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マタイによる福音書2112

 

 

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

  『ユダの地、ベツレヘムよ、

  お前はユダの指導者たちの中で

  決していちばん小さいものではない。

  お前から指導者が現れ、

  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



『星の光に導かれ』 ☆ ☆ ☆

 

 

2010年の13日。いわゆる三が日でありまして、まだ世の中は始動していないと申し上げてよろしいでしょう。多くの仕事も、明日から始まります。学校などは、もうちょっとあとになりましょう。お正月三が日は、まだ多くの人がゆっくりしている期間です。

 

その13日に、皆さんはこうして、おうちを出て礼拝に来られました。

素晴らしいことです。神さまから特別な恵みを受けた方々、と呼んでもあながち間違ってはいないとわたしは思います。

三が日であれ、何であれ、今日は日曜日。主の日です。主がもうけられた安息日です。まず、礼拝を守る。この基本が守られている生活は、何よりも祝福された生活です。

2010年の最初の主日に来られた皆さんは、この一年を通して、その姿勢を貫いていていただきたいと願うものです。

 

さて、本日与えられましたマタイ福音書2章のみことばには、お正月三が日どころではない、イエス・キリストを礼拝するために、東の方から、はるばる旅を続けてきた人たちの話が記されていました。

≪三人の博士たち≫として親しまれています。羊飼いたちと並んで、クリスマスの聖誕劇に欠かせない登場人物たちです。聖書には三人とは書かれていませんが、最後のところで、黄金、乳香、没薬という三つを献げたとありますから、おそらく三人いたのであろうとされております。

 

クリスマスの夜の礼拝では、ルカ福音書を読みました。ローマ皇帝アウグストゥスの時代に、という書き方がなされているところです。マタイ福音書を読むと、ユダヤの王、ヘロデの名前が出ています。両者比べると、より大きなスケールで描いたのは、ルカ福音書のほうと言えます。当時の世界を治めていたローマ皇帝の名前をあげつつ、その時代にイエスはお生まれになった、と記したのですから。

 

マタイには、ローマ皇帝の名前は出ていない。けれども、こちらは別の意味で、世界大のスケールを伝えています。つまり、イエス・キリストの最初の礼拝者は、遠く離れた東の方の人たちだった、という点です。

 

ここで紹介されているイエスというお方、このお方は、ユダヤ人の王さまではない。

この赤ん坊は、ヘロデのように、ユダヤ地方の王様になるために生まれたのではない。

このお方は、全人類の王様としてお生まれになった。だから、そのお生まれの知らせを、天の上から星が示している。

遠い異国の地に住む人たちにも、偉大なる王がお生まれですよと、伝えようとして、天で星が指し示すほどのお方の誕生が、ここにある。

そのようにマタイは書き綴ったのです。

 

さらに、ルカ福音書と比較するときに、もうひとつ、違いを見出すことができます。

ルカ福音書では、「イエス」という名前が出ていませんでした。羊飼いたちに知らされたのは、ベツレヘムに行きなさい。そこで、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見つけるだろう。これがあなたがたへのしるしである、というみ告げでした。

 

ところが、マタイ福音書では、今日の個所の初めにきちんと「イエスは、・・・」と書かれています。

しかも、これは面白いのですが、正確に原文を訳すと、「そのイエスは、」とか、「このイエスは、」となっています。冠詞が付いている。英語で言えば、Theです。

 

どうしてかと言えば、この個所のすぐ前、1章の終りのところで、イエスのことがもうすでに紹介されているからです。イエスの父親となるヨセフへの御告げでした。ヨセフが寝ている間に、夢の中で天使が現われて、イエスの誕生を予告した場面。

あなたの婚約者のマリアは身ごもった。このマリアとの結婚を躊躇しているけれども、恐れることなく、マリアを迎え入れなさい。彼女のおなかに宿ったのは、神さまの子ども。その子をイエスと名付けなさい。この子は、自分の民を罪から救うからである。といったお告げを受けるところです。

 

そのお告げに従って、ヨセフはマリアを妻として迎え入れ、生まれた子供をイエスと名付けた。となっております。

 

そういう前置きがあって、今日のところが始まる。「そのイエスが、」と。

≪そのイエス≫が、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのころに、こうこう、こういうことがありました、と続いているわけです。

 

「そのイエスが、」という時に、≪どのイエスなのか≫を知っておいてもらいたかったのではないかと思えます。

 

それは、自分の民を罪から救うイエス、いつも共におられる神のしるしとしてのイエスです。・・・キリスト者にとっては、自明のことでしょう。聖書が私たちにもたらしてくれるもの。それは、この救い。このいやし。この慰め。この助け。

 

神さまは私たちの救い。私たちを救ってくださるお方。

どういう助け方か。どういう救い方か、と言えば、≪この≫救い方。≪このイエス≫による救い方。

 

あるいは、聖書には時に、正しさとか、正義とか、正の字をとって義とか、言います。私たちにもいろいろな正しさや、正義がありますが、神さまの正しさ、神さまの義は、ここにある。この正しさ。この正義。

 

さらに言えば、聖書は、私たちに平和を語る。どの平和か。

世の中では、平和への思いがそれぞれにある。平和のために、戦争をすることもあるのがこの世の価値観。でも、聖書は、どう語るか。神さまはどうお語りになるか。この平和だと。それがイエスだと。≪このイエス≫だと。≪このイエス≫が平和だと。

≪このイエス≫を抜きにして、平和も、正義も、救いも、慰めも、何も語れない。

 

そういう、≪このイエス≫がお生まれになった。神の独り子として、私たちの救い主として、≪このイエス≫がお生まれになった・・・。

こだわる必要はないのかもしれませんが、小さな冠詞がついたイエス、≪このイエス≫が生まれた、という表現には、計り知れないメッセージが込められている気がするのです。

 

そして、≪このイエス≫が生まれたことを知って、あなたは、≪このイエス≫を礼拝するか、それとも何かを守るために≪このイエス≫に背を向けて生きるか、どっちの道を選ぶか、と問いかけてくる。

 

≪このイエス≫の誕生の知らせを聞いたとき、ヘロデは、不安を抱いたと書かれています。不安を抱いた。「動揺した」という訳もあります。心の中が落ち着いていない。ひとところに収まっていない。不安な気持ち、動揺した気持ち、揺れている状態です。

 

ヘロデだけではない。エルサレムの人々も皆、同様であった。とあります。

彼らは、都エルサレムで、ある程度、平穏な暮らしをしておりました。ヘロデはかなり暴君であり、その意味では、完全なる平和とはいえなかったでしょうけれども、それでも、力ある権力者のもとで統率された、一種の安定はあるはずです。

 

ヘロデだけでなく、エルサレムの人々も動揺した、不安を抱いた。≪このイエス≫のお生まれを喜べなかった。いま持っているものを失いたくないとき、≪このイエス≫による救い、平和が逆に邪魔になってくる。そういう人の思いが描かれています。

 

皆さんが、神様に背を向けたくなる時も、きっと失いたくない何かがある時のはずです。

 

その対照的な姿として描かれていたのが、占星術の学者たちです。

彼らは、万難を排して、やってきました。このイエスのために、時間をかけました。エネルギーをかけました。そして、宝物をささげました。自分の大事なものをささげました。

 

ここが、ヘロデたちとのコントラストでしょう。

一説によると、彼らがささげた三つの品々は、単なる宝ではなく、彼らの商売道具だったとも言われます。

もしそういう解釈に立つならば、これは、あのシモン・ペトロたちが舟を捨てて、従っていった、ということにも通じる姿勢ということになります。

 

私たちは、何をいちばん捨てたがらないのでしょう。

いろいろあります。見えるものもあれば、見えないものもあります。プライドとか、みえませんけれども、捨てたくないものの筆頭かもしれません。

 

そこに見えてくるのが、罪です。そこで罪が見えてきます。

神さまの御手が差し伸べられたときに、その手に向けて、こちらの手を差し伸べられない自分に気づく。捨てられないものを知る。神に背を向けてでも、守りたいものがあることを知る。そこで、罪が見えてきます。これは大事な気付きです。

 

その大事なことに気付いたところで、もう一度、これは、≪どのイエス≫なのかを振り返る。

天使がヨセフに告げた言葉です。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 

イエス・キリストは、私たちをどこから救うかと言えば、この罪から救ってくださる。そのために、お生まれになったのです。

 

捨てきれないものを抱えつつ、かたくなに生きるほかない私たちがいる。そこに罪がある。だからこそ、このお方は生まれた。その罪から救うために。その罪を赦すために。

 

ヘロデは、この後、このイエスの存在が疎ましくなって、殺害命令まで出します。このイエスを亡き者にしようとまでしてしまう。

これは、このヘロデは、私たちの代表です。私たちは、この聖書の言葉を読むとき、どこにいるかと言えば、このヘロデと同じところに立っているのです。

 

もしそのことに気づいたならば、ひれ伏しに行くことの尊さを教えられます。全てを差し置いて、まず、このお方をひれ伏しに行く。

そのとき、自分の民を罪から救う、このイエスと出会うことができます。

 

あの日、そのような道へと、博士たちは星の光に導かれて進みました。

主のみ前にひれ伏す道を行くためには、導きが必要です。自力ではできないこと。だから、祈り続ける。

2009年度、栄光教会は、祈ることをテーマに歩んできました。祈る群れであることをテーマにしてきました。12月の役員会で、この同じテーマをもう一年続けようと話し合いました。良い方向が示されたと、わたしは思っております。

 

「主よ、この一年も、あなたの御前にひれ伏しつつ、歩むことができますように。迷いそうな私たちをどうか、憐れみ、導いてください。」と祈りつつ歩んで行きたいと思います。そうして祈る者を、主は豊かに祝福し、導いてくださるのですから。

 

                                  201013日 礼拝にて

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