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ルカによる福音書4113

 

 

 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダンからお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ』

と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、

あなたをしっかり守らせる。』

また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える。』」

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 

『神の子ゆえに』

 

  本日の福音書の個所は、悪魔の誘惑として知られる個所です。

  イエス・キリストが宣教活動をお始めになる前に、荒れ野で絶食の日々を過ごしていらっしゃった。そこへ、悪魔が誘惑をするために、やってくる。そういう場面です。

 

 悪魔という言葉自体は、聖書を読まなくても、しばしば耳にしますし、また、一般に形づくられたイメージもあります。おそらく皆さんも、悪魔という言葉を聞いただけで、自分なりのイメージが浮かぶのではないでしょうか。また悪魔の誘惑と聞けば、そこから色々と思い起こされることもあるでしょう。

  しかし、まずそういったイメージはひとまず眠らせて、できるだけ先入観を消しておいた上で、聖書が悪魔という存在をどのように記しているのか。

 そこから、いまの私たちに何を、聖書は語ろうとしているのか。

 そのあたりを、今日はご一緒に学んでまいりたいと思います。

 

  本日の福音書個所を見ますと、悪魔は主イエスに対して、三つの誘惑をしています。

 一つ目は空腹を覚えておられる主イエスに向かって、神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだというもの。二つ目は、世界中の国々とその繁栄ぶりを見せて、もしわたしを拝むなら、みんながあなたのものになるというもの。そして最後がエルサレムの神殿の屋根に立たせて、神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、神はあなたを助けるのだろう、そう聖書に書いてあるではないか、というものです。

 

  最初と最後の誘惑の言葉は、神の子なら、という言葉で始まっています。

  神の子なら、石をパンに変えてみよ、神の子なら、飛び降りてみよ。

 

 こういうのを条件文と言いますが、これは、考えてみると、誘いかけの文句として、打ってつけの言い方です。

  皆さんもこういう言い方をしたり、されたりしたご経験はおありだと思います。

 

  私もしばしば経験いたします。牧師だったら、こういうときにちょっと気の利いたことを言えるでしょう。牧師先生なら、まさか、こういう過ちはしないでしょう。牧師なら、こんなことくらいは知っているでしょう。

  ええ、そりゃもう、とつい答えたくなる言い方です。

 

  どうしてかと言えば、それは、定義をしているからです。

 牧師たるもの、こうである、という定義がまず初めにあるからです。

 

 逆に言えば、それが出来ないなら、牧師とは呼べないよ、という、色分けがそこに含まれているのです。

  ですから、そういう言い方をされると、認められたいという気持ちが働いて、二つ返事で答えたい衝動に駆られてしまいます。

 

  悪魔がイエス様に向かって、神の子なら、石をパンに変えることくらいできるだろう、と言ったのは、一つの定義を投げたことでした。

 

 本当の神様ならば、石をパンに変える程度のことはできるはず。

 本当の神様ならば、世界中の権力も栄光も手に入れることができるはず。

 本当の神様ならば、高いところから飛び降りても、死にはしないはず。

 

  悪魔の言葉は、神のみ子、あるいは神様という存在自体を、定義しています。

 

  しかし、悪魔が投げかけた、この三つの事柄は、よく考えてみると、決して、突拍子もないことではないように思えます。むしろ、同意したくなることです。

 

  イエス・キリストは、神の御子として、この世に降ってこられました。

 すべての人、世界中の全人類の救い主としてやってこられました。

 

  どのようにしたら、みんながそれを受け入れてくれるでしょうか。

 もっと現実的な言い方をすれば、

どうしたら、もっと多くの人がこのことを信じて、教会に集まって、洗礼を受けてクリスチャンになってくれるでしょうか。

 

  これに対して、悪魔は実にわかりやすい答えを差し出すのです。

 もしも、そこらに落ちている石ころからパンを作ることが出来たら、それはもう、みんな信じるのではないか。

 

 あるいは、これももっと現実的に、申し上げた方がわかりやすいかもしれません。

 もし今、天からイエス様が地上に降りて来られて、国内の失業者や、あるいは世界に目を向けて、アフリカや飢餓で苦しむ各国の人々のところへ行って、次々に石をパンに変えて、食べさせてあげたならば、これは本物の救い主、神の子だ、とみんな信じるのではないでしょうか。

 

  そう言われてみて、ある程度納得できないでしょうか。

 もしわずかでも、そうだな、と思えるとするならば、悪魔が差し出している救い主の定義を、私たちも心のどこかで抱いている、という証拠なのです。

 

  皆さんは無神論というのをご存じでしょうか。

日本人は、宗教のことを問われると、よく、わたしは無神論者ですから、と言いますが、それは厳密に言うと間違っているのです。

多くの日本人は、無宗教者くらいが妥当でしょう。なぜなら、無神論者というのは、神がいないという論理を持っている人をいうからです。

 

 いちばん基本的な無神論は、こういうものです。

 神はよいお方です。神は悪を憎まれる方です。神は正しいことをされる方です。

そして、神は、全知全能だから、それを実現できます。 

ところが、私たちが生きる、この世の中には、昔から今に至るまで、いつも悪がはびこっています。だから、神は存在しないのです。

 

  これ、一番簡単な無神論です。

 はるか何百年も前に哲学者たちが編み出した論理ですが、実にわかりやすいものです。

なぜ、わかりやすいかと言えば、それがやはり私たちが心の中で抱いている、神様に対する定義と一致するからです。

 

 白か黒か、をはっきり目に見える形で示す定義が、そこにあります。

  神様ならば、こういう正しいことをするはずです。という定義。

 悪魔はそれを差し出しています。

 

  石をパンに変える・・・とっても魅力的なことです。神様が神様たるべき、非常にわかりやすい条件です。それが実現したら、おそらく多くの人が、納得すると思います。

 イエス・キリストが天から降ってきて、石をパンに変えてくれたら、それは手っ取り早い話しです。

  あるいは、そもそも二番目の誘惑の言葉にあるとおり、世界中の一切の権力を手にしてくださったら、なおいい。

 

  悪魔の考えは、私たちの思い描くことと、あまり変わらない。

 だからこそ、受け入れやすいもののように思えるし、また実際、私たちは普段、悪魔と同じ価値観を心の中で抱いているのです。

 

  むしろイエス様のおっしゃる言葉の方が受け入れにくいものです。

 イエス様は常々弟子たちに言われました。

 私に従いたかったら、自分を捨て、家族を捨て、十字架を背負ってついてきなさい。 

自分の命を得ようとする者は、それを失い、他者のために捨てる者が、それを得るのである。

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。

あなたがたの持っているものを売り払い、貧しい者に与えなさい。

 

  どれも心を揺さぶる言葉ですが、石をパンに変え、世界中の権力を手にしてくれた方が、合理的で、誰にもわかりやすくて、手っ取り早いように思えるのも事実です。

 

  けれども、イエス様は、全人類のまことの救い主として、石をパンに変えることも、全世界の権限を手中に納めて王の座に君臨することもありませんでした。

 むしろ、ただ人々に裏切られ、捨てられて、十字架上で殺される無力な神の子でした。

 

イエス様は、それによって何を残されたのでしょうか。

 人類の救い主となるために、何をお残しになられたのでしょうか。

 

 それは、自分の体を張ってでも、自分の命を捨ててでも、あなたを守りたい、救いたい、という真心であります。

 

  真心。日本語は美しいですね。まことの心。

 他の何者にも目もくれず、他の何者にも価値を見いださず、周りから愚かだ、損だ、と言われても、ただ、たった一つのことだけを見つめ、それのためにすべてを献げる。そういう姿を、真心と呼びます。

 

  イエス様は、私たち一人一人に、嘘偽りのない真心をお残しになられました。

  聖書は、この真心を、愛と呼んでいます。  この愛は、最後に私たちを支えます。

  反対に、もしも、そのような真心に触れることもなく、ただパンだけが次々に与えられても、私たちは満たされはしません。それでいくら長生きしても、私たちは救われはしません。

 

  人間関係でも同じです。親は子に何を残してあげるのが一番いいでしょうか。

 何不自由ない暮らし。山のような財産。欲しいものを次から次へ買ってあげること。

  子供の心はいっこうに満たされることなく、やがて渇いていきます。

 多少ものがなくても、不自由な暮らしであるとしても、心から自分のことを思ってくれる愛情と、ぬくもりがあって、初めて、人の心は定まるものです。

子供だけではありません。人は皆、ものだけが溢れても、命は決して満たされはしないのです。

 

  私たちを救うのは、この私のために、命を張ってくれる方がいる、ということ。

 たとえ、世の中にどんな大きな出来事があろうが、どんな楽しいこと、どんな恐ろしいことがあろうとも、いつも、私のことを本当に親身になって愛してやまない。いつもそばにいて見守ってくれている。自分のことをありのままで、受け入れてくれる。

 そういう愛があるならば、それこそが、私たちの救いとなります。

 

 そして、イエス様は、神の御子イエス様は、これを差し出してくださったのです。

  たとえ一万年分の食糧が差し出されたとしても、世界中のあらゆる力と権限が与えられたとしても、いつも隣にいて、私たちを見守ってくださるまことの愛の前には、それらはみな、むなしいものなのとなります。

 

 悪魔の最後の誘惑は、あなたが神の子ならば、エルサレムの神殿から飛び降りてみよ、というものでした。

イエス様は、この誘惑を、のちにもう一度お受けになります。まさに、エルサレムで、この誘惑をお受けになります。 今日の個所、最後に、悪魔は時が来るまで、イエスを離れた。と書かれていますが、まさに、その時は、最後の時でした。

 

 十字架にかけられた時、民衆から、あなたが神の子なら、そこから降りてきて見ろ。他人は救えるが、自分を救えないのか、と侮辱されたときです。

しかし、イエス様は、そこから飛び降りてくることもなく、静かに息を引き取られました。  それは、ご自身の血を流し、ご自身の命を捨てでも、全ての者に、罪の赦しと永遠の命を差し出すため、私たちの真の救い主となられるためだったのであります。

 

  主はたとえ、どんな誘惑に遭おうと、あらゆる力を放棄して、愛を貫かれました。ただ、聖書にはこう書いてある、とおっしゃりながら、父なる神のみ旨に、父なる神のみ言葉にのみ、信頼をおいて、悪魔の誘惑に立ち向かわれました。

 

  私たちもまた、いかなる時も、主の真実に答える、真心をこめた生き方をしていきたいものです。

 主が荒れ野でなさったように、私たちもまた神様を心から畏れ敬い、御言葉に堅く立って、生きていけるよう、祈りつつ歩んでいきたい、このように思うものです。

 

                               2010221日 礼拝にて

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