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ルカによる福音書12638

 

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 

          

『天使の御告げ』

 

 今日、みなさんは、それぞれのおうちを出て、この教会に向かい、そして、礼拝堂に入って来られました。ひとつの場所を出て、そして、この礼拝堂に入って来られました。

 

どこどこを出て、どこどこへ行く・・・よくある動作です。一日のうち、数えたら、いったい、それを、何回、何十回繰り返すでしょうか。

あそこへ行くために、今、ここを離れる。ここを離れて、どこどこへ行く。その中へ入る。そして、また出ていく。元の場所へ戻る。

 

聖書を読んでおりましても、実に多く繰り返されている動作です。

イエス・キリストは、天から来られて、この地上に降りて来られました。そして、民衆の中へ。ベツレヘムの町へ、ナザレへ、カファルナウムへ、舟に乗ってガリラヤ湖の反対岸へ、またこちら側へ、異邦人の村へ、人里離れた場所へ、そして、エルサレムへ。そして、また、ガリラヤへ、そして、天へ。

 

どこどこから、どこどこへ。主イエスの旅路を綴った福音書には、出ていく、入っていく、という単語が、しばしば出てきます。

 

今日の個所、やはり、入って来て、出て行った、という表現がありました。それは、天使の動きです。

今日の個所は、六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。と言って始まります。どこからどこへ、・・・まず、ひとつ目の動き、それは、天使ガブリエルのもとからナザレというガリラヤの町へ、しかも、ヨセフのいいなずけであるおとめマリアのもとへ、という動きであります。

天使ガブリエルは、神のもとから出てきて、そして、マリアのもとに来ました。

 

それだけではありません。彼は、入って行きました。マリアのところに入って来ました。

新共同訳聖書は、天使は、彼女のところに来て言った。と訳しています。それほどこだわらなかったようですが、天使は、彼女のところに来てというのは、言葉にこだわると、彼女のところに≪入って≫来て、となります。

それで、「彼女の≪家に≫入って来て、」と補って訳しているものもありますし、ストレートに、「天使は、彼女のところに入って来て、」と訳しているものもあります。

 

神さまからのメッセージを携えて、天からやって来た天使ガブリエル。天からやってくると、マリアの中に入って来たのです。

 

わたしは、それは、あの日の天使ガブリエルマリアの関係だけではない、と思います。

こうして、礼拝を守っておられる皆さんのもとに、みなさんの中にも、天からのものが入っていくのだと思います。

 

ときおり、皆さんの口から、「今日のみことばはスーッと入ってきました」というご感想をうかがえることがあります。ああ、嬉しいな、と思います。説教者としては、よかった、と思える感想です。皆さんの中に、神の言葉が入って行く。それを味わえるのなら、これにまさるものはありません。

 

皆さんが家を出て、この礼拝堂に入って来られる。それは、自分の中に、みことばが入ってきてもらうためと言っても、過言ではないでしょう。

そのことを祈り求める者のうちには、み言葉が入って行くと、わたしは思います。

 

あの日、天使ガブリエルが、マリアのうちに入って行った、と表現されているように、み言葉が入って行く。

 

さて、しかし、その入ってくるみ言葉は、必ずしも口に甘いものとは限らないようです。むしろ、良薬は口に苦し、です。

 

現在、焼津礼拝堂で、水曜日の「聖書の学び」で、ヨハネの黙示録を学んでおります。少し前に学んだところで、面白い表現がありました。

神のみことばが書かれた巻物が示されると、天使がヨハネに向かって、その巻物を食べてしまえ。と命ずる。ヨハネは命ぜられるままに、それを食べてみた。すると、それは、口には蜜のように甘かったが、腹には苦かった。(黙示録10910)とあるのです。

 

パッと口にしてみたら、甘いけれども、腹の中に入ったら、苦くなってきた。

面白い表現です。これは、比喩です。

 

聖書の言葉を、ある時学んだ。信仰について学んだ。いや、学ぶだけでなく、信仰生活、教会生活を始めてみた。最初は、面白いと思った。でも、少しずつ時間がたってみると、苦くなってきた。・・・でも、だから、すぐに吐き出すともったいないでしょうね。

良薬は苦いのです。口に甘くても、腹に入って苦くなってくることもある。そういうこともあるでしょう。

 

この日、マリアに届けられたみ言葉も、すぐにパクッと食べてみることのできるものではありませんでした。

その言葉に、戸惑い、何のことかと考え込んだ。さらに、「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と問い返したほどです。

 

自分の中に入ってくる神の言葉、それは、容易には受け入れられないものがあります。いくら伝道しても、クリスチャンがすぐには増えないのも無理ありません。神の言葉は、そう簡単に、アーメンと言って受け止められるものではないのです。

 

でも、私たちは知っております。ひとたび、それを受け止めたなら、自分の中に入れて、おなかの中に入れて、受けて入れてみたならば、それは、なんと大きな力となるか、私たちを助け、支え、何が起きても、顔をあげて生きていける力となることか。

そういう力となって行きます。

 

神の言葉だけではないでしょう。自分の身に起こる出来事。それもまた、容易に受け入れることのできないことが多いものです。

 

あるとき、思いもかけない出来事が、自分の身に起こります。≪自分の中に入ってくる≫と言ってもいいでしょう。

自分の生活の中に、自分の時間の中に、喜ばしくない出来事が入ってくる。そういうとき、キリスト者でない人でも言います。「神さまは、どうして、このようなことをわたしにするのですか、わたしが何か悪い事でもしたのですか」と。

神さまが自分の中に入って来ているのだと分かっているのです。感じているのです。

 

けれども、それは、喜ばしいことだと天使は言います。あなたは選ばれたのだ、と。神さまが、さて、誰のもとに行って、誰の時間の中に入って、このわたしの計画をなそうかと、天からご覧になる。そして、この人だ、と。この人のもとで、この人を通して、わたしの計画をなそう、と。

「そのために、あなたは選ばれし者だ、おめでとう、受け入れなさい」と伝えます。

 

そして、それはただ入ってくるだけではありません。実は、その時、神さまはあなたを包む。と約束しています。

戸惑うマリアに向かって、天使は言いました。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」

 

神さまのみ言葉、神さまの出来事が私たちの中に入ってくる、それは同時に、私たちを包むことです。この「包む」と表現されている言葉は、しばしば、≪雲が覆う≫≪雲に覆われる≫というときに使われる表現です。

地上にいる私たちの上を、空が覆っています。この空を雲がいっぱいに覆うことがあります。太陽の光が入り込むこともできないくらいに、覆われることがあります。

その表現です。

 

太陽がふさがれて、雲が覆う、と言うと、ちょっと暗いイメージかもしれませんが、聖書では、雲は大事なのです。暗いイメージではなくて、真っ白い雲は、神の臨在を現しております。聖書の民は、雲が出ると、神さまが共におられる、と受け止められてきました。

 

ほかの一切のものがあなたのもとに迫ろうとしても、神さまがあなたを覆うから、雲のように包むから、あなたは守られる、という約束なのです。

 

その言葉を聞くと、マリアは受け入れました。いや、受け入れたと言うほどではなかったかもしれない。

神さまが、そのようにお望みになるなら、わたしはお任せします、と身をゆだねた、と言う方がふさわしいでしょう。

もちろん身をゆだねて、あとは知りません、と言うことではなく、身をゆだねたからには、この身に起こることを背負っていきます、ということでありました。

 

そして、天使の御告げの通り、マリアのからだの中に、神の言葉が入りました。神の出来事が、彼女のからだの中に、文字通り、彼女のからだの中に、神の言葉、神の出来事が、入ってきました。彼女の胎内に、ひとりの男の子が宿ったのです。

彼女の中に入って来たのです。天から!

 

でも、たたえられるのは、マリアではありません。

このように、降りて来て、入って来てくださる神さまのみわざこそ、たたえられるべきものです。

 

なぜなら、皆さんの中にも、神さまの言葉は、神さまのみわざは、そして、救い主イエス様は、入って来られるからです。

マリアの胎にイエス様が宿った出来事。これが、クリスマスの序章でした。すべての人をお救いになるという、神さまの大いなるわざの始まりでした。

 

それは、私たちの毎日にも起こっています。いつも起こっています。

今日、ここでも、それはすでに行われています。

 

主は、皆さんのところに来られる。あなたを救うために、あなたを包むために、どんなことからもあなたを守るために、主は、来られる。あなたの中に。

 

その時、私たちは、天使ガブリエルの御告げを、自分への御告げとして聞くことができます。

天使は、あの日、マリアに言いました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 

そして、今日、天使ガブリエルはあなたに言います。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

 

そのお言葉どおり、この身に成りますように。と祈りたいものです。

また、大切な隣人たちの身にも、神の救いのみわざが成りますように、とご一緒に祈り続けていきたいと思います。

 

 

                                  20091213日 礼拝にて


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