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ルカによる福音書316

 

  皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

谷はすべて埋められ、

山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに、

でこぼこの道は平らになり、

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」




『荒れ野に響く声』  

 

本日与えられましたルカ福音書3章のみことばは、わずか6節ですから、決して長いところではありません。

長いところではありませんが、声に出して読んだり、目で追って読んで行ったりしますと、なんだかしつこい文章です。ずいぶん前置きが長いためでしょう。

 

でも、読んでいる側が、長いなぁ、面倒くさいなぁと感じるのであれば、それをひと文字、ひと文字書いていった方は、もっと面倒くさかったことでありましょう。それでも、面倒くさがらずに、この文章をきちんと書いて残してくれました。のちのちの時代の人に、きちんとこれを読んでもらいたかったからであります。

いったい、何がこの文章を通して伝えられているのか、ご一緒に振り返ってまいりましょう。

 

長くて、まどろっこしい文章が続くところですが、この1節から6節を原文で読みますと、大きく分けると、わずか二つの文で構成されていることに気付きます。

主文は二つです。たった二つの文。たとえば、「昨日は雨が降った。だから、うちにいた。」というようなものです。わずか二つの文。ここでは、どんな文と、どんな文か。

 

ひとつ目は、神の言葉が降ったという文です。これが、最初の主文です。神の言葉が降ったということを言いたいがために、その言葉が降ったときの状況を長々と説明しているのが前半になります。

そして、ふたつ目は、そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行った、であります。日本語の翻訳は、文章を読みやすくするために、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、・・・洗礼を宣べ伝えた。としていますが、原文では、これこれの通り、ヨハネは、宣べ伝えながら、行った、であります。

 

ですから、今日の個所は、短くしてしまえば、≪神の言葉が降った。そこで、ヨハネは行った。≫となります。そう考えれば、簡単なことです。

 

神の言葉が自分に聞こえてきた・・・どういう状況か、聞こえたと言っても、夢の中で聞こえたのか、こうして礼拝を守っているときに、ハッと聞こえたのか、細かいことはわかりません。でも、ヨハネには神の言葉が聞こえた。いや、正確にいえば、神の言葉のほうが主語ですから、神の言葉がヨハネに降った。

 

キリスト者の皆さんも、ひょっとしたら、同じような経験をしたことがおありかもしれません。活字で書かれた聖書の言葉ですが、ある時、読んでいたら、ある言葉が、自分の目に飛び込んでくる。「ああ、この言葉は、今のわたしにぴったりだ」とか、「この言葉はわたしのために書かれたものみたいだ」とか・・・。まさに、神の言葉が降ってくる、と思えるような体験をなさったことがあるかもしれません。

 

聖書を読んでいるときだけではないでしょう。何かをしているとき、あるいは、何かが自分の身に起こったとき。

そういうときに、ハッと礼拝のときに聞いたあの言葉が浮かんでくる。

 

日本語でも、ことだまという言い方をしますが、まさに、聖書は、生きた言葉が綴られています。生きて働かれる神さまの言葉ですから、聖書の言葉は、私たちの思いを超えた形で、働きかけることがあるのです。

 

いまからおよそ2000年ほど前、ザカリアの子ヨハネに神の言葉が降りました。そのことを告げるのに、ルカは、ときの政治指導者と宗教指導者たちの名前を書き連ねました。本当にごくろうさまだったと思います。面倒だったことでしょう。

でも、ルカはこれを書かずにおれませんでした。労を厭いませんでした。

 

今も昔もそうですが、社会的な指導者たちは、良い暮らしをしています。どんなに民主党と名乗って、民が主だと言っても、政治家の暮らしは、庶民とは違います。私たちの何倍、何十倍の財産をだいたいの方々が手にしていらっしゃる。そういうものです。

それでも、できるだけ、良い政治をしてほしいと願います。

 

ルカはそういった、ときの指導者たち、政治家だけでなく、宗教指導者の名前まで紹介しました。

そういう面々が民を掌握していた、国を動かしていた、時代を動かしていた、・・。

でも、彼らのもとに、神の言葉は降らなかった。安全な暮らしをしている彼らのもとにではなく、荒れ野にいたヨハネのもとに、神の言葉は降った。

ルカ福音書3章は、まず、それを伝えています。

 

この荒れ野と訳されている言葉、聖書の別のところでは、違う訳し方がなされています。それは、「人里離れたところ」という表現です。教会生活の長い方は、「人里離れたところ」と聞くと、ああっ、と思い出されることでしょう。

イエス・キリストが、しばしば休息なさるために、あるいは、みんなから離れてひとり祈られるときに、赴かれた場所が、「人里離れたところ」でありました。

 

あの「人里離れたところ」と訳された言葉と、荒れ野と訳された言葉は、原文では同じ単語です。ギリシャ語で、エレーモスという単語。≪人に捨てられた場所≫といった意味があります。ただ、草木も生えないという感じよりも、≪人に見捨てられた場所≫、≪人が近寄りもしない場所≫といった言葉です。

 

そう考えますと、主イエスがしばしば人里離れたところに行かれたことは、やっぱりただの休憩ではなくて、父なる神のみことばを聞くためのものであったと教えられます。

 

あるいはその荒れ野という言葉で、思い出されるのは、イエスが悪魔の誘惑にあわれた場所です。

聖霊は、イエスを荒れ野に送り出して、悪魔の誘惑にさらされました(マルコ1章)。

それは大変なことだな、という印象を与えます。人が近寄りもしない荒れ野。そこに放り込まれて、悪魔の誘惑にあわれた。泣きっ面に蜂、というか、つらい状況が重なっているように聞こえます。

でも、これは、別の角度で言えば、その荒れ野・・・エレーモスだからこそ、父なる神の言葉が降る場所であった、とも言えます。

実際、イエスは、サタンの誘惑を受けたとき、み言葉をもって、立ち向かわれました。何を言われても、聖書にはこう書いてある!と言って、誘惑を退けられました。

 

私たち自身は、いつも、どんなところに身を置いているでしょうか。どんなふうに時間を過ごしているでしょうか。まず、神の言葉が聞こえるような状態にしよう、と考えているでしょうか。神の言葉が降りやすい状況、神の言葉が聞こえやすい状況を作る努力をしているでしょうか。

 

この世における安全ばかりを求めたり、人の思いが出すぎる状況を作ると、神の言葉が降ろうにも降らなくなってしまうかもしれない。

神の言葉は、荒れ野にいるヨハネに降った。これが最初に考えるべきことであります。

 

さて、二つ目の文は、≪そこで、ヨハネは行った≫であります。神の言葉が降ったから、ヨハネは行った。・・・反対の角度で言えば、神の言葉が、ヨハネを送りだした、駆り立てた、と読むこともできるでしょう。

 

いま、神の言葉を受けた一人の男がやってきた。神の言葉を携えて、やって来た。その名もヨハネだ、と。しかし、彼は、主役ではありません。彼は、主役を紹介するために、いわば、前座として登場した人です。

 

そのひと言目は、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。でした。

主の道を整え、というところに注目したいと思います。整え、と訳されていますが、以前の口語訳聖書では、主の道を備えよ、と訳されていました。いくつかの翻訳を読み比べても、備えてとか、用意して、とか、準備して、と訳されているものが多いです。

 

これは、イエス様が、弟子たちに語られた言葉を思い出していただくと、いちばんわかりやすい。イエス様は最後の晩餐の席上で、弟子たちにおっしゃいました。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしは迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネ1423

あの、「用意する」という単語です。

 

その時に備えて、準備する。用意する。今の私たちならば、クリスマスに向けて、色々準備します。それと同じです。

 

道を用意しておきなさい、主が来られるから、きちんと通れる道を準備しておきなさい、整えておきなさい、ということです。

 

さあ、これも、今の私たちに問いかけています。

あなたは、準備しているか。

主が、あなたのところに入って来られるための道を整えているか。用意しているか。

主はいつでも、あなたのところに行こうとしておられる。でも、あなたのほうは、受け入れる準備ができているか、と。

 

できているか、という問いかけであり、用意しなさい、主をお迎えする準備をしておきなさい、という招きであります。

 

主をお迎えするとはどういうことか。自分の心が、かたくなであったり、恨みや、憎しみばかりが宿っていたりするなら、それは、主をお迎えするでこぼこです。主が来たくても来られない。

だから、道を通しておけ、この救いの主、神のみ子があなたの心に宿るように、道を整えておきなさい、と語りかけております。

 

待降節は、文字通り、神のみ子イエス・キリストが降りて来られるのを待つ期節です。ただ単に、24日、25日のクリスマスという祭りを待つのではなく、わたしの心に主をお迎えするための準備の期節です。準備をして待つのです。

 

しかし、それは言いかえれば、神さまが、待っておられる季節とも言えるのではないでしょうか。私たちが主をお迎えする道を通すのを、主が待っておられるとき・・・。

 

それはいつでもそうでしょう。立ち帰れ、立ち帰れ。と。

すぐに、神さまに背を向けて、あらぬ方向へさまよい出でていく私たちを待っておられるのが、父なる神さま。放蕩息子が帰ってくるのを、今か、今かと待っておられる父なる神さま。・・・待降節は、私たちのことを心痛めながら、待っておられる主を思い起こす期節でもあるのです。

 

道はできたか。

「ハイ、できました」と誰が言えるでしょうか。誰も言えません。

 

だから、イエス様は来られました。わたしが道であると宣言してくださいました。私たちが素直に道を通すことができないから、ならば、わたしが道となって、父なる神と、あなたがたを結ぶ橋わたしになろうと言って、その身を献げてくださいました。

 

そこに私たちの救いがあります。私たちはみな、その救いを見た者です。

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。その言葉の通りです。

 

このあと、礼拝の終りの方で、ヌンク・ディミティスを歌います。「今、わたしは主の救いを見ました♪」と歌います。

イエス・キリストが、わたしのために降りてきてくださった、神の言葉となって、来てくださった、そして、私たちのために道となってくださった、そのゆえに、「私たちは、主の救いを見ました」と歌い、たたえることができます。

 

いま、私たちのもとにも、神の言葉は降りました。

ヨハネは、そこで、行きました。

私たちもまた、この言葉を携えて、行くのです。神の言葉、救いの言葉、慰めの言葉を必要としている人のところへ、遣わされて行くのです。

 

いま、この時代にも、神の言葉がすべての人のもとに降るように、共に祈り続けましょう。

 

 

                                2009126日 礼拝にて

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