ルカによる福音書92836

 

 

 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 

 
      

『イエスの変容』 

 

先日、島田礼拝堂で結婚式を行いました。

昨年秋から、栄光教会で結婚式が3件続きまして、嬉しいことです。祝福を祈ることは、わたしたち教会のたいせつな務めですから、結婚式を挙げさせていただくことは、とてもうれしく、また光栄なことです。

 

島田礼拝堂での結婚式には、ご夫婦で写真屋さんをしておられる方がお仕事で来ておられました。結婚式は土曜日でしたが、翌日の日曜日にはアルバムができておりまして、式を挙げられたお二人が、早速それを持って礼拝に来てくださり、礼拝のあと、みんなでわいわい言いながら、写真を楽しむことができました。

 

このカメラマンのお二人、お仕事ですから、あちこちの結婚式にも呼ばれておられるようです。

でも、実は、本物の教会で挙げる結婚式の写真は初めて撮られたそうでして、式が終わって、いっしょにお茶を飲みながら、過ごしておりましたとき、本物はいいですね、やっぱり本物教会の結婚式は全然違いますね、とおっしゃってくださいました。

世間の人たちにもこういう本物の感動があることを、知ってもらいたい、どうして、ホテルなどの略式の結婚式のほうへ行ってしまうのだろう、と、そんなこともしばし語り合いました。

 

本物の教会の、本物の結婚式と何度も言ってくださいました。

当たり前のことですが、しかし、それを認めていただけたことは、やはりうれしくもあり、誇らしいことでもありました。

多くの人に認められなくても、コツコツと、本物を続けて行くことがやはり大切なのだ、と改めて思いました。

 

教会には、本物があります。聖書は、本物の神の言葉です。教会で献げられる祈りは、本当に神さまに届けられます。ここでは、本当に天からの祝福を戴くことができます。

 

一見すると、それは、世の中のあの集まり、この集まりとそれほど変わらない面がたくさんあります。

仲間同士で喧嘩することもあります。ちょっとした勘違いで、意思疎通がうまくいかないこともあります。つい、誰かと誰かを比べてみたり、かたよりみる思いも生まれます。

神の家であり、神の子供たちがここにいると言っても、この世に生きる人間の集まりですから、過ちもたくさん起こります。

 

でも、ここは、本物の神の家です。ここには本物があります。

このあと、いつものように、使徒信条によって信仰告白をします。

聖なる教会を信じます、聖徒の交わりを信じます、と言います。

目に映るひとつひとつは、決して世の中と少しも変わらないところもある、けれども、目には見えないところでは、これはやはり神の集められた家族、聖なる集まり、神の教会です、本物です、と信じる。それが、使徒信条です。

 

きょう、与えられましたルカ福音書9章には、イエス・キリストがとうとう本当の姿を見せてしまった時のことが、記されておりました。

いったい、これは何なのでしょう。

あまりよくないたとえかもしれませんが、わたしは、水戸黄門とか、暴れん坊将軍を思い出してしまいます。ちりめん問屋のご隠居と思っていたあのおじいさんが、実は、先の副将軍水戸光圀侯であられた、ハハーッとやる。

この顔を忘れたか、と言われてよく見たら、ああっ、上さま!と気づく。

 

とうとう、本当の姿を現された。正体を現した、と言ってもよいでしょう。

 

ここに紹介されている出来事、これは、地上で30年ほどのご生涯を送られたイエス・キリストが、たった一度だけ、この時だけ、天のお姿を見せてしまった場面です。

いやあ、これが本物だったか、という場面です。

 

本物の姿を現されたとき、どんなお姿だったかと言えば、それは光でした。

私たちの教会の名前と同じ、栄光でした。

もっとわかりやすく言えば、太陽でした。

主イエスは、星ではない。太陽の光を浴びて、それを受けて光る星ではなくて、ご自身が太陽。光の源。

 

あの日、イエスはひかり輝かれた。

どこかから光をもらってきたり、反射させたり、電池を入れてもらったりしたのではなく、ご自身が光った。ご自身が光そのものであられました。

 

ヨハネ福音書第一章の書き出しを思い起こさせます。

言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。

 

きょうのこの場面、多くの画家によって描かれてきました。そして、注意して見ますと、場面は夜です。夜の闇の中で、輝くイエスが描かれています。

それは画家のセンスの問題ではなく、み言葉を注意して読みますと、なるほど夜だと思えます。

 

主イエスは、三人のお弟子たちを伴って山に登っておられます。

何のためか、と言いますと、祈るためです。イエス様はしばしば、夜になると、祈るために山に登っておられました。

ここもそうです。その証拠に、この出来事のすぐあと、今日の個所のすぐあとに、翌日、一同が山を降りると、と書いてあります。

 

彼らは、夜、山に登っていた。そこで、一夜を明かされた。その時、こういう出来事があった。そして、翌日、山を降りています。

夜の闇の中で、イエス様は光り輝いたのです。

 

先ほど、ご紹介したヨハネ福音書をもう一度お読みします。

言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。

そのあと、こう続きます。光は闇の中で輝いている。

 

あのみ言葉のとおりの出来事が起こっていると言ってもよろしいでしょう。

 

さて、その光の中で、栄光に包まれる中で、モーセやエリヤと共にイエスは話をしておられました。

何についてか。エルサレムで遂げようとしておられる最期について、でした。

 

この最期と訳された単語は、もともと出て行くということです。出口としてもよい。

でも、多岐にわたる意味を持っています。翻訳を比べると、ここは神学理解がはっきり出るところと言っていいくらいです。

 

ある翻訳者は、死と訳しています。これは、とてもストレートです。そのものズバリです。エルサレムで遂げられる死について、話している。

実際、エルサレムで待っているのは、十字架上の死です。それを象徴するかのように、今日のこの個所の前と、あとには、イエス様による受難予告が書かれています。

きょうの出来事は、受難予告に挟まれるように起こっています。

 

でも、ある翻訳者は、旅立ちと訳しています。英語の聖書でも、departureとなっているものがいくつかあります。出発です。

終わりは、同時に、始まりです。

 

エルサレムで遂げられる最期。それは十字架上の死です。それは、終わりでありますが、同時に新しい始まりです。新しいいのちの始まりです。復活へと続く終わりです。

その中でこそ、いのちの光が輝きます。

 

きょう私たちも白いクロスをかけて礼拝を守っておりますが、これはいのちの色、復活の色です。喜びあふれる色です。

きょう、私たちは喜びの礼拝を守るよう導かれています。

 

あの日、ペトロたちも喜びあふれました。何を言っていいかわからないくらい、喜びました。

でも、これはひと時でした。このいのちの光は、一瞬でした。

 

イエス様は、光の中にいることが、本物だとは思われなかったからです。

確かに、栄光に包まれているのは、イエス・キリストの正体です。これぞ、天から来られた神の独り子の本当の姿です。

 

でも、もう一面の本物があります。

それは、このお方は、十字架にかけられて、苦しみを受けて、血を流して、地上のだれよりも惨めなお姿で、地上のだれもが背負ったことのないほどの痛みを背負って、侮辱されて、みんなに捨てられて、そして、ぼろきれのように殺される。

その道を通ることも、本物の姿です。

 

そこには、本物の何があるのでしょうか。

本物の神さまのお心があります。だれひとり、罪に定めず、お救いになりたいという、神さまの本当のお気持ちがあります。

 

あなたのことを救いたい、あなたをみ国の席についてもらいたい、というお気持ちが神様の本当のお気持ち。そのお気持ちを表わしたら、こうなった。本当の独り子を、死に渡してでも、あなたを救いたい、というエルサレムでの出来事になった。

 

イエス様がお弟子たちに語られた受難と復活の予告。

それが、見える形をとったら、こうなりました。

ひかり輝きながら、最期について、死について、語るお姿になりました。

弟子たちは、その時は何も分からず、何も話すことはできませんでした。でも、イエス様がご復活された後、この日の出来事の意味を知り、イエス様の十字架と復活、その福音を語り伝えるようになりました。

 

きょう、私たちも、この出来事を、山に登って見届けています。

 

私たちは、あの日の弟子たちと同じです。夜の闇の中にいます。周りも闇、そして、自分自身のうちにも闇があります。

その闇を照らしていただくために、この本物の光と一緒にいなければなりません。命を照らすまことの光である、このお方のみ言葉を聞き、祈り続けていることです。

 

私たちも皆、いつか最期を迎えます。死を迎えます。

それは、しかし、始まりでもあります。まことの光に包まれる、始まりの時です。

 

この光を信じなさい。この光を届ける、まことの救い主を信じなさい。

信じる者は、この光と共に生きることができる、永遠に!

 

私たちのいのちは、このお方によって、照らされています。永遠に輝くようにです。

今も天にいまして、私たちを照らしてくださるイエス様を信じて、歩んで行きましょう。

 

 

2010214日 礼拝にて