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 ルカによる福音書2120

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

  その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

  「いと高きところには栄光、神にあれ、

   地には平和、御心に適う人にあれ。」

  天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 

『讃美が鳴り響く時』 

 

 

 毎年、クリスマスになりますと、ルカによる福音書を読みます。ほかにも、クリスマスにまつわる聖書のみ言葉は、いくつもありますが、やはりもっとも親しまれているのは、先ほど岡村神学生にお読みいただきましたルカ福音書2章です。

世界中のキリスト教会、いくつあるのでしょうか。おそらく、マクドナルドやケンタッキーに負けないくらい、世界各地に教会がありますが、そのすべての教会で、今日を含めて、この一ヶ月くらいの間に、このルカ福音書2章のみ言葉は、いったい、どれくらい朗読されているのか、どれくらいの人の耳に聞かされているのか。しかも、この文書が記されたのは、今から1900年以上も前のことです。この1900年以上もの間、このルカ福音書2章が、いったい、どれほど多くの人の耳に届けられてきたのか。天文学的な数字になろうと思います。

 

 そのように読まれ続けてきたみ言葉であるために、ここに登場するローマ皇帝アウグストゥスという名前もまた、そのたびに、読まれてきました。彼は決して、クリスチャンでも何でもないわけですが、彼の名前は、教会の中で親しまれてきた、と表現してもいいくらいです。

 

 歴史に詳しい方にとっては、彼の名前は、オクタビアヌスと言った方がピンと来ることでしょう。本名はそちらです。アウグストゥスというのは、荘厳なる者などと訳されますが、畏れ多いお方ということでつけられた称号でした。そのような称号をつけられるほど、彼は名君であったと言われます。ローマの平和と呼ばれる時期の基礎を築いたとも言われます。

 

今、ここにおられる皆さんは、例えば、今、ものすごく満足して、日々を暮らしておられるでしょうか。現在の政治に感謝しておられるでしょうか。

政治家の方々が決めること、そこでなされる政策、失業率の問題、税金の問題、少子高齢化の問題、社会福祉の問題、挙げていけばきりがないでしょうけれども、そういった事ごとを思い浮かべたとき、今は平和でいい時代だ、と言えるでしょうか。

 

 アウグストゥスがローマ帝国を治めていたとき、それは、ローマの平和と呼ばれる時代でした。国民が幸せだった。皇帝オクタビアヌスに対して、荘厳なる者、アウグストゥスと称号を与えるほど、尊敬と感謝の念を持った。日本では、そういった政治家の方に治めてもらうという時期はめったにないから、ピンと来ないかもしれません。

 

 いずれにせよ、ルカ福音書2章を読み始めると、まず、皇帝アウグストゥスの名前が出てくる。そして、彼が、全領土の住民に対して、登録をするようにと勅令を出した、と。いわゆる人口調査と呼ばれます。今の私たちでいえば、国勢調査に似ているかもしれません。

 

当時のローマは、今では考えられないほどの国土を占領地としていましたから、その調査も馬鹿にならなかったようです。一説によると、その調査を終えるのに四十年ほど費やしたとまで言われます。それくらいしないとおさまらないような領土、そして国民を束ねていたのがローマ帝国でした。

 

 そのような時代に、非占領民であるユダヤ人の一組の夫婦。巨大なローマ帝国の中の、どこにでもいそうな若い夫婦。大海に浮かぶ小舟のような二人にスポットが当てられます。

 

そして、この夫婦の間に生まれた一人の赤子。その赤子について、聖書は記します。

何を記しているかと言えば、本当の王様はアウグストゥスではなく、この赤子だよと。本当に、あなたに平和をもたらすのは、アウグストゥスではなく、この赤子だよと。あなたが、王様万歳と言ってあがめ、たたえるべきは、アウグストクスではなく、この赤子だよ、と聖書は記します。

 

 皇帝の命(めい)による人口調査のただなかで、ごった返す町。

ローマ皇帝とは対照的に、誰からも見向きもされない一組の夫婦のもと、馬小屋で、お産婆さんもいない中で、ひっそりと産声をあげた一人の赤ん坊。

 

この赤ん坊が、あなたを救う神のみ子、あなたの命をつかんでいる救い主、あなたがほめたたえるべきまことの王様・・・ルカ福音書は、そのことをとてもつつましく語っています。

本当は、拡声器でも使って、大声で叫びたい、今ならさしずめ、テレビのいちばんいい時間帯を使って、放送して呼びかけたい。みんなに、大声で伝えたい。爆発しそうなくらいの気持ちを持っている。

 

でも、伝えようとしているこのお方自身が、そんなふうに、自己宣伝をなさらなかったことをルカは知っています。イエス・キリストというこのお方が、革命を起こして、自分自身が政治のトップに出るようなこともなさらなかった。実に、ひっそりと、救い主としてのご生涯を送られた。それを知っているから、ルカも、このお方のことを、ひっそりと、綴ったように思えてなりません。

 

聖書は、このひそやかに生まれた赤ん坊を、全人類の救い主と記します。

全人類の救い主という言い方は、相応しくないかもしれない。

あなたの救い主。わたしの救い主。

ものすごく分かりやすいところでいえば、あなたが死んだとき、あなたをきちんと天国に導いてくれる方。それが、この赤ん坊ですよ、と聖書は伝えます。

 

その手で、あなたをしっかり抱きかかえ、支え、守ってくださる、救ってくれるのは、このイエスというお方ですよ、と語る。

 

≪この手でつかむ≫という言い方があります。何か目指すべきものがある。あの何かをこの手でつかむまで、と言います。

自分の手の中に収めたい、自分の手の上に載せたい。手の中に収める程度にしておきたい。人間関係の中でもよく起こります。あの人を手中に収めたい。あの人を手に入れたい。

自分の人生も、自分の思い通りに、進めたい、自分の人生、自分の時間も、きちんと把握しておきたいと願う。

 

これは、面白いことです。「手の中に」というのは面白いことです。だって、体の中で、手はごく一部です。もちろん、それは、言葉の上のことかもしれません。手というのは、象徴的に使われているでしょう。

でも、私たちは、本当のところ、自分の手の上に載せておきたい、この手で収めたい、と願っている。いろいろなことを。・・・自分のいのちまでも。自分の手よりも大きい自分のいのちを、自分の手でしっかりつかんでいたいと思っている。

 

アウグストゥスがしようとしたことも、まさにその手につかむことでした。国民をきちんと掌握する。掌握という言葉もそのものずばりです。掌に握ると書いて、掌握。

アウグストゥスは、膨れ上がった国を、自らの手で治めるため、掌握しておきたかった。だから、人口調査をする。どこに、どの人がいるか、誰がどのくらい土地を持っているか。税金の関係もあったでしょうけれども、自分の手の上に載せたかったのです。

これは、ローマ皇帝アウグストゥスだけのことではありません。私たちだれもの心にあります。

 

 でも、手は小さいです。私たちの手は小さいです。見てください。体の中の、ほんの一部です。私たちの力の小ささを、この手の小ささが物語っています。

 

 しかし、その小さな手が、ものすごい力強さを発揮することがあります。

 それは、この手が、誰かを支えるときです。自分ではなく、誰かを支えようとするとき、この弱くて、小さな手が、暖かくて、頼りがいのある手になります。

 

 あの夜、身重のマリアは、産婆さんもいない中で、初めての子供を出産しました。

そばにいたのは、夫のヨセフだけです。マリアにとって、そばにいて、ただ手を握ってくれていたヨセフの手は、どんなに頼りになったでしょうか。 その手は、全国民を掌握しようとするアウグストゥスの手よりも、ずっと温かくて、ずっと力強かったのではないでしょうか。

 

 人の心を強くするのは、人の命を救うのは、この世の力ではありません。

心からわたしのことを気にかけて、そばにいて、しっかり握ってくれる人の手。その手から伝わるぬくもり。それが、わたしを、支えてくれる。

 そのことを、体いっぱいに感じている若い二人の間に、神のみ子イエスは生まれました。

 

 全人類のための救い主、神の子なのだから、ローマ皇帝を凌ぐような、もっと大きな、もっと豪勢な姿を持って、生まれるのが、ふさわしいと私たちは思うかもしれない。

 

 でも、神さまは、何が人を救うのか、知っていらっしゃる。天の神さまは、私たちにいちばん必要なものが何かを知っていらっしゃる。

それは、この世の成功ではない。安定した暮らしでもない。出世でもない。権力でもない。

 人を救うのは、わたしのことをこんなに心にかけてくれていると実感できる愛情だと、神さまは知っていらっしゃるのです。

あの夜、あの2000年ほど前の夜、神のみ子は、皇帝アウグストゥスの子として生まれていたならば、安泰だったかもしれない。立派な王宮で、一流の産婆さんのもとで生まれたかもしれない。きっと、この世の価値観は迷うことなく、そちらに傾きます。

 

でも神さまのまなざしは、違う。

救いは、そのようにしてもたらされるものではない。人を救うものは、世間に騒がれるような形ではない。そうではなく、誰にも気づかれないような、その本人にしか分からないような、ああ、あの人がわたしに手を差し伸べてくれた、と、その人だけにしか分からないような、その愛に触れた人にしか分からない、そのようなぬくもりが、人を本当に支えます。

 だから、イエス・キリストは、静かに生まれたのです。誰にも知られず生まれたのです。

 

 孤独の中で、夜通し羊の晩をしている羊飼い、誰にも知られず、夜通し起きて羊を世話していた彼らが、クリスマスの第一発見者となったというのも、実に象徴的です。

泥まみれのまま、羊たちの世話をしている彼らが駆けつけてきてくれたことも、クリスマスにもたらされた神様のぬくもりを、そのまま表すものでした。

 

 クリスマスのぬくもりは、私たちも互いに届けることができます。

皆さんの小さな手を、誰かを支えるために用いればいいのです。ちいさなことでいい。ちょうど、このろうそくの光のように、ひっそりと、灯っているだけでいい。

 その小さなぬくもりが、となりの人に届くとき、世界は変わります。本当に変わります。それは、ローマ帝国よりも、もっと偉大な世界を作ります。

 

 英国の詩人ミルトンの『失楽園』という劇詩において、このクリスマスのとき、「天がどよめいた」と書かれていることはよく知られています。

 どよめいたのは、天であって、地上では、ありません。

 

静かな優しさ、あなたの隣にいる人のぬくもり、人知れず差し出される愛の手、それに対して、地上ではどよめきは起こりません。

それを受けた人だけが知っている。いや、受けた人すら知らずに終わるような、見えない愛がある。でも、その時、天ではどよめきが起こっている。

 

 あの日、町の片隅で、誰にも知られずに、イエス・キリストが生まれたように、今夜、私たちの心の中にも、愛が宿ることを祈りましょう。小さな赤子のイエス様が、救いをもたらしたように、私たちの小さな手が、この世界に、小さな優しさや愛をもたらしていくように。

 

 その時、あの日、天使たちが歌ったように、きっと、天の上では、大きな讃美が鳴り響きます。 その歌ごえを、心の耳でしっかり聞きたいものです。

 神のみ子、救い主、イエス様は、生まれました。

私たちみんなを救うために、大きな愛を携えて、救い主は、お生まれになりました。

今日、あなたのために生まれました。感謝しつつ、共に祈りたいと思います。

 

 

20091224日 藤枝礼拝堂キャンド礼拝にて

 

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