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ルカによる福音書183143

 

 

  イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。

 

  イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をして欲しいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

 

 

『魂が叫ぶ』

 

 

 本日与えられましたルカ福音書18章の個所には、ふたつの地名が書かれています。

まず書き出しのところで、イエス・キリストが十二人に向かって、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。」と宣言されているところ。ここにひとつ目の地名、エルサレムが書かれています。

もうひとつは、そのあと、後半の話の出だしでイエスがエリコに近づかれたとき、と書かれているところ。エリコという、女性の名前のような地名が紹介されています。

旅の目的地はエルサレムです。そのエルサレム今から向かって行くぞ、とまず宣言なさる。そこは都ですから、上って行くと言われます。

その途中にエリコという町がある。聖書地図で見ると、エリコ、ベトファゲ、ベタニア、エルサレムと仲良く並んでいます。このあたりで言えば、静岡に上って行くのに、焼津、用宗、安倍川、そして、静岡といった感じでしょうか。

聖書の話に詳しい方なら、エリコのあと、ベトファゲ、ベタニアと聞くと、「ああ、イエス様がいよいよエルサレムに近づかれたときの村の名前だな」と思い出されるでしょう。今日の個所のちょっとあとを読みますと、出て来ます。あの、子ろばにまたがってエルサレムに入られる場面です。

 

その、エルサレムの手前、エリコに近づいた時の話。

そこにひとりの盲人がいました。彼は、道端に座って物乞いをしています。

いまでこそ、身体的なハンデを背負っていながら、さまざまな職業につく可能性がありますが、聖書の時代ではそのような考え方はなかったようです。家族からも捨てられ、道端に座って物乞いをする生活を余儀なくされていました。

おそらく、晴れていても、雨が降っても、道端にいたのでしょう。それ以外に生きる道がなかったと思われます。

 

いつものように、彼は物乞いをしていました。道行く人たちが、なにがしかを恵んでくれるのを待って、過ごしていました。

すると、騒ぎが聞こえてきます。群衆が騒いでいる。そして、たくさんの足音が聞こえてくる。

群衆が通って行くのを耳にして、と書かれています。

当たり前ですが、彼は盲人ですから、そのさまを見たのではありません。騒ぎが聞こえました。彼の耳に入りました。それは、これまで聞いたことのないほどの足音、大名行列でもしているかのような、大群衆の足音と、周りの者の歓声などが聞こえてきたのでしょう。そして、ただの騒ぎではない、何かを感じたのかもしれません。

 

先々週、私たちは、A姉を主のみもとに送りました。A姉は、周りの人たちが、「ええっ、あの人、目が見えないの」と驚かれるほど、すいすい歩いていく。また生活を送っておられる。お元気なころはそうだった、と御親族の方などからうかがいました。

 

物乞いをしていた彼もまた、いつの間にか研ぎ澄まされた感覚を養われていたために、ただ聞いていただけでなく、何か、独特な空気を感じたのかもしれません。

 

「これは、いったい何事ですか」と尋ねると、「ナザレのイエスのお通りだ」と人々が教えてくれる。

それを聞いて、彼は叫びます。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

 

どうやら、彼は、知っていたようです。噂を聞いていたのでしょう。道端に座って物乞いをする生活をしながら、あちこちで聞こえてくるイエスという名を聞いていたのでしょう。

もちろん名前を聞いていただけではない。そのお方がなさるみわざについて、そのお方が語る権威ある言葉について、聞いていたのでしょう。

 

わたしは、ここにひとつ、信仰的に受け止めたいものを感じます。彼は聞いたのです。イエスの話を聞いたのです。すべての始まりが、そこにありました。

パウロも言いました。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ1017

 

彼は、どこかで噂を聞いていました。エリコの近くの町で物乞いしながら、彼の耳に入ってくる情報は、ほかにもいろいろあったでしょう。

でも、彼の心にイエス・キリストに関する話は特別なものとして響いていた。

 

そして、その日、群衆が通って行くのを耳にした。何事かと尋ねた。ただ事ではない、いったい何事かと。

すると、「ナザレのイエスのお通りだ」という答えを聞きました。

 

聞いています。耳から入る情報を、彼は、大切にしています。

今日の個所の前半、十二弟子が、主イエスから、とても大切な話を聞かされながら、少しも理解できなかった、受け入れられなかったということが記されています。

しかも、初耳ではない。十二弟子にとって、エルサレムで起こることの予告は、初めて聞いている話ではありません。三度目です。

 

聞いても悟りきれなかった弟子たちの話が前半にあって、そのあと、この盲人の話が続いているのは、たいへん象徴的だと思われます。

 

弟子たちには、見えていないのです。まだ見えていない。でも、やがて、見えるようになる。そのように導かれる。必ず!ということを、暗示しているようです。

 

私たちが、いま、四旬節を過ごしている。でも、やがて、春を迎えるころ、イースターを迎える。その時を、待っているかのように、この弟子たちも、やがて、大切なことを知るために、知るだけでなく、それを宣べ伝えるために、やがてこころの目を開かれる日が来るのだ、ということを、このエリコの盲人の話が暗示しているかのようです。

 

さて、では、この盲人は、聞いた後、どういう行動に出たのでしょうか。

彼は叫びました。叫んだ。と書かれています。おい、静かにしろ、と周りの人に叱られても、叫び続けました。

 

イエス様が来られる直前、荒れ野で洗礼者ヨハネは叫びました。荒れ野で叫ぶ者の声がする、という予告のとおり、ヨハネが現れ、荒れ野で叫びました。「まもなく、神のみ子が来るぞ、悔い改めなさい」と。

彼は、しずかに語ったのではなく、その知らせを荒れ野で叫びました。

 

いま、イエスが来たことを知った盲人が叫びます。

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

 

私たちも、礼拝の式文で、「主よ、憐れんでください」と歌います。礼拝式文ですから、しずかに、そして、わりと上手に歌います。

でも、この言葉のもととなった聖書の言葉においては、叫ばれています。しずかに、「主よ、憐れんでください」と言ったのではなく、彼は叫びました。

 

それは、魂の叫びであったでしょう。

 

信仰生活を送っているのは、どこか平安に満たされたようなものがあります。主に守られているのですから、平安のうちに過ごすことができて当然です。また、そのことを祈ります。平安あれ、と互いに祈ります。

 

でも、私たちの魂は、叫ぶことがあります。神様を求めて、叫ぶことがあります。

それは大事なことです。救いを求めて叫ぶ。癒しを求めて叫ぶ。渇きを訴えて叫ぶ。どうにもならない思いを抱えながら、神さまに向かって叫ぶ。

 

この盲人は、最終的には、その目を開いていただきました。

しかも、その時、イエス様は「あなたの信仰があなたを救った。」とおっしゃいました。

 

道端で物乞いをしながら、耳を澄ませてイエスのことを聞き、そして、イエスに向かって叫ぶ。その姿を、イエス様は、あなたの信仰と呼ばれました。

 

なぜ、そこに信仰があったと認められたのか。

それは、こころから神様を信じる叫びを聞かれたためではないでしょうか。どうにもならない思いを引きずりながら、魂が叫ぶ。そこに、神様に向かう祈りがある。

 

それを、イエスはあなたの信仰とお呼びになります。そして、その信仰によって、彼は見えるようになりました。

 

見えるようになった彼は、そのままイエスに従ったと続きます。

従って行って、どうなったのでしょうか。あとあとのことはわかりません。

でも、このあと、数日後のことはわかります。

彼は、イエスに従った。そして、数日後、エルサレムで十字架につけられるイエスを、開いていただいたその目で、見てしまうことになりました。

 

それだけではない、彼は、聞きます。今度は、研ぎ澄まされたあの耳で、今度は、このお方の叫びを聞きます。

 

聖書にはこう書かれています。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ234446

 

救いの君と信じて、この盲人は、イエスに向かって叫びました。その叫びを、あなたの信仰と認めていただきました。そして、目を開いていただきました。

 

そのお方が、今度は、叫ばれました。おそらく、彼よりも、もっと大きな声で叫ばれました。その叫びは、父なる神さまへの叫びでした。こころからの叫びでした。

 

イエス様も、いつも聞いておられました。父なる神様の声を聞いておられました。人里離れたところへ行かれては、いつもひとりで祈られ、父の御声を聞いておられました。

そのイエス様が、父に向かって叫ばれる。

エリコから従った彼は、それを目撃します。神のみ子の慟哭の声を聞きます。

イエスに従う者は、イエスの叫びを聞くことになるのです。

 

やがて、弟子たちも知ります。

あの叫び、十字架上で、ああまで叫ばれたイエス・キリストによって、私たちは救われた。あの叫びによって、私たちは救われた。私たちは、あれほど叫ばなくてもよい者とされた。なぜなら、あのお方が、私たちの代わりに叫び、うめき、血を流して、死んでくださったから!

 

そのことを知ったとき、弟子たちも理解しました。今度は、わかりました。こころの目を、信仰の目を開かれました。

 

いま、私たちは、いのちのみ言葉を聞いています。耳が聞いているのではありません。このいのちの言葉を、私たちの魂が聞いています。私たちの心の耳が聞いています。

 

そして、このいのちの言葉を聞く時、私たちの魂は叫びます。

主よ、憐れんでください。世の中の何ものも、私たちを救いません。このいのちの言葉を聞かせてくれる、あなただけが、私たちを救います。主よ、憐れんでください。

 

私たちの魂は、私たちの心の耳は、聞くでしょうか。見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。という、この尊い言葉を、あの盲人のように、私たちも聞くことができるでしょうか。

 

聞こえません。あなたの信仰があなたを救った。とは聞こえません。

そうではなく、あなたのことは、わたしが救った。わたしが命をかけて、父に向かって叫んで、わたしがあなたを救った。という、救い主の声がいまは聞こえるのです。

 

これを信じるかと、主は言われる。

「主よ、信じます。あなたの愛を信じます。」

天に向かう魂の叫びを、ごいっしょに主のもとに届けようではありませんか。

 

 

                               2010228日 礼拝において