼びました。彼自身も先生です。律法の先生です。≪大先生だ≫と呼んだ。

 

でも、あの手のひらの釘あとを見て、もはや指を入れることなどできなくなったトマスが、≪わが主よ、わが神よ≫とひれ伏したように、このお方を真の救い主と受け入れた時、神の国は、その人のものになるのです(ヨハネ福音20章)。

 

マルコ福音書の12章です。もう間もなく、イエスが十字架につけられ殺される場面へと移ります。それは神を愛するがゆえの道行きでした。それは、私たち一人一人を愛されるゆえの道行きでした。

 

神を愛し、すべての隣人を愛しているのは、ほかならぬこのお方であること、すべての隣人のために、神のみ心を行うために、その命を投げ出すお方。

私たちのために、すべてを犠牲にされたお方。何かと何かを比べて、こっちが大事ということではなく、私たちのことを何よりも大事として、ご自身の命までもお捨てになられたお方。

このお方こそ、真の主であると受け入れるとき、神の国は遠い、近いではなく、神の国の中にいることを知らされるのです!

 

あなたは、神の国から遠くない。と言われたイエス様でしたが、むしろ、イエス様ご自身が、私たちのほうへ近づいてこられ、そして、私たちと共にいてくださるお方となってくださいました。

神の国は遠くない。いや、わたしは遠くない。むしろ、わたしはいつも共にいる。あなたと共にいる。それこそが神の国です。それこそが、真実です。救いのしるしです。

 

イエス様はあなたを愛しておられます。何をおいても、あなたを救うために全力を尽くされます。思いを尽くし、力を尽くし、心を尽くされます。

 

「イエス様はわたしの救い主。」今日、共にこのことをしっかり覚えましょう。

 

 

                                2009118日 礼拝にて

 
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