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ルカによる福音書31522

 

 

  民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼(〔バプテスマ〕)を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(〔バプテスマ〕)をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じこめた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。

 

  民衆が皆洗礼(〔バプテスマ〕)を受け、イエスも洗礼(〔バプテスマ〕)を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 

 

 

 『イエスの洗礼』  

 

 

今日は、週報にも記してあります通り、主の洗礼日と呼ばれる日曜日であります。

その名のとおり、主イエスが洗礼を受けられた出来事を記念する日であります。

 

その出来事を、私たちは、毎年この時期に思い起こし、聖書のみことばを学んでおります。

今年は、ルカ福音書からこれを学ぶよう導かれております。

 

イエス・キリストの洗礼に関して、ルカ福音書は、たいへん特徴的な書き方をいたしました。

何が特徴的と言いまして、話の真ん中に、イエスの洗礼とはぜんぜん関係のない話が挿入されている点です。

19節に、ところで、と書かれています。

 

≪民衆に洗礼を呼び掛けていたヨハネがいた。そして、民衆が皆洗礼を受け、イエスも一緒に洗礼を受けになった。≫と進めればよいところを、ところで、といったん区切りまして、別の話を入り込ませる。

どんな話かと言えば、領主ヘロデが、違法な結婚によりヘロディアをめとったけれども、この件について、洗礼者ヨハネが口を挟んだものだから、ヘロデは怒って、ヨハネを牢入れてしまった・・・という話です。

 

この話は、実は、ルカだけが書いているものではありません。マルコにも、マタイにもあります。

でも、もっとずっとあとで出てくる話です。このイエス洗礼の話とは切り離して、紹介されます。

 

具体的には、ヘロディアの娘サロメというおとめが、妖艶な踊りを披露して、客を喜ばせて、褒美にヨハネの首をはねさせたという、歌曲や映画にもよく用いられる話です。

 

その話が、ルカ福音書では、イエスの洗礼の話の中に、ところで、といって差し挟まれている。いや、差し挟まれていると言うより、割り込んできている、と言った方がふさわしいくらいです。

 

この話が割り込んできて、そのあとに、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、と話がまた洗礼の場面に戻ります。

 

どうでしょう。

おかしな感じがしないでしょうか。

 

これは、教会生活の長い方には、あまり問題にされないかもしれない。なぜなら、教会生活の長い方々は、イエス様の洗礼と聞けば、無条件にそれはヨルダン川で、洗礼者ヨハネから授けられたもの、と図式されていると思うからです。

ですから、今日のルカ福音書を読んで行きながら、イエスはヨハネから洗礼を受けたのだろうと思って、ここを読んでいます。

 

でも、もしも、何の前知識もなく、この個所を読んでいたら、どうでしょう。

イエスが洗礼を受ける時には、洗礼者ヨハネはもうヘロデにつかまって、牢に入れられたあとのような印象を受けます。

もしも、何の知識もなく、ただこのルカ福音書3章を読んだら、イエスは誰から洗礼を受けたのか、はっきりしないままになりはしないでしょうか。少なくとも、ヨハネは、もうお役御免となっています。

 

どうやら、この書き方に、ルカの狙いがあったようです。

わざわざ≪ヘロデによってヨハネが逮捕されてしまった、牢屋に入れられてしまった≫という話を、ここに割り込ませたのは、イエスが誰から洗礼をお受けになったのか、ということに、それほどの関心がなかったためです。

 

では、ルカの関心はどこにあったのか。

ルカにとっては、だれが洗礼を授けたということよりも、イエスが洗礼を受けたということに関心がありました。

それも、民衆と一緒に。と一緒に、です。そこが、鍵であります。

 

ここで、ルカが用いた二つの言葉に、注意を払う必要があります。

ひとつめ。ルカは、まず、民衆という言葉を使いました。

これは、群衆とは違います。新約聖書を読んでおりますと、大勢の人たちを言い表すのに、群衆と言う時と、民衆と言う時があります。

 

群衆は、ある意味で、おおざっぱな、不特定多数です。

それに対して、民衆は、神に従う、神の民です。

 

ルーテル教会では、LAOS講座というものをもう数年前から始めました。栄光教会でも、毎年、修養会を開いて、少しずつ学びを続けております。

あのLAOSという言葉が、民衆です。神の民という言葉です。

ですから、いま、ここにお集まりのキリスト者の方々は皆、民衆です。LAOSです。群衆ではありません。

 

ルカは、このイエス洗礼の話を記すにあたって、初めから、民衆LAOSという言葉を用いて書きました。

 

これは、ただの群衆ではない。神を信じる民だから、この民衆はメシアを待ち望んでいる。神の救いを待ち望んでいる。ということを、出だしで綴っております。

この群れは、誰に、何を願ってよいのか、わからず、やみくもに騒いでいる群衆ではない。父なる神様に、救いを祈っている者たち、LAOSである!と伝えています。

 

さて、わたしは先ほど、注意を払うべき言葉が二つあると申し上げました。LAOS、これが、今日のルカ福音書で注意すべき単語のひとつ目。

もうひとつは、という言葉です。

 

出だしのところ、ヨハネがもしやメシアではないかと、心の中で考えていた。そこで、ヨハネはに向かって言った、云々と。

そして、結びのところ、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、と続きます。都合、三回、と言い表されている。

 

この民衆と呼ばれる者たちは、老いも若きも、女も男も、どんな民族の者であれ、社会的に高い地位の人も、そうでない人も皆、ひとり残らず、ということを言い表しています。

ルカは、この個所で、民衆、この二つの単語を意識的に使っているようです。

 

では、民衆皆が何なのでしょうか。

それは、イエスは、主イエスは、私たちと一緒に洗礼をお受けになり、そして、私たちのために、られた、ということです。

 

今日の個所、ヘロデの話を差し挟むことによって、イエスがだれから洗礼をお受けになったのか、はっきりしなくなりました。

でも、それだけではありません。周りの民衆も、イエスがどこにいたのか、わからなかったのではないか、と思えます。

 

たとえて言えば、皆さんが、長蛇の列を作るバーゲンセールに行かれる。あるいは、人気のあるレストランに行って並ぶ。その時、その列に誰がいるかなど、わかりません。

それと同じように、ちょうど、あのときも、ヨルダン川で洗礼を受ける時も、たくさんの民衆が並んでいました。その中に、その民衆のひとりのように、つまり、罪を告白する罪人のひとりのように、イエスさまも並んでおられた、ということです。

 

いや、こういう言い方もできるでしょう。

皆さんが、かつて洗礼をお受けになられたとき、その時も、イエス様が一緒に洗礼を受けておられたということです。

私たちが、「いいえ、牧師の手を通して、イエスさまが洗礼を授けてくださった」と思っているところで、実はそうではない。イエス様も、私たちと一緒にひざまずいて、よし、わが兄弟よ、わが姉妹よ、一緒に洗礼を受けようと言って、一緒に並ばれた。

そういう出来事として、これは、民衆皆に対するものであったと語られているのです。

 

最後に、イエスに向かって、天からあなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が響き渡りました。

 

その声も、キリストを信じる民、への言葉です。

洗礼を受けられたさん、お一人お一人が、このあなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声を、自分への言葉として聞くことができます。

 

これはへの言葉です。そこから漏れる者はひとりもいません。それが、福音です。

 

洗礼者ヨハネは、厳しさを持って語りました。

やがて、来られるお方は、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

きちんとしていないと、神の裁きの火によって焼き払われることになるぞ、と言いました。もちろん、それはそれで、大切な教えでした。そのことを聞いて、多くの人々が悔い改めて、イエス・キリストを迎えようとしました。

 

ヨハネの教えは、ある意味で、旧約聖書の教えです。厳しさがある。言ってみれば、完全なる救いの約束となりえていない。

 

そのヨハネの時代が終わった。そして、新しい時代が始まった。・・・そのことをルカは伝えようとしています。ヘロデの話を挿入しながら、ヨハネの時代はここで終わった、そして、新しい時代がここに始まった、と伝える。

それは、どんな時代か。・・・民衆皆と一緒にこうべを垂れて洗礼を受けるメシアの到来、ひとりの滅びも喜び給わない、謙遜の極みとも言うべきメシアの到来。それが、新しい時代。そのしるしとして、イエスの洗礼がここにあったと、伝えているのです。

 

このお方をメシアと信じる民衆、天からの声を聞くことができる。

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

あの声を、自分に向けられた声として、救いの言葉として、聞くことができる。

 

そのような大いなる出来事として、ルカは、このイエス洗礼の出来事を綴りました。

 

あの時代、民衆はメシアを待ち望んでいました。

 

私たちは、すでに、そのメシアが来られたことを知っています。

その意味で、もう救いは成し遂げられました。ゲームオーバーです。もう勝利はわが手にあり、です。待ち望む必要はありません。

 

でも、私たちもまた、待ち望み続ける民でなければなりません。

何を待ち望むのでしょうか。

救いの完成を待ち望む。そして、私たちの隣人にも、その救いの知らせが届くことを待ち望むのです。

 

神様は、この民衆、そして、この民衆皆という言葉の中に、もっと多くの人々が入ることをお望みです。

 

私たちが、自分が救われたことだけに満足して、他の人のことは知りません、という顔をしていることを、主はお望みではありません。

この救いの知らせが、多くの人々の魂に届くように。ご一緒に祈り続けましょう。

 

イエスさまも、あの日、洗礼を受けながら祈っておられました。多くの民が救われるようにと祈っておられたはずです。

 

私たちもまた、主と共に祈り、励み続ける者でありたい、このように思うものです。

 

 

                                   2010110日 礼拝にて

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