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ルカによる福音書1319

 

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

 

そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

     『いっしょに悔い改めよう』 

 

初めにうたいました教会讃美歌64番は、その歌詞に「十字架」「十字架」と繰り返されます。この歌のテーマが、私たちを救う主イエスの十字架であることが分かります。

また、二番目の346番は、「主の愛」「主の愛」と繰り返されます。主の愛が私たちを支える。主の愛があれば、いや、主の愛があるから、私たちは生きていける。しっかり立っていられる。たとえ、この世で何があっても、主の愛があるから大丈夫。と歌っています。

 

「主われを愛す」の歌もそうです。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」

教会学校でもよく歌われてきたあの歌。わたしが神学校におりました頃、教鞭をとっておられた石居正巳先生が、あの歌の歌詞はもっとも短い、しかしもっとも端的に言い表された神学と教えてくださったのを思い出します。神学書を読むと、どれも分厚くて、難しいものが多いのですが、あの歌の歌詞に十分、神学がある。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。」わたしが弱くても、主が強いから、恐れることはない。これだけでよいのです。私たちの信仰は、そこに立っていれば、大丈夫なのであります。

 

さて、今日歌っている讃美歌は、歌詞を見れば、そこに込められたテーマが何か、一目瞭然です。では、今日与えられた聖書の個所のテーマはどこにあったでしょうか。

ルカ福音書13章のみ言葉。短いところでしたが、ふたつに分かれています。新共同訳でも、ふたつの段落に分かれています。

 

前半のテーマは、悔い改めと見てよいと思います。前半の段落は、悔い改め。これを主イエスが呼びかけておられます。

後半のテーマは何でしょうか。これは難しい。後半のたとえ話。ぶどう園に植えられたいちじくの木、そしてこれをめぐる主人園丁のやり取り。後半のテーマは、何か。ひとことで言えと言われると、難しい気がします。

これは、じっくり考えましょう。前半の話を振り返りながら、少しずつ後半のテーマを考えて行きましょう。

 

前半の話から振り返って行きます。群衆にいろいろな話をしておられたイエスのところに何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを告げたとあります。読んだだけではよくわからないところですが、おそらく何か事件がありました。それもいまならさしずめ三面記事のトップに載るような、悲惨な殺害事件が起こったようです。

 

いけにえという言葉から、これはガリラヤに住む敬虔なユダヤ人たちが神殿にお参りに来た時のことです。彼らは、お参りをするとき、いけにえをささげました。具体的に言えば、羊とか鳩とか、そういう動物をささげます。今の私たちからすると少々残酷な感じもしますが、そういう動物たちを殺してその血をささげる。

 

それは、どういう意味かと言えば、神様の前にわたしは罪を犯しました、おゆるし下さい、という思いを携えてくる。そこで、罪を犯した自分自身がその償いのために死をもって報いねばならないのですが、そんなふうにすると、みんな死なねばならなくなります。人間はみな罪びとですから。悪いことをしますから。

 

いや、わたしは人から後ろ指さされるようなことはしていませんよ、と言う人がいるかもしれない。

でも、心の中で何を考えているか、と見る。神様は、何をしたかではなくて、その心の中に何があるか、をご覧になられます。欲望がある。傲慢がある。自己中心がある。憎しみがある。疑いがある。神をも畏れぬ心がある。

振り返れば、尽きることがありません。それらを抱えて、神殿にお参りする。今の私たちも同じでしょう。彼らはそこで、罪の償いとして、本当はその自分が裁かれねばならないけれど、その代わりに、動物をささげる。そういうお参りをしていました。

 

ところが、その日、事件が起こりました。そのようにしているガリラヤ人の一行をローマの総督ピラトが来て、襲撃した。理由は定かではありませんが、総督ピラトの蛮行が行われた。その結果、動物の血と同じように、ガリラヤ人の血が流され、動物と一緒にいけにえとされた。そういう事件だったようです。

その事件の話が報告された。それを受けて、イエスは、もうひとつの事件の話もされました。

シロアムの塔が倒れて、エルサレムに住む十八人の人たちがその下敷きになって死んだ

これは、なんとなく想像がつきます。今でも、時折そのような悲惨な事故が起こります。何かが倒れた。たとえば、電柱が倒れた。そこで、不運なことにちょうどそこに居合わせた人が下敷きになってしまったと。そういう事故です。

 

そういった事件、事故を聞きながら、彼らの心に、もたげたものがありました。

その人たちは、何か悪いことをしていたから、神に呪われるような何かがあったから、天罰が下ったのであろう、と。

これも、また、当時のユダヤ人でなくても、共感できる感情ではないでしょうか。そこまではっきり思わなくても、似たような思いを抱くことは、古今東西あります。

 

そして、その気持ちの裏側にはもうひとつの気持ちの動きがあります。それは、ならば、今、ここで元気に生きている自分は、だから、裁かれてはいない、わたしは大丈夫、神様に呪われてはいない者という思いです。

 

イエスさまは、どうやらそこに切り込んでおられます。三面記事に載るような事件、事故を振り返り、そこに神の裁きを見るというなら、もっと本質的なところで言えば、あなたがただって同じだ、悔い改めなければ、神の裁きを身に受けることになる、滅びの宣告を受けると、たいへん強い口調でお語りになっておられます。

 

前半の話は、明らかにこの悔い改めが主題です。イエス様は、これを叫んでおられます。

かつて、洗礼者ヨハネが荒れ野に現われて、悔い改めよ、天の国は近づいた、と叫んだように、今、イエス様は、人々に向かって、あなたがたも悔い改めよ、と叫んでおられる。

 

さて、では、悔い改めとは何でしょうか。言葉から受ける印象としては、いままでの愚かな歩みを反省して、今日からはまっとうな生き方をする、そういった響きがあります。

 

でも、聖書においては、ちょっと違います。

これは、しばしば向きを変えること、方向転換すること、と説明されます。言ってみれば、皆さんが、どこかに向かって歩いている。新しくできたお店があっちにあるよ、と聞いて、そこへ向かって歩いている。そうしたら、情報が間違っていて、そのお店は反対方向だった、とわかって、向きを変えて歩きだす。そういうことです。

悔い改めとはそういうふうに、方向を変えること。今、ここにいる自分を、少しだけ手直しして、一部改善する、ということではなくて、根底からひっくり返す。百八十度向きを変える。そういうことを、悔い改めると言います。

 

ではどっち向きからどっち向きに変えるのか。

それは、主の愛のほうです。さきほどの二番目のうた、346番の歌詞にある、主の愛のほうにからだを向けるということであります。

私たちの犯す大きな間違いは、この主の愛を勝ち取るために、自分が一生懸命いい人になる、がんばる、よいことを行う、というもの。その結果、主の愛を戴く、という向き。

そうではなく、私たちがどうであれ、主の愛がもう差し出された。わたしは弱くても、主は強いから、何も恐れることはありません、あの強い主が、われを愛す、だから、恐れはありません、という福音。それを届けられた。もう救われた。あとは、その愛を受けた者として、ふさわしい生き方へと送り出されていく。導きを祈りつつ、です。

ここに、決定的な向きの違いがあります。

 

先ほど洗礼者ヨハネの話をしました。彼は、悔い改めよ、天の国は近づいた、と言いました。それは、気をつけないといけない・・・何か。

悔い改めよ、そうすれば、天の国は近づくよ、ではないということ。そうではなく、天の国はもう近付いた、だから、悔い改めよ、なのです。

そしていまや、近づいた、ではありません。救いは成し遂げられた、であります。

私たちは、もう救われた者。分かりやすく言えば、もう天国行きの切符を配られたのです。それを与えられたのです。

だから、あとは、そちらにこの体を向けて、生きていけばよい。これが悔い改めです。

 

では、差し出された天国とは何かということが、後半のたとえ話に込められていました。

実のならないいちじく。これは何のたとえでしょうか。このいちじくが、私たちのことをたとえているとみて、よいでしょう。そのいちじくを、主人はどう扱われるのか。

主人は、三年待ちました。実のならないいちじくを、三年待ちました。

これはぶどう園に植えられたいちじくとあります。そこはぶどう園です。これはユダヤ人の農法だったようですが、いちじくだけの農園というのはなくて、ぶどう園や、オリーブ園の中にいちじくを植える。脇に植えておく。土地を遊ばせないためのようです。たとえの中でも、なぜ、土地をふさがせおくのか。という主人のセリフがあるとおりです。

 

そのようないちじくであればこそ、実がなるかどうか、答えはいそがれたようです。一年たって実がならないなら、もう切って他の木を植えるのが通常だったようです。土地を遊ばせないために。

そこへ来て、主人は三年待っている。おそらく、当時の農法を知っている人々は、このイエスのたとえを聞きながら、その時点で、こっけいな話だと思っていたことでしょう。

 

かてて加えて、その園丁が、さらに申し出る。もう一年待って下さいと。しかも、脇に植えているだけのいちじくのために肥やしをやるために、周りを掘ると。そうすれば、来年は実がなるかもしれませんと。この展開を聞きながら、聴衆は、三年も実がならないいちじくに何をやっても無駄だ、と思っていたかもしれない。

 

この後半のたとえ話に込められているテーマは、ずばり、主の愛、いつまでも私たちが立ち帰るのを待ち続けてくださる主の愛です。あるいは、その主の愛を裏付ける、主の忍耐と言ってもよろしいでしょう。

 

さきほど、悔い改めは、方向を変えることと申し上げました。

ある説教者の文章を読んでおりましたら、私たちが方向を変える前に、まず神さまが方向を変えてくださった、神さまが、完全に私たちのほうに体の向きを定めてくださった、それをみて、私たちが方向を変えさせられるのだ、とありました。

わたしは、ある種の説得力を感じて、その文章を読みました。

 

悔い改めよ、方向を変えよ、とおっしゃりながら、いつもその方向をこちらに向けてくださったのは、主ご自身でした。今も、変わらずに、です。

そのイエス様が言われる悔い改めよの言葉は、だからこそ、いっしょに悔い改めよう、わたしはもう向きを定めた、いつまでもあなたを待つ、という向きに定めた。さあ、いっしょに方向を定めよう、迷いのない方向へ。神の愛によって生きるという方向へ、いっしょに歩もう、と招いてくださっている言葉として、響いているのです。

 

私たちが弱くても、決して絶えることのない主の愛が私たちをとらえています。

今、落ち込んでいるあなたがいても、今、疑いの心があるあなたがそこにいても、主は、周りを掘って、肥やしをやってみよう、と言いながら、私たちを支えておられます。

 

私たちが主を信じる前に、主が私たちを信じておられるのです。待っているよと。

忍耐をもって導いてくださる主を信じて、この主に力強い導きあるようにと祈りつつ、歩んで行きましょう。

 

                                  201037日 礼拝にて

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