説教集 目次へ 
 

ルカによる福音書5111

 

 

  イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

                           

      『神の言葉』

 

 

今、島田礼拝堂では、木曜日の聖書を読み祈る会で使徒言行録を学んでおります。

イエス・キリストが復活なさった後、天に昇って行かれる。元いた場所に帰って行かれると表現してもよいかもしれません。弟子たちが見ている前で、主イエスが天に昇って行かれた・・・そこから、使徒言行録はスタートします。

そして、残された弟子たちは祈っている。祈っているところに、聖霊が降りて来て、彼らは力を与えられる。そして、それまで主がなさっていた宣教活動を、今度は、彼らがなしていく。それまでは、弟子と呼ばれていた彼らを、聖書は次第に使徒と呼ぶようになります。ただ師匠のすることを見ている弟子たちではなく、今度は、遣わされて行く者となって行く。使徒とされる・・・。

 

その使徒たちの活動の記録。ペトロたちから始まり、やがて、パウロを中心として続けられていく伝道の記録。それが、使徒言行録です。使徒たちがなしたわざ、使徒たちが語った言葉を綴っているので、使徒言行録と呼ばれます。

 

でも、少なからぬ神学者たちが、これは正確な呼び名ではない。正確に言えば、聖霊言行録だと言います。

これは、使徒たちが主役ではない。使徒たちが働いた記録ではない。使徒たちを通して、聖霊が、神の霊がなしたわざが書かれている・・・そう主張するのです。

 

その考えは、私たちキリスト者にとっては、自明のことではないでしょうか。

わたしは信じます、と言いつつ、私たちは知っている。その信仰を、神さまがくださった、ということを。不信仰のわたし、弱い心のわたしを、神さまがとらえて、導いてくださった。だから、わたしは今、神さまを信じている、と。

 

今、こうして礼拝に来ている。自分のおうちを出てきて、教会まで来ている。それは自分の意思であるけれども、キリスト者は、知っている。神様が、今日もわたしをここに導いてくださった、と。

そのように、主語と目的語を置き換えることの尊さを、私たちは知っています。

 

今日の聖書の個所、ルカ福音書5章においても、同じことが言えます。

今日の個所の主な登場人物は、ペトロです。

ペトロです、と言いましたが、正確に言うと、シモンです。私たちは、いつでも、ペトロという名前で親しんでいますが、この個所を読んで行きますと、ルカは、きちんとシモンという言葉で書き始めている。

本来の彼の名前です。ペトロは後からつけられたあだ名です。岩という意味のあだ名。おまえは岩である、とイエス様に言われたつけられたあだ名です。

でも、この時点では、ルカはシモンと書いて始めている。

 

これはシモンの身に起こった出来事。それがここに、たいへんドラマチックに書かれています。

マルコも、マタイも、同じような話を紹介しました。でも、ルカのようにドラマチックではありません。さあ、ついておいで、と言われて従う物語を、彼らは紹介しました。

 

でも、ルカは、ここに網を下ろしてごらん、と言われて、言われた通りやってみたら、ものすごい大漁だったという話を紹介しています。

そして、その出来事に仰天して、わたしは罪びとです、離れてください、主よ、と叫んだシモンの言葉を紹介しています。このあたりは、ルカ独特の書き方です。

 

同じ物語を紹介しながら、違う書き方をしているルカが伝えたかったことが、このあたりにあるようです。

 

そこには、神の言葉があります。

ルカは、びっくりする奇跡の話を紹介して、人を驚かせたいのではない。権威ある神の言葉がある。人を動かし、人をいやし、人を救う神の言葉がある。

それが、この物語の中心にあります。

 

その日、おおぜいの群衆が集まりました。イエス・キリストのもとに駆けつけてきた群衆です。

先週は、ルカ4章を学びました。そこでは、安息日に会堂で教えておられたイエスのことを学びました。人々は、その教えに驚きました。故郷ナザレの人たちだけは、そこでつまずいてしまったわけですが、しかし、他の地方では、純粋に驚きを与えました。

 

イエスの口から出てくる神の言葉。それはまさしく神の言葉だ、と人々は受け取ったようです。だから、今日の個所も、群衆は、≪イエス様のお話を聞こうとして集まった≫のではなくて、神の言葉を聞こうとして、周りに押し寄せて来た。と書いています。

 

今日は、初めに使徒言行録の話をしましたが、使徒言行録を読んで行きますと、同じような言葉が出てきます。使徒たちが方々へ行く。すると、やはり、そこでも、神の言葉を聞こうとして、人々が集まってくる。

主イエスの口から聞かされた神の言葉。それが、やがて、使徒たちの口からも聞かれるようになります。

今日の物語は、そういったのちのちへ続いていく神様のご計画の始まりと言ってもいいでしょう。

 

群衆が押し寄せて、居場所もなくなりそうになったイエスは、そばにあった舟をご覧になり、その中のシモンの舟に乗り込まれます。

シモンとイエスは、これが初対面ではありません。すぐ前のところを読みますと、イエスがシモンの家に行かれ、お姑さんのことをいやされた話が書かれています。お互い知っているのです。

 

でも、ある意味で、今日の場面は、初対面です。なぜかというと、本当の付き合いが始まるからです。少なくとも、シモンにとっては、この日から、主イエスとのまったく新しいお付き合いが始まる。まったく新しい人生が始まります。

でも、そんな事とはつゆ知らずにいます。

衝撃的な出会いとは、そういうものかもしれません。はじめは、わからない。神さましかわからない。でも、それでも、必要なご計画は進んで行きます。

 

神の言葉を聞こうとして集まっている群衆に向かって、イエスは教えておられました。

安息日に、会堂で教えておられたように、シモンの舟の上が説教台となって、岸辺が会衆席となって、み言葉が語られていました。

そのお話を、いちばんそばで聞いていたのはシモンでした。神の言葉を、いちばんそばで聞いていた男です。

 

礼拝に来られて、わりと前の席に率先して座るのは、やはりいいことです。

神の言葉をそばで聞く。そこには、あの日の群衆のように、その命の言葉を聞こうという姿勢が溢れているでしょう。

 

でも、この日のシモンは、そのような熱意を持っていちばんそばにいたのではありません。イエスさまのほうが、来られたのです。

不思議な選びです。神の言葉を聞きたいと思って熱意を持って押し寄せる群衆の中から、弟子が選ばれてはいません。ああ、疲れた、早く網を洗ってうちに帰りたい、と思って打ちひしがれているひとりの漁師が弟子に選ばれていきます。

 

確かに、信仰は求める者に与えられます。求めよ、さらば与えられん、です。

でも、一方、信仰は思いもよらぬ形で、思いもよらぬ人に降ってきます。ええ、どうして、この人が、という人が、神に選ばれて、弟子とされていきます。

 

私たち一人一人も、間違いなくそうでしょう。

皆さんの中には、あの日の群衆のように、自分から求めて神の言葉を聞きに来て、そして、そのままキリスト者になられた方もあるかもしれない。

でも、中には、この日のシモンのように、自分は関係ないと思っていたら、いつの間にか、捕えられてしまった、という方も多いのではないでしょうか。

 

シモンは捕えられました。魚が捕れなかったあの日、自分が捕えられたというのは、神さまのユーモアのような気もします。

いちばんそばにいながら、神の言葉をあまり聞く気もなかったあの日、群衆のように一生懸命、その言葉を聞いていたわけではないあの日、おまえは、神の言葉を語る者になるのだと、いう神の言葉を聞くことになるとはまったく不思議な選びであります。

 

肩を落としているシモンが、そのような大転換を迎えることになったのは、しかし、お言葉ですから、という一言にあるでしょう。

しかし、お言葉ですから。ここに、大いなるターニングポイントがあります。

 

イエス様のお言葉だから、沖へ行ってみる。

ついさっきも行ってきました。一晩中いました。網も投げ続けました。そこへもう一回行く。

でも、今度は、同じ湖の、同じ沖合でありながら、違う船出です。

み言葉のゆえに、行くのです。これは一度も経験していない船出です。

 

確かに、シモンは、その時、いつもの自分の舟で、行きました。言われるがままに、もう一度行きました。

 

でも、それは、別の言い方をすれば、今度は、み言葉に乗って、行ったということではないでしょうか。み言葉という舟に乗って、沖へ出て行った。

そうしたら、そこに驚きがありました。神のみわざがそこにありました。

そのことを、今日のみことばは伝えています。これが、神のみわざなのだと。

 

このみわざ、そしてこのみわざを成し遂げることになる神のお言葉を知ったとき、シモンは、わあ、すごい、イエス様、わたしとずっと一緒にいてください、と言ったのではありません。離れてください。と言いました。

 

おそれです。シモンの心に、確かなおそれが生まれました。

本当の神さまを知っている者は、おそれを知ります。おそれを知らない人は、神様を知らないから、おそれないのです。

おそれを知らない言動をとっているとき、人は、神を見失っています。

 

このおそれは、恐怖という意味のおそれでもあり、畏怖、畏れ敬うという意味でのおそれでもあります。

その大きさ、その輝き、その真実を、知ってしまった者は、自分の小ささ、自分の弱さ、自分の中にある闇を知ります。それが、おそれです。

 

だから、離れてくださいです。と叫ぶ。

ところが、そのおそれを知った者に神の言葉が響きます。

恐れることはない。  ・・・聖書の中で何度響き渡っている一言でしょうか。

恐れることはない。

 

さらに、イエス様は続けられました。あなたは人間をとる漁師になる。

でもシモンは、もうすでにわかったでしょう。

自分が人間をとるのではない。このいのちの言葉、神の言葉、神の力、神のひかり輝くみわざが、人間を捕えて行く。

そのお働きに、自分が召されているならば、従います、と。

 

ご存じのように、シモン・ペトロは、このあと何度も失敗しながら歩いていきます。

でも、彼を支え続けた、原体験がここにあります。それは、神の言葉です。

お言葉ですから、と言って船出した原体験です。

そして、恐れることはない。と響く、憐れみと愛の言葉です。

 

神の言葉は、いまも、私たちを捕えます。そして、導きます。救いへと導きます。

 

そして、神の言葉は、いつでも待っています。私たちが、お言葉ですから、と言って、新しい歩みを始めることを、イエス様は待っておられます。

恐れることはない。さあ、み言葉という舟に乗って、一緒に行こう。

 

私たちもまた、その御声に従って、歩み始めたい、このように思います。

 

 

                                  2010124日 礼拝にて

 

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ