ルカによる福音書41632

 

  イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

  「主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

  イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は、皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

  イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

 

 

『恵みの年』   

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 

故郷ナザレの礼拝堂で、イエス・キリストは礼拝中にこうおっしゃいました。

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 

皆さんも、今、礼拝中です。そして、昔も今も変わらないのは、礼拝では聖書に耳を傾けるということです。

 

しかし、いくら神の言葉である聖書とは言え、それは、言葉です。文字です。

文字や、言葉は、聞く人には聞かれますが、興味のない人には、ただの活字がたくさん詰まったものにすぎません。

 

たとえば、ここにひとつの本があるとする。その本を読んで、面白いと思う人もいれば、ちっとも面白くないという人もいる。

ここに専門書が一冊ある。電気工学の専門書がある。それは、電気工学を勉強している人にはたいへん役に立つものだとしても、そういうことに関心のない人が、それを一生懸命読んだり、話を聞いたりしても、あまり役には立たないでしょうし、関心も湧かないでしょう。

 

礼拝で、聖書の言葉が読まれる。それを耳にしている人たちがいる。

礼拝に来ている人は、ふつう、そこに行きたい、聖書の話を聞きたいと思って来ているので、聖書の言葉を一生懸命聞いているでしょう。そして、それは、一部の宗教家の専門書ではなくて、万人の生き方にかかわる者、命にかかわるものですから、みんなにとっての専門書です。

 

でも、実際に聖書を読んでいて、ああ、少しもわからない、ということがあるでしょう。牧師でも同じです。読みながら、こういうページが必要なのだろうか、なんて思ってしまうところもあります。

 

あるいは、聖書を読みながら、それはあくまで建前でしょう、という気持ちになることもあります。そういうことは、たいへん立派な教えだけれども、実際には使えません、という気持ちになるようなこともある。

 

聖書の言葉は、それが、今、ここで血となり、肉となるか、と言えば、ある意味、それを聞いている人の姿勢にもよるところがあります。

 

昔もきっと、同じように聖書が読まれていた。読まれていても、右の耳から左の耳に流されていくようなこともあったかもしれない。実を結ばない感じの時もあったでしょう。むなしく聞こえることもあったでしょう。

 

でも、その時、主イエスは、聖書を朗読したとき、おっしゃった。

いま、読んだこの聖書の言葉は、実現した。と。

 

実現した。と訳されていますが、満たされた、という意味で用いられる言葉です。

 

たとえば、同じイエスの言葉で、時は満ち、神の国は近づいた。という宣言の言葉があります。あの、時は満ち、というのが、ここと同じ単語です。

 

この聖書の言葉は満ちた・・・言葉が満ちるということは、つまり、その言葉が実現した、成就した、とよく訳されています。

 

言葉がむなしいものでなくなった。という瞬間かもしれません。

あの人が、こういうことを言った。・・・その言葉がむなしいものではなくなる。それは、その言葉のとおりのことが行われたときです。

 

神学では、しばしば言葉が受肉する、なんて言い方をします。

その言葉が、肉をつける。体になる。見えるものになる。

 

教会では、ひとつ、とてもわかりやすいものがあります。聖餐式です。

私たちに対する神様の救いの約束、それが、見えない形としては、聖書の言葉の中に告げられている。そして、見える形としては、聖餐式のパンと葡萄酒という姿に込められている、と説明します。

聖書の言葉も、聖餐式のパンと葡萄酒も、どちらも神の言葉。神の救いの言葉です。見えない神の言葉が見える形になると、聖餐式になる。こう私たちは考えています。

 

神の言葉は実現した。というのは、そういうニュアンスを持っています。

 

 

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 

 

さて、では、そう言われた聖書の言葉は何だったか。

主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。

 

この言葉でした。これは具体的には、旧約聖書のイザヤ書の言葉です。その日、礼拝の中で読まれた言葉でした。

 

ちょうど、先週の日曜日、主の洗礼日の礼拝を守りました。イエス・キリストが、ヨルダン川で、洗礼をお受けになったという出来事。

あのとき、イエスの上に、鳩のように聖霊が降りて来て、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、という声が天から聞こえた、と書かれていました。

 

その続きとして読んでもいいでしょう。

主の霊がわたしの上におられる。鳩のように降りてきた神の霊が。

・・・それは何のためか、と言えば、救いを求める様々な状況下に置かれている人たちを救うため、彼らに福音を告げ知らせるためであると。

 

天から差し伸べられる救いの手。それは、正しい者、強い者、立派な者のために用意されるのではない。

貧しい者、捕らわれている者、目の見えない者、圧迫されている者、・・・そういった弱さの中にある者のためにこそ、神の救いの御手は差し伸べられる。

そのために、イエスは来られた。そのために、イエスの上に霊が降った!

 

イザヤ書の言葉は、イエス・キリストの時代からすれば、はるか500年ほど前に書かれたものでした。

民衆は、500年もの間、この言葉は、この救いの言葉は、いつになったら、成就するのか、と待ちわびていたでしょう。

あるいは、人間の心理として、もう待ちわびていなかったかもしれない。同じ一つの願いをずーっと変わらず持ち続けるというのは、決して容易ではありません。途中から、惰性的になることもあります。

 

でも、そんなことはお構いなしに、イエス・キリストは、はっきり宣言なさった。

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。

 

実は、今日の聖書の言葉の中に、ひとつの言葉遊びのようなものがあります。言葉遊びと言ってはいけないかもしれない。掛け言葉のようなものかもしれません。

 

主の恵みの年とあります。この≪恵みの≫という言葉があとでもう一回でてくる。

それは、こういうふうに語られるイエスの言葉を、ナザレの人たちが少しも受け入れずに馬鹿にしていた時です。

 

主イエスはこうおっしゃいました。

預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。

 

小さい時から知っている者たちのところでは、人の子イエスは、歓迎されない

この歓迎されない、という言葉と、主の恵みの年の≪恵み≫というところは、同じ言葉です。これは、面白い使い方です。

 

この言葉は、直接的には、歓迎する、受け入れる、という意味です。だから、預言者は故郷では歓迎されない、受け入れられない、と言っています。

 

それと同じ言葉が、主の恵みの年。主の歓迎する年です。ここに用いられている。

 

そこに込められているのは、主が、あなたを受け入れてくださる年、ということ。

主があなたを受け入れてくださる、・・・貧しいあなたを、捕らわれているあなたを、目の見えないあなたを、圧迫されているあなたを。

救いを求めるあなた。小さなあなた。思い煩うあなた。自己嫌悪に陥るあなた。悲しみにふさぐあなた。心が狭くなっているあなた。

そういうあなたを、主は、受け入れる。

 

恐れるな。主は受け入れる。それが、実現した。その言葉が、今日実現した。

それが、この人。この人を見よ。この人こそ、神の御子、あなたの救い主イエス・キリスト。これこそが、実現した神の救いの言葉!

 

この知らせを受け入れた人にとって、今日の聖書の言葉もまた、あなたがたが耳にしたとき、実現した。ということが起こります。

 

それは、あの2000年ほど前の、会堂の中だけではありません。

いま、この会堂で、この安息日に、主の恵みの年の知らせを信じる者は、やはり、神の言葉が実現したことを信じることができるのです。

 

 

私たちの心にも、あの日のナザレの人たちのように、イエスを受け入れられない、素直に信じることができない、疑いの心、闇の覆った心でいっぱいになることもあります。

まさに、捕らわれている人、目の見えない人になります。

 

その時思い起こしましょう。

主はどういう人たちの救いを実現するために、来られたのか。

 

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。

 

それは、実現しました。その言葉は満たされました。本物になりました。

 

主の霊がイエスの上に降ったのは、イエスのためではありません。

あなたのためです。あなたを救うために、イエスの上に霊が、あなたを救う霊が降りたのです。

 

その救いの知らせを携えて、新しい日々へと送りだされましょう。

 

 

                             2010117日 礼拝にて