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マルコによる福音書132431

 

 「それらの日には、このような苦難の後、

太陽は暗くなり、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 

                                 

『神の言葉は滅びない』

 

  旧約聖書の中に、コヘレトの言葉という書簡があります。以前用いておりました口語訳聖書では、伝道の書という名で親しまれておりました。

 

  コヘレトは言う。

なんという空しさ

なんという空しさ、すべては空しい。

 

こういう言葉で、コヘレトの言葉は始まります。

 口語訳聖書では、「空の空、空の空、いっさいは空である」とありました。

 

 中身を読んでいきますと、世の中で生きていく中で、人が何を楽しみ、何を悲しみ、どんなに力を尽くしてがんばったところで、すべては風を追うようなもので、空しいことだ、と語られます。平家物語の無常観にも通じるような、聞きようによっては、無気力な言葉の数々がそこに記されております。

 

  なんの励ましにもならないように思えるこの書簡は、しかし、最後、だから、あなたがたは若い日に創造主を知れ、と言います。

 世の中の浮き沈み、あるいは、私たちの内面に起こる喜怒哀楽に捕らわれることなく、ただ、創造者なる神を知れ、そこから始めるのだ、といって結ばれます。

 

  そこに至って、コヘレトの言葉は、ただの無常観とは違い、ほかのいっさいのことではなく、ただ神を知れ、神を畏れよという、まさに伝道の書として、私たちにメッセージを投げかけるのであります。

 

  さて、本日与えられましたマルコ福音書13章には、終末の日について、イエス・キリストが語られた御言葉がしるされておりました。

 

  太陽は暗くなり、

月は光を放たず、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

 

 更にさかのぼって、13章の始めのほうから読みますと、そこに、メシアの名を名乗る者が大勢現れたり、戦争が起こり、方々に地震が起こることなど、世の終わりの日の描写が記されております。

 

  こういった文言をお読みになって、皆さんはどんな印象を持たれるでしょうか。

 

  今の世の中に当てはまりそうだ。戦争も止まない。地震も各地で起きている。私こそキリストの生まれ変わり、と叫ぶような教祖たちがあちこちで生まれている。

  もうすぐ、本当に世の終わりなのではなかろうか・・・。

そういう声がちまたでも聞こえております。

 

  人は昔から、こういった終わりの日のことを、心のどこかで思い描いてきました。小説にも書かれました。映画にもなりました。

「人類最後の日」。そういったタイトルの物語を、皆さんも、一つや二つはどこかでご覧になられたことでしょう。

 

  本日与えられましたマルコ福音書13章にも、終わりの日がやがて来る、ということが記されております。そして、その日には、なにやらおどろおどろしいことが起こるのだ、と表現されております。

 

 結局最後に、すべてが無に帰してしまうというのなら、それこそ世にあるものは皆、≪空しい≫ことなのでしょうか。

いったい聖書は、終末ということに触れて、何を語っているのでしょうか。

 

  初めに結論を申しあげますと、聖書が終わりの日について語るとき、それは絶望の時ではなく、希望の時であると語っていることであります。

 やがて訪れる終末の知らせというのは決して、いたずらに、人を脅すものではないということ、このことを初めに結論として申しあげておきたいと思います。

 

  確かに、本日与えられたマルコ福音書には、その日には、天変地異も起こる、とあります。恐ろしい言葉が並んでおります。

 

ただ、それが大事ではありません。

  コヘレトの言葉が、いっさいは空しいと綴りながらも、それが大事ではなくて、だから、神を知り、恐れなさいという結論を出しているように、ここでも、それらはどうでもよいことだと語っております。

 

  天体が揺り動かされるだの、太陽や星が光を失うだの、あるいは地震が起こる、戦争が起こる、などと聞きますと、私たちは、そういう目に浮かぶ現象に心奪われてしまいそうになります。

 

が、しかし、聖書は、そういったことは大したことではないと言おうとしております。

 そういったことが起こったとしても、あなたがたの心を揺るがすようなそういったことが起こったとしても、何も怖がる必要はないのだ。

大地が揺るがされ、あなたがたの心が揺るがされても、決して揺るがされることなく、立ち続けるものがある、それが、神の愛なのだ、と語ります。

 

  そして、終わりの日において、重要なこと、それは、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来ること。これであります。

 

 大いなる力とか、栄光とか、雲に乗ってとか、そういった表現も難しく考えなくてよろしいでしょう。

 要するに、その日は、人の子、すなわちイエス・キリストが再び来られるということ。救いが完成する日であること。それが一番重要なところです。

 

 私たちはこのあと、使徒信条によって、いつものように信仰告白します。

主は、「全能の父なる神の右に座し、そこから来て、」と言います。この「そこから来て」の短い一言に、今日のマルコ福音書13章の約束が込められています。

 

  終わりの日は、絶望の日ではない。神の御子が再び来て下さる時。救いが完成するとき・・・そう聖書は約束しております。

 

  さて、「主がもう一度来て下さる。」今度は、その言葉を聞いて、私たちは何を思うのか、胸に手を当てて考える必要があります。

 

イエス様が再び来たり給う、と聞いて、本当に心晴れやかに、一点の曇りもない希望と喜びを与えられるか、どうか。

 

  私たちは勝手なもので、ある時には、神様、今すぐここに来て、私たちの世界を何とか助けてください、とか、今このわたしの置かれている状態をすぐになおしてください、と祈りたくなることがあります。

神様は、なんで、こんな戦争の世の中を放っておかれるのか。すぐに下りてこられればいい。そんなことを考えます。

 

  ところが、反対に、今すぐ、イエス・キリストが来られる。

たとえば、今ここで、ここに、イエス様が来られる。

今日の御言葉にも、人の子が戸口に近づいているとありますが、もうそこまで来ている。次の瞬間、主が今あなたの目の前に来られたなら、と想像してみる。

 

  そう考えてみたとき、私たちの心にどんな動きが生じるのか。

  本当に、今そういう時が来て欲しいと思っているのか。

 

  皆さんの心に何が浮かんだでしょうか。

色々であろうと思います。

 中には、今来られるとまずいと思える方もいらっしゃるのではないでしょうか。

  あるいは、いざ主が来られると聞くと、なんだか、あのことこのこと、裁かれるのではないか、と心配になられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

  今ここに主が来られると想像したときに、私たちの信仰がいかなるものなのかが、明らかにされます。

 

 終末思想というのは、その人の今の生き方、神に対する思いがいかなるものなのかを示してくれます。

そして、それを通して、私たちを正しい信仰、真の救いを味わう信仰へと導こうとしてくれるものです。

 

  終末を聖書が教えるのは、その日を怖がったり、脅したりするためではなく、今ここでの生き方を問い直すためのものであります。

 

後半のところに、いちじくの木のたとえが示されております。いちじくは聖書の中でもよく登場する植物です。アダムとエバが罪を犯し、それぞれの腰を覆うために、いちじくの葉を用いた。そう記されております。

 

  冬の間、固くなっていた枝に樹液が上り、やがて枝が柔らかくなり、葉が茂り、実がなる。これを見て、イスラエルの人々は、冬が終わったことを知ります。

  長かった冬が終わる。木々が芽を吹き、実りが大地を覆う。その象徴として、いちじくがありました。

 

  いちじくの葉が茂り、実がなるのを見て、冬が終わり、夏が近づいたことを知るように、あなたがたは、終わりの日を知ることができる。

  この言葉によって、今から2000年ほど前の人たちも、終わりの日が近いのだろうかと、ずいぶんと終末を意識していたようです。

現代の話ではありません。2000年ほど前の人たちも、その時代に、終末の時は近いか、などと、おそらく今よりもっと身近に考えていたと思われます。

 

  その時から、2000年を経ました。本当に終わりは来ていません。

 忘れてはならないことがあります。それは今日の個所のすぐあとにある言葉。

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。

 

  もうすぐ世の終わりが来る。と言って、騒ぐ者は後を絶ちません。でも、まどわされてはいけない。それを知っているのは、父なる神様だけです。

 

 そして、聖書は語る。

仮に、本当にその日が今日明日来たとしても、あなたがたは何も恐れる必要がない。それは、救いの御子がいよいよ現れる時。あなたを救うために、主が来られるとき。

世の中のものがすべて朽ちて、滅びたとき、それは、本当に最後に何が残るのかがはっきりと示される時。

すべてが滅びても、神の御言葉が最後に残ることを知る時。いよいよ新しい春が、夏がやってくる時。

 

  そして、あなた方はそのことを、今、知っている。

世のすべてが空しく過ぎ去っても、決して移り変わることのないものが何であるかを知っている。それは神の愛。一人として滅びることを望み給わない神の愛、それが決して変わることがないことを、あなたがたは知っている。

知らないなら、今こそ、それを知りなさい。その他のものは皆、空しいことなのだから、と今日の御言葉は、私たちに語りかけております。

 

  初めにもご紹介いたしましたが、今日の御言葉は読めば読むほどに、どこかコヘレトの言葉と私は重なりました。

世にあるものはすべて移りゆく。だからこそ、決して変わることのない、神の恵みの御言葉に聞き、主を畏れ敬う者であれ。

 今日、改めて、このことを教えられたいものです。

 

 

                     20091129日 礼拝にて

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