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ルカによる福音書122234

 

  それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 

『私たちの心はどこに』 

 

 

 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

キリスト者の皆さんにとっては、わりと耳慣れた言葉であろうかと思います。何度聞いても、なかなか考えさせられる言葉でもあります。

この朝は、まず、その後半のところ、あなたがたの心もあるのだ。という部分を考えてみたいと思います。あなたがたの心がある。いったい、どこに?

 

いま、皆さんの心は、どこにあるでしょうか。これこれの所に、あなたがたの心もあるのだと主イエスはおっしゃったけれども、いま、皆さんの心はどこにあるでしょうか。

 

受験を控える学生さんならば、いまは、受験のことで頭はいっぱいでしょう。

まもなく結婚する方ならば、やはりそのことが心の中にあるでしょう。

住宅ローンのことで、もう頭がいっぱいという方もあるかもしれないし、今の仕事を続けていいのだろうか、思いきって転職してみようか、というような、人生の大きなターニングポイントに立っておられる方もおられるかもしれない。

いや、そんな大きなところには立っていないけれども、今日、家を出るとき、ガスの元栓をちゃんと閉めただろうか、ということで心がいっぱいの方もいらっしゃるかもしれませんし、駐車禁止のところに停めた車が、おまわりさんにチェックされていないだろうか、と心配なときもあるでしょう。

 

いま、あなたの心はどこにあるか。

2010年の元旦の朝に、私たちはこれを神さまから問われております。

 

そして、おそらく、いま、自分の心がどこに向けられているだろうか、と考えたときに、それは、おおよそ心配事であろうかと思います。

礼拝のあとに何を食べようかな、という身近なことから、受験や、会社の運営や、転職、はたまた世界でやむことのない戦争やテロ活動に至るまで、心の内にあるのは、それが心配である、ということであろうと思います。

 

そして、その心配なことで、心がふさぐ私たちに向かって、主イエスは、思い悩むなと繰り返しお語りになったのでした。

思い悩むな。思い煩うなと訳されることもあるし、心配するなと訳している人もいます。

ギリシャ語の本文では、メリムナオーという単語ですが、これの語源は、重荷というところにあります。心配事、思い悩んでいること、思い煩っていること・・・それらは、私たちの心に重荷となります。重い荷物です。ずっしりと。

 

クーシランタ先生がまだ日本におられたころに、はっきりと覚えてはいないのですが、何かフィンランドの言葉について、話を聞いておりました。

それは確か慰めるという言葉についてだったと思います。

その言葉の意味を説明するのに、クーシランタ先生は、身振り手振りで、「ここに人の心があります、そして、その上に荷物が載っています、だから、私たちは、その荷物をおろしてあげるのです」といった説明をしてくださいました。

そのフィンランドの言葉自体は何だったのかは、まったく覚えていないのですが、その説明だけはよく覚えています。そうして「荷物が載っていると、魂が苦しくなります。息ができなくなるのです。」といったことも話しておられました。

 

違う言語を学ぶと、物事について、こういった新しい見方ができるのが、楽しいところです。

 

いま、聖書の言語にも、それと同じところがあります。思い悩むな。とあるとき、そこには、重荷という言葉が絡み合っている。

私たちの心は、今どこにあるのか。どこを向いているから、その結果、心にどんな荷物が載ってしまっているのか。

私たちのことをよくご存じの主は、思い悩むな。と繰り返しおっしゃいました。

 

あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。この一節については、日本語の聖書や、英語の聖書や、調べられる限り、翻訳を見比べてみてください。たいへん興味深いことに気づきます。二つにきれいに分かれます。

一方は、この新共同訳のように、寿命をわずかでも延ばすことができようか。もう一方は、身長をわずかでも伸ばすことができようか、となっています。

 

どちらにも訳せる言葉です。どちらでとっても、意味深い言葉だと思います。とても当たり前なことなのですが、意味深い言葉です。

背丈のことで考えたら、それは、いくら何を言おうとも、あなたのからだの主人は、あなた自身ではないのだぞ、というみ言葉として聞こえます。

もしも、このからだの主人が自分自身ならば、背丈を伸ばすも、縮めるも自由です。でも、人間にはそれができないようになっている。

どういう体つきで生まれるのか、どういうふうに育つのか。もちろん、食べすぎたら太るとか、ダイエットして痩せるとか、そういうことはできるにしても、しかし、本質的に、自分のからだ、こういうサイズで、というのは、自分で決めたことではありません。自分でコントロールできるものではありません。

 

それどころか、自分が、男性であること、女性であること、どこの国の人であるか、どの時代に生まれ育つものであるか、自分がどの家族のもとで育てられるか、自分がどんな才能を与えられているか、・・・。どれも、自分では決められない。

自分のからだの主人は、自分ではありません。だから、身長をわずかでも延ばすこともできない。私たちは、この体の主人ではない。あえて言うなら、管理人です。一時期の管理人。この体と、この人生。本来の主人から、預かっているにすぎない。

 

あのぶどう園の主人と、農夫たちのたとえ話でもそうでした。ぶどう園の主人は、農夫たちではない。そこで雇われているにすぎない。そこを所有するものではない。

なんと当たり前のこと。しかし、なんと、忘れられやすいことでしょうか。

 

今日のみことば、あれこれ気をもむな、気に病むな、とおっしゃりながら、唯一、求めなさい、と主イエスが言われたのは、神の国を求めなさいという言葉でした。

いわば、この体の主人が何を求めるかを求めなさい、ということです。

たかが管理人の分際で、主人づらをしないで、主人の意向を常にうかがうことを忘れないようにしなさい。と。

 

この体の主人。この命の主人。いくら私たちが、主人づらをしても、本当の主人が、お前の人生はここまで、と言われれば、そこまで。おまえ自身は、わずかでも、その寿命を延ばすことができようか、と言われる。

 

そのことを忘れている私たちのことを、イエス様は、信仰の薄い者たちよ。とおっしゃいました。すぐに忘れる。神さまと自分の関係を。

 

でも、信仰のない者たちよ、とはおっしゃいませんでした。私たちには、信仰は与えられています。この体に、この人生に、この魂に、信仰の種はすでに蒔かれています。

ただ、その信仰の木がすくすく伸びるより先に、自分の願い求めることのほうが、いつも大きく顔を出す。それで、信仰の芽が伸び悩んでいる。木々の陰に隠れている。

 

信仰はないのではない。信仰の薄い者たち。わずかでも残っているその信仰に向かって、イエス様は、語りかけられる。あなたの心に、信仰が残っているから、聞こえるはずだ。わたしの呼びかけが聞こえるはずだ。と。

 

私たちの主人は、しかも、何者であるかと言えば、お父さんです。

30節のくだり、天の神さまは、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。と言ってもよかったのに、イエス様は、ここで、あなたがたのは、これらのものがあなたに必要なことをご存じである。とおっしゃいました。

 

あなたのからだの主人は、あなたのお父さん。天のお父さん。

あのお方は、この地上をお造りになった。私たちを覆う天を、宇宙をお造りになったあの神さまは、あなたのお父さん。あなたは、あの天地万物の造り主である神さまの子供・・・忘れていないか。

 

私たちは、自分の親や、自分の友人や、自分の恩師などが、尊敬に値する人である時、それが自分自身の誇りにもなります。あなたの尊敬する人は誰ですか、と聞かれて、とても近い人をあげることができたら、それはとても幸せなことです。その尊敬できる人と、自分が、とても近い関係なのだ、ということが、自分に自信をつけさせてくれます。

 

聖書を読む皆さんは、知っている。あなたのお父さんは、この世界を造られたお方。なんでもできるお方。あなたのお父さんは、この宇宙よりも広い心で、どんな人の、どんな罪をも赦してくださるお方。どんな人のことをも愛してくださるお方。

 

こんな素晴らしいお方が、あなたのお父さん。そして、こんな素晴らしいお方の、あなたは子ども。あの宇宙よりも、太陽よりも、この世界の山や海よりも大きな神さまは、あなたを子どもとして、大切に思っていらっしゃる。あのお方こそ、あなたのお父さん。

 

イエス様は、そのような思いを込めて、あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。と言われたのです。

 

さて、もうひとつ、興味深い表現が後半にもありました。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。というところ。

ここも翻訳を読み比べると、いくつか、原文通りに訳しています。原文通りだとどうなるか。あなたがたの父は、あなたがたに国を賜ることを、もう決めた。となっています。

 

もう決められたのです。この世的に言うと、あの土地の権利書に、もう名義人として、あなたの名前を書いて、ハンコを押してしまった、ということです。

あなたの父である神さまは、神の国という土地の名義人に、あなたの名前をもう書いてしまった。ご自分の跡継ぎとして。だから、何も心配するな。この世のことで、絶望するな。とおっしゃってくださったのです。

 

そのことを信じているならば、そこに、あなたの心があるならば、思い悩まなくてもいいだろう。とイエス様は、おっしゃる。

 

もちろん、人間ですから、この生身の体と、生身の心を携えて生きているものですから、私たちは、思い悩みます。悩んで、悩んで大きくなるとも言われます。

でも、その悩みが、私たちを包んでいるのではない。その悩みの中にある私たちを、さらに大きな御手で包んでおられるお父さんがいることを忘れてはならない、と今日のみことばは、語りかけております。

 

2010年の元旦、また、新しい気持ちで生きて行く朝が与えられました。

この年をどう生きて行くか。もちろん各自で考えてください。色々な計画も持ってください。

でも、この新しい年の主人も、私たちではなく、父なる神様です。これもまた、主なる神様の年です。

主なる神さまのみ心を求め続ける一年を過ごしたい、と思うものです。

 

    201011日 新年礼拝にて

 

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