説教集 目次へ

 
 

ルカによる福音書61726

 

  イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

  さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

  「貧しい人々は、幸いである。

神の国はあなたがたのものである。

  今飢えている人々は、幸いである。

あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである。

あなたがたは笑うようになる。

  人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

  しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。

あなたがたはもう慰めを受けている。

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。

あなたがたは飢えるようになる。

今笑っている人々は、不幸である。

あなたがたは悲しみ泣くようになる。

  すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

  『平地の説教』

 

  今年に入りまして、ルカ福音書を礼拝で読み続けております。

 ここでわたしが言う、今年と言いますのは、アドベントから、ということです。教会の暦に従って言うところの「今年」は、秋も深まり、もう冬の到来を感じさせるころからのことであります。

その時期から、私たち、ルーテル教会では、毎週、ルカ福音書を学びながら、礼拝を守り続けております。

 

 アドベント、クリスマスから始まって、祈りつつ齢を重ねていたシメオンやアンナの祈り、ヨルダン川で洗礼をお受けになる場面や、あるいは、最初の弟子となったペトロの話などを読んでまいりました。

 

 こういった個所はある意味で、イエス・キリストの周辺の人物たちが描かれているところでありました。羊飼い、マリアとヨセフ、シメオン、アンナ、洗礼者ヨハネ、など。ところが、本日与えられましたルカ6章は、イエス・キリストご自身のお語りになった言葉が記されております。ある意味で、ようやく福音書らしいところに入ってきた、という感じがするところです。

 

  しかも、これは、大勢の群衆の前で主イエスがお語りになられた最初の言葉と受け止めてよろしいところです。

これまで主イエスが何事かお語りになられたのは、故郷ナザレの会堂であったり、あるいは従ってくる弟子たちの前であったりしたわけですが、ここは、大群衆を前にしております。・・・ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために人々は集まって来ていた、と書かれてあります。

特に、ティルスやシドンというのは、パレスチナ地方の北の方、異邦人の町と言われますから、実に広範囲から、イエス様に会いたい、その御言葉を聞きたい、病を癒されたい、という切なる願いをもって、おびただしい民衆が集まっていたことがうかがえます。

そのおびただしい民衆を前に、主イエスが語られた言葉が、ここに記されていたのです。

 

 いわば、施政方針演説です。先頃、日本の総理大臣もやっておりました。いのち、いのちを守るため、と繰り返されていたようです。

 

いわば、初めてイエス・キリストが大勢の民衆を前に、施政方針演説をなさった、民衆の前で、最初に公に語られている場面といえます。

 

 みんなが固唾をのんで、見守っている中で、発せられる最初の言葉ですから、そこには、いろいろな思いが込められているでしょうし、また、言いたいことの中枢がこめられていると思うのです。

 

  その第一声が、

「貧しい人々は、幸いである、

神の国はあなたがたのものである。 この一言であったわけです。

 

 貧しい人々は、幸いである、

衝撃であります。教会に何年も来ておられる方は、聞き慣れてしまって、感動が薄くなっているかもしれませんが、やはりこれは驚きの言葉です。

信仰生活は、驚く心を大切にしていないといけません。

 

 貧しい人々は、幸い

 この言葉から飛び込んでくる驚きを感じ取りたいものです。

 貧しい人々は、幸い。さらに、今飢えている人々今泣いている人々憎まれたり、追い出されたり、ののしられたりしている者は幸いである。と続きます。

 

 総理大臣の演説と先ほど申し上げましたが、もしも、選挙に立候補するような人がマイクを握れば、「国民の幸せのために、より豊かな暮らしをお約束します」と言うでしょう。「減税をいたします」と言うでしょう。「子育てを支援します」と言うでしょう。

有権者たちが、少しでも、たくさんお金を手にしたり、豊かさを味わえるための方策を差し出すことでありましょう。そこに幸せがあると、思えるからであります。

 

  ところがイエス様は、貧しい人々は、幸い、と宣言なさいます。

  貧しい飢えている泣いている憎まれている。

 どれも、私たちがおよそ、不幸を表現するときに思い浮かべる状況であります。あまり好ましいと思っていない状況であります。

 

  そして反対に、富んでいるあなたがたは、不幸である、満腹している人々今笑っている人々ほめられるとき、それは不幸である。と言われます。

 

  どこの世界に行っても、全く常識とは裏腹に思えるようなことを言われたのです。

もちろん、だからこそ、そこに驚きがあることは言うまでもありません。

 

 さて、しかし、これらの言葉を字義通りに受け止めてしまいますと、私たちキリスト者は、みんなお金を手放さないといけなくなります。ご飯を食べておなかいっぱいになったり、ニコニコ笑ったりしてはいけないことになります。

 

 けれども、世界中のキリスト者たちが、みんな私有財産を放棄して、笑いもせず、暗い顔をしているかというと、そんなことはないようです。

 私自身も、食べるときは食べます。そのお陰で、こんな体になりました。悲しい顔をしているよりは、笑っている方が好きです。落語や漫才を見ながら笑うのも好きです。

 

 そしてこのようにお語りになられたイエス様ご自身も、いろいろな人に招かれて食事を楽しんだり、語り合ったりして、周りの人から、あいつは大食漢だ、と噂までされてしまったと書かれているほどです。他の人たちなら敬遠するような罪人たちをも招いて、食事をし、楽しく過ごされた、とあります。

 

 そして、使徒書の数々を見ても、キリスト者に勧められている生き方は、いつも喜んでいなさい、絶えず感謝していなさい、救いに与った者として、その喜びを隣の人にも分けてあげなさい、と言われている通りであります。

 

  それならば、いったいイエス様は、これらの言葉を通して、何をお伝えになりたかったのでしょうか。

 

  それで、この時の状況を改めて思い浮かべてみますと、先ほども申し上げましたとおり、この日、噂を聞きつけた大勢の民衆がイエス様の下に集まっています。

 彼らに共通していたことは、イエス様の教えを聞きたい、という思いと、病を癒されたいという願いでした。

 何事か飢えていた人たち、何事か足りないものを補って欲しい、助けて欲しい、と願っていた人たちでありました。

 

 身体的に、精神的に何かを頂きたい、神の力がそこにあるのならば、本当に魂を満たしてくれるものがあるのなら、頂きたい。

 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。と書かれてあります。

その着ているものの裾にでも触れば、癒されるかもしれない。そういう必死な祈りを抱えて、皆は集まっていたのです。

 

 その群を前にして、イエス様はお語りになっておられたし、また、これらの人々を前にして、イエスから力が出て、病気をいやしていたとも書かれております。

 

  私は毎週礼拝で、こうして聖壇に上がりまして、皆さんがこちらを向いておられる姿を拝見しております。身が引き締まる思いを、毎度味わっております。

神様に向かう姿、神の言葉に聞こうとする姿を、ここに立っている者は、もっとも鮮やかに感じ取ることができます。

これが、きっと牧師の原動力の一つになっていると思います。

牧師というのは、何でも知っている大先生で、その知識を皆さんにお裾分けしている、というのでは決してありません。ここに立つことによって、いろいろなことを、ここに来られる皆さんの姿勢から、教えてもらいます。これが、牧師になった者の一番の恵みと申し上げてもよろしいほどです。

 

  かつて、イエス様は人の子の姿をとって、この世に降ってこられました。そして、人々と一緒に過ごされました。そして、多くの場合、ご自身のもとに何事か求めてやってくる一人一人をご覧になっておられました。

 どういう思いで、その一人一人を見つめておられたのでしょうか。

 

 今日の個所では、こういった群衆とおられるときに、イエス様から力が出て、すべての人の病気をいやしていた。と書かれています。

 

  イエス様のとは、人を叩きつぶすための力ではありません。人を呪うためのものでもありません。地獄へ落とすための力でもありません。

 

  イエス様のうちにあって、出てくるとは、人を癒す力です。飢えた人を潤す力です。悲しむ人を慰める力です。

神の御子の右腕から出てくる力は、すべて、人を救い、助けるための力なのです。

 

  その日、群衆は皆、イエス様に、慰めを求めました。癒しを求めました。励ましとなる御言葉を求めました。

その結果、それが与えられ、皆、癒されたのです。

 

  人は自分の飢えや、欠けや、悲しみに出会うときに、初めて、自分自身に気づくものです。なぜなら、そこで、この自分と向き合っておられる神さまを深く思うからです。神に祈るのです。

逆に、自分の喜びや、自分の力強さや、自分の知識を誇っているときには、人は、自分を見失うことが多いです。

 自分の足りなさ、弱さに出会うとき、本当に自分を知り、そして、その自分を見つめておられる神のまなざしに出会うことができます。

 

  御言葉を聞きたい、癒されたい、と願って、集まってきた群衆を、だからこそ、主は喜ばれ、彼らに向かって、貧しい者、悲しむ者、泣いている者は幸いだ、とお語りになられたのではないでしょうか。

 

  イエス様は、その後、富んでいる人、満腹しているあなたがたは不幸だ、と今度は、その裏返しとなることを言われました。しかも、その時には、あなたがたという言葉を付けて、より鮮明におっしゃいました。

 その場に富んでいる人、満腹している人が居合わせて、その人たちを切り捨てるようなことを言われたのでしょうか。

 

 私はそうではないと思います。私たち一人一人の中に、貧しい自分と富んでいる自分がいるのだと思います。

 同じ一人一人に、飢えているあなたよ、満腹しているあなたよ、とお語りになられたのだと思います。

 

 私たちは、自分の足りなさを知って、主に立ち帰るとき、幸いです。

しかし、時が移れば、すぐに、主に頼る自分を見失います。身体的な満足や、目に見えるもの、手で触れることの出来るもので、心の飢えを満たせるかのような錯覚をも覚えます。

  その時、私たちは、不幸なのです。祈ることを忘れ、恵みに感謝することを忘れたとき、必死で祈り求めることを見失っているとき、私たちは不幸なのです。

 

 小さな事ですぐに思い高ぶってしまうような罪ある私たちのために、主は、いつでも降りてきてくださいます。高ぶらない主は、いつでも山から下りて来てくださいます。

そして、救いを求めて、主に頼り、その服の裾にでも触りたいと頼り求めるとき、主がすぐに降りて来てくださいます。降りて来られるだけでなく、その力が、私たちの上に降り注がれます。

 

私たちが貧しければこそ、飢え渇いていればこそ、そのみ手を差し伸べて、私たちを癒してくださるのが、イエス様です。

  思いの丈を主にぶつけていきながら、いつでも祈ることを忘れないように、歩んで行きたい、このように思います。

 

                       2010131日 礼拝にて

 

日本福音ルーテル栄光教会 表紙へ