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ルカによる福音書62736

 

  「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 



『祝福を祈る』  

 

 

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。とか、悪口を言う者に祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。とか、頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。とか、上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。とか、・・・立て続けに出てくる教えですが、この教えをいろいろな人に聞かせたら、たいへん立派な教えだけれども、理想を追い求めた、非現実的な道徳、倫理と受け取られるのではないか、と思います。

 

敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。というところから始まります。強烈なインパクトを持って聞こえる言葉です。

「いや、まあ、そこそこには頑張れるかもしれませんが、そうもいかない現実がありますよ」くらいに、受け取ることでしょう。

 

ここにある言葉と、自分自身との間に、ギャップがある。それがわかります。だから、そのギャップを埋めるために、何かが必要です。大井川のこちらから、向こう側へ渡るために、長い橋が必要なように、今日のイエス・キリストの教えと、自分自身とを結びつけるためには、何らかの橋が必要です。

 

その橋となるのは、「これはすばらしい教えですね、でも、現実はそうもいきませんよ、この言葉をせめていつも心に留めさせていただきますが、その通りにはできません」といった橋を架けることもあります。

「こんな教えは、理想であって、非現実だ」と言って、橋を架けることを断念することもできるでしょう。

 

あるいは、これは、教会でよく聞くいい方ですが、「これはイエス・キリストのなさったお姿そのもの。これは、命令の言葉の姿をとりながら、実は、主イエスご自身が、こういう生き方をなさったという福音なのだ」という受け取り方もあります。

そうしておけば、この言葉と自分との間に、すっと橋ができる。

 

それはもちろん、たいへん優れた読み方です。最終的には、そうなると思います。

「これを守らない人はキリスト者の名に値しない」とか、「これは重要な戒律であるから、これを守らなかった者は地獄行きだ」とか、そういう性格ではありません。

 

むしろ、「これは、主イエスご自身の生きざまを表している言葉です」という受け止め方は、とても正しいのです。

 

でも、同時に、私たちは、これらの言葉を、教えとして受け止めるよう招かれています。簡単に渡りやすい橋をかけてしまって、さらりと受け流してしまったら、この言葉を語られたイエス様の真剣さを受け流すことになってしまうような気がします。

少なくとも、この言葉と、自分自身の間に、大きな溝がある。ギャップがある。ということの気付きは大切にしておく必要があると思います。

 

主イエスが言われたことは、とても大切なことです。ここに言われていることを地球上の人が皆、きちんと受け止めていれば、戦争が起こりません。理想だとは言わず、現実的に必要なことだ、と受け止めれば、世界が変わるような言葉です。

 

それなのに、そんなに力ある教えなのに、その教えが遠くかすむほどに見えてしまう現実の自分がいる。この教えに対しては、いろいろと言い訳をしたくなる自分がいる。あるいは「これは理想だ、非現実だ」と逃げ出したくなる自分がいる。

その自分の立っている場所をよく自覚することが、まず求められているでしょう。

 

では、なぜ、この教えと、自分の間には、大きな溝が横たわっているのであろうか。

自分はどこに立っているのだろうか。

 

ひとつは、私たちが人間関係の中で、基本的にはしてもらうことを求めているということではないでしょうか。自分が何をするか、ではなくて、相手が自分に何をしてくれるのか、を実は、先に考えているのです。

わたしもたいへんわがままな人間なので、胸に手を当てれば、よくわかります。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。とイエスさまが言われる。

そう、まず、人にしてもらいたいという気持ちが先に働く。

もうそこにすでに、この教えと、自分自身との間の溝があります。それは、どんな橋をかけようとしても、うまくいかないくらいの溝です。

 

わたしが何をできるか、ではなくて、あの人はわたしに何をしてくれるのか・・・こっちの方に、おおいに力点が置かれています。

 

自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。という言葉も、ですから、こころに突き刺さります。

私たちがもしも、周りの人から、「あの人はいい人だよ」とか、「優しい人」とか評価されているとしても、それはお互いさまと言える人間関係の中にあって、そうであるだけなのかも知れません。

自分にいつもよくしてくれる人に対しても、逆に自分につらく当る人に対しても、同じような心持で接することができるか、と言われたら、そうできない自分自身が見えてまいります。

 

実は、私たちは、まず、相手に要求することが多いものである。

これが、イエス・キリストの教えと自分の間にあるギャップの原因の一つです。

 

さて、もうひとつ、わたしはここで考えたい。

それは、私たちが、まず、人間を見ているということ。神を見ていないということ。それが、この教えと私たちの間の溝を生む原因であるということです。

 

私たちはまず、この世の人間関係を想像しながら、これらのみ言葉を聞くものですから、そこに損得勘定が現われます。でも、イエス様はみ言葉を語られるとき、天の神様を見ておられたように思うのです。

 

私たちもキリスト者として、神を信じ、神さまのみ腕の中で安らかに生きていると言えるのですが、同時に、この世の荒波にのみ込まれそうになって、生きています。生身のからだを携えて生きています。神様が見えなくなることが多々あります。神様が見えないとき、この御教えは、いささか非現実的な言葉として、聞こえてきます。

 

そういう私たちだから、イエス様は、たいへんわかりやすく、報いについても語られました。

報い・・・このような生き方をすることによって、与えられるご褒美があると。

何も当てにしないで貸しなさい。というお言葉を言われた後すぐに、報いがあるから、と言われましたから、皮肉なことです。

何を与えられるのか、というところに立って生きている私たちに、もっともわかりやすいことを言ってくださったのかもしれません。

 

キリスト教は、因果応報という思想を言いません。良いことをしたから、天国に行き、悪いことをしたから、地獄へ行く、といった考え方を持っていません。

私たちが救われるのは、ただ、神があなたを愛しておられるから、ご褒美や報いとしてではなく、神の愛によって、救われる。

そのことを、教会では、恵みによって救われる、と言います。

報いの対義語として≪恵み≫と言います。

 

それが、基本姿勢であります。が、しかし、ここでははっきりと、天で待っているたくさんの報いがあると宣言なさいました。

 

ここには、お前たちは、天を見て生きているか、という問いがあるように思えます。

この世で、計算が成り立つことばかりを求めていないか、そうすると、損した、得したと、フィフティフィフティだと、そういうことばかりが見えてきてしまう。

そこには、本当の幸いは見つからない。

本当の幸いは、天を見つめながら、この世を生きること。そこに、本当の幸いはある。本当の祝福はある、と語られていると思うのです。

 

地上のものは、消え行きます。地上のものは、天に持っていくことはできません。

でも、天とつながっているものは、永遠です。

 

出だしのところに、悪口を言う者に祝福を祈り、とありました。

新共同訳では、悪口を言うと訳されているので、ちょっと一般的すぎる感じがします。わたしが調べた他のすべての翻訳では、ここは、あなたをのろう者に、となっています。

 

のろい。それは何を意味したかと言いますと、ユダヤ人の間での追放でした。「もうお前は、神に呪われた者だ」と、「助けようがないし、関わってはいけない者だ」と、それがのろうということでした。

これは、ユダヤ人の中で、効力をもったものでした。

 

その反対にあるものが、祝福でした。祝福も効力があります。

聖書に詳しい方は、旧約聖書の創世記、エサウとヤコブの話を思い出していただくといちばんよいでしょう。

ふたりの兄弟がいて、弟のヤコブが、目が見えなくなったお父さんをだまして、「わたしは兄のエサウです」と言って、兄が受けるべき祝福を受ける話です。

 

後になって、「さあ、お父さん、祝福をください」と言いに行ったエサウに、「祝福はあげてしまった、もうない」と言われる。そして、「それはもう与えてしまったから、弟から取り上げようもない」と。

 

祝福というのは、そういう性格のものです。

今日も、このあと、わたしは礼拝の結びで、祝福をします。これも、同じです。

与えられた祝福は、永遠に消えないものなのです。

 

これは、わたしが沼津教会にいた頃のことです。もうお亡くなりになられましたが、ひとりのご年配の男性がおられました。

たいへん勉強熱心な方で、ヘブライ語も、ギリシャ語も、斜めに読めるほどの方でした。語学だけでなく、聖書の歴史的な背景や、文化風習などもよく知っておられる。水曜日の聖書研究会に行きましても、牧師であるわたしよりも、むしろ、この方のほうが何でも知っておられる。いささかやりにくさを覚えていましたが、しかし、あるとき、この方が、「わたしはどうして、こうして教会に来ているかと言えば、先生の最後の祝福をもらいに来ているのです」と言われました。

 

わたしは、その言葉に強く打たれました。そして、反省しました。わたしは、それほどの思いで、祝福を祈っていただろうか、と。

 

祝福というのは、天と直結している出来事です。それを教会において、この地上において、受けることができる。それが私たちです。神の民です。

 

だから、天につながった者として生きなさい、あの方の子供として、生かされていることを忘れずに、のろわれることがあっても、祝福を祈りなさい、それが、父の喜ばれる道だから、とイエスさまは、語られたのです。

 

この天の教えと、私たちの間には、埋めようのない溝があります。

何度、このみ言葉を聞いても、その溝の大きさを感じざるを得ません。神さま、すみません、というほかありません。

 

でも、天と地をつなぐために、神さまと罪深い私たちの間を埋めるために、イエス様は来られました。

自分が何をもらえるかではなくて、すべてをお献げになるために、イエス様は来られました。

このお方が、橋となってくださいました。

天と私たちをつなぐ道となってくださいました。

それこそが、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い神様のみこころだったということ、今日しっかり胸に刻みたいと思います。

 

先週の総会で、今年も、栄光教会は、祈る群れであろうと、歩み始めました。

互いのために祝福を祈る者でありたいものです。また、ここにおられない多くの方々のために、憐れみ深い神様の子供として、祝福を祈り続ける者でありたい、このように思います。

 

                                201027日 礼拝にて

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