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ルカによる福音書192840

 

  イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

  「主の名によって来られる方、王に、

   祝福があるように。

   天には平和、

   いと高きところには栄光。」

  すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

 

 

 

『子ろばに乗って、王が来る』  

 

  「主の名によって来られる方、王に、

   祝福があるように。

   天には平和、

   いと高きところには栄光。」

 

 これは、私たちルーテル教会の礼拝において、聖餐式の始まるところで、うたっております。

「主の御名によって、来られる方をたたえよ♪ 天にはホーサーナ♪」。

あの歌詞は、今日のみ言葉、イエス・キリストがオリーブ山からエルサレムに向かって、子ろばにまたがり、やって来られたときに鳴り響いた歌であります。

 

あの日、弟子たちが、主イエスをお迎えしました。「私たちの主が来られた、私たちの王が来られた、万歳、万歳」と。

それと同じように、私たちは聖餐のパンと葡萄酒に与かるにあたり、これを歌います。あの日、子ろばにまたがって来られたイエスを迎えたように、私たちも、パンと葡萄酒と共に来られる主をたたえる。あの日の弟子たちのように、私たちも、讃美しながらお迎えする。そういう思いを込めて、聖餐式のときにこれを歌っております。

 

さて、しかし、いつも礼拝で歌いながら、また今日のエルサレム入城のみことばを、何度も耳にしていながらも、この言葉は、わかりやすいものではありません。

よくよく考えてみると、主の名によって来られる方というのは何なのでしょうか。あまり立ち止まらずに、なんとなく歌っていたり、また、なんとなく聞き流しているところかもしれません。

 

別にそれが悪いわけではありません。なんとなく聞いている。よく意味はわからないけれども、言葉はそらんじて言える。そういうものはたくさんあります。それはそれで、けっこうだと思います。

ただ、今日は、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

 

主の名によって来られる

イエスは、主の名によって来られる。これはどういうことか。

 

皆さんは、どういう名によって、ここに来られるでしょうか。

教会員の方は、教会員の名によって、今ここにおられると、一つ言えます。「あなたはなぜ教会に来ているのか」と聞かれたら、「わたしはこの日本福音ルーテル栄光教会の会員だから、礼拝に来ております」と。それは、ひとつの答え方です。

 

また、「キリスト者」という名において、いまここで、自分を語ることもできるでしょう。「イエス様の弟子」という名によって、自分自身を定めることもできます。「イエス様の弟子だから、イエス様をたたえるために、そして、イエス様の御教えをいただくために、礼拝に来ております」と。

そういった名によって、門をくぐり、この礼拝堂に入り、座っていらっしゃる。

 

また、英和女学院の生徒という名によって来ておられる方もいらっしゃるし、「信者ではありません、一般の者です」、「未信者です」といった名によって、ここで自分を表現される方もおられるでしょう。

 

この聖壇上で礼拝を司式し、説教をしているわたしは、キリスト者であり、イエス様の弟子であり、そして、牧師という名において、ここに立っております。

 

さて、では、もしもここに、そのイエス・キリストご自身が来られたならば。そこの入り口から、主イエスが入って来られ、受付で名前をお書きになって、この礼拝堂に入って来られたら。

 

そのとき、私たちは、このお方を、主の名によって来られる方と間違いなくお呼びします。会員という名ではなく、キリスト者でもなく、弟子でもなく、先生でもなく、という名のもとに、このお方は呼ばれます。そう呼ばれるお方は、この世界で、この宇宙で、天地万物の中で、このお方一人だけであります。

 

あの日、イエスは子ろばにまたがり、エルサレムに来られました。

ときは、ユダヤ人たちの最大の祭り、過越祭の時期ですから、ごった返していたことでありましょう。色々な人たちがやってきます。みんな、巡礼のためにやってきます。私たちが今、神をたたえ、礼拝するために、この礼拝堂に集まっているように、過越しの祭りを通して、神さまをたたえるために、集まっておりました。

 

そこへイエスが来られた。

このお方は、礼拝するために、信者の一人として来られたのではない。主の名によって来られた。みんなが、礼拝する対象のお方として、来られた。

わかりやすく言えば、主の名によって来られる方とは、そういうことであります。

 

しかも、ルカ福音書によりますと、弟子たちは、ただ、主の名によって来られる方、とだけでなく、主の名によって来られる方、王と呼びました。であり、である方。

と呼ぶのですから、彼らは、そのしもべ。と呼ぶのですから、彼らは、その家臣、またはその国民。自分たちが従う方として、たたえました。

 

イエス・キリストご自身、この弟子たちの叫びを、やめさせようとはなさいませんでした。むしろ、やめさせろと横槍を入れた人に向かって、言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。と言って、彼らの歌声を、ふさわしい歌声として、響かせ続けてよい歌声として、後方支援までしてくださいました。

 

今、みなさんが、礼拝で「主の御名によって、来られる方をたたえよ♪」と歌うときも、その歌を邪魔する者がいたり、つまずかせるような者がいたりするならば、主はきっと同じようにおっしゃるでしょう。

その歌声がたとえ、小さくても、たとえ少々へたっぴであっても、その歌声をやめさせようものなら、石も叫びだすと。

それほど、喜ばれているのが、この讃美の言葉であります。

 

さて、そのようにたたえられているであり、であるイエス・キリスト、でありますが、様らしいお姿なのか。らしいお姿なのか、と言えば、いま、どんな格好でしょう。子ろばにまたがった姿です。

 

日本平動物園でも、子ろばだったり、ポニーだったり、子どもを乗せてくれることがあります。でも、だいたい未就学児童まで、でしょう。その程度の大きさです。

ちなみに、わたしも子どもの頃、乗った覚えがあります。12分でしょうか、ぐるっと回ってくるだけです。五つ年の離れた姉がおりますが、確か、もう小学生だったので、乗れなかったのを覚えています。

 

ああいう催しで、ろばが暴れて子どもをけがさせた、といった事故は聞いたことがありません。

ろばというのは、実に従順で、たとえ、子どもが悪ふざけで蹴っ飛ばすようなことをしても、何も抵抗もしないのだそうです。だから、安心して、子どもを乗せて歩かせることができる。

 

反対なのは、馬です。これは、癇癪持ちです。気に入らないなら、これっぽっちも動かないし、乗っている人を、暴れて、揺り落そうとしたりもします。

でも、その毛並みの美しさや、筋肉隆々の姿から、馬は、高貴な人の乗り物でした。

 

今、イエスは、主の名によって来られる方、王としてたたえられつつ来られる。しかし、馬ではなく、ろばに乗って。しかも子ろばに乗って。

 

おそらく、周りにいる人と、目線が合っていたのではなかろうかと思います。馬に乗った人は、見上げないといけませんが、子ろばならば、みんなと同じ目線でしょう。あるいは、下手したら、とたたえられている側が、見下ろされているかもしれません。

 

でも、そのイエスを弟子たちは、主の名によって来られる方とたたえ、と呼びました。彼らの喜びは、そこにありました。

 

もっともこの数日後、ものの一週間もたたずに、彼らは、このエルサレムで、イエスを捨て、逃げて行きました。それは、忘れてならないことでしょう。

 

私たちも、ここから、新しい一週間をはじめる。いま、ここで、イエスのことを主の名によって来られる方とたたえ、とあがめていながら、ここから出て、日常生活に戻ったときに、あっという間に、別のものを力あるものとして、たたえ、頼るものになります。

 

たとえば、お金。今、ここで、王なる者、すべてを支配する者は主イエスなり、と讃美しつつ、明日には、やっぱりお金がないとやっていけないわ、と頼る者を間違えてしまうかもしれない。あっという間に、イエスを捨てたり、忘れたりするかもしれない。

私たちは、そういう弱いものです。

 

しかし、主イエスは、そういう弱い者であること、この数日後には裏切っていくことを知りつつ、この弟子たちの、主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。という歌声を喜ばれました。その歌声が邪魔されることのないように、守ってくださいました。

 

いや、それだけでなく、そもそも、彼らをいつもご自分の右腕として、お用いになりました。

この日も、エルサレムに入られる前、この子ろばをどこかから、自分で調達するのではなく、二人の弟子を使いに出して、こう、こう、こうだよ、と言って、派遣なさいました。

 

イエス様は、いつでもそうです。

弟子たちをお用いになる。昔も、今も。

今日讃美しながらも、明日には裏切るかもしれない弱さをもった者と知りつつも、その者をわたしの愛する弟子だ、と信じて、大切なお働きのためにお用いになられます。

 

皆さんが、教会のために、小さな働きや、大きな働き、目立った働き、目立たない働きをなさるときも、すべて、主によって、遣わされている働きであります。

 

あの日、主のお入り用と呼ばれたのは、子ろばでした。

でも、私たちも皆、このお方の弟子として、このお方に愛されている者として、みんな、主のお入り用の存在です。

 

世間が、お前など要らないと言うことがあっても、わたしはお前をお入り用と呼ぶ。

世の中の働きのためだけではなく、神のみ心を行うという大事業のために、わたしはお前をお入り用と呼ぶ。

 

高い馬の上からではなく、低い子ろばの上にまたがりつつ、イエス様はそうおっしゃるのです。

 

今日から新しい時間が始まります。

心新たにされましょう。祈りつつ、新しい日々へ遣わされていきましょう。

 

新しい時間が始まります。

でも、主の愛は、昔も、今も、そして、これからも変わりません。

 

主の弟子として、主の愛を、語り伝えるために、遣わされていきましょう。

 

 

                                  20091129日 礼拝にて

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