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ルカによる福音書151132

 

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは、全部おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 


『父の愛』  

 

本日のルカによる福音書15章は、いちどお読みになれば、たいへんおもしろいし、その筋はすぐに理解されることでしょう。

また、それぞれの胸のうちで、感じさせられるものがあることと思います。

 

説教者の立場でありながら、あれこれ言わないで、各自でじっくり味わってください、と申し上げた方がよいのではと思えるところがあるほどです。

しかし同時に、この個所は、私たち牧師にとって、何回でも、何十回でも続けて説教したい気持ちにさせられる個所でもあります。

「ここにスポットを当てて説教したい」と思えるようなテーマが、この物語には満載です。どの一節をとっても、どの出来事をとっても、その一点、一点からひとつひとつ説教を作りたくなるような、そういう宝の宝庫でもあります。

 

たとえば、考えたいひとつは、放蕩息子が回心する場面。彼は、はたと我に返って、言いました。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

 

彼は、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。と言いました。そして、これはひとりごととして言っただけではなく、いよいよお父さんの前に出向いたときにも、その通り、同じセリフをきちんと言っております。

彼は、罪を犯しましたと言いました。何をしたのでしょうか。彼が言うとは何なのでしょうか。

 

同じような疑問が浮かぶ場面が聖書にあります。シモン・ペトロがイエス・キリストに舟の上でお声をかけられたとき、言われるがままに網を打ってみたら、大量の魚がかかった。そのとき、彼はイエスにこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」

 

何もしていません。ペトロは何もしていない。どこにでもいる善良なる一市民。普通の、ひとりの漁師さん。前科者でもないし、ひとから後ろ指さされる何かがあるわけではない。でも、主イエスの前にあって、彼は、「離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。その罪とは何なのでしょうか。

 

 

今日の放蕩息子の、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。につながるものがあると思えます。

 

きょうの放蕩息子のたとえ話を読む限り、彼が犯したは、たとえば、お父さんからもらった財産を無駄遣いしたことです。これは、申し訳の立たないことです。そのお金を使って、一生懸命事業をやろうとして、その結果、失敗してしまった、というのとはわけが違います。遊びに遣ってしまいました。

 

お父さんがこつこつためてきたお金、お父さんだけではありません。出だしのところで、受け取ったもの全部を金に換えて、とありますから、それは、もともとお金ではないものでした。土地であったり、何か貴重な品々であったり、先祖伝来の骨とう品などもあったかもしれない。思い出のいっぱい詰まったものもあったことでしょう。それらを全部金に換えた

 

何か似たような話が、さいきん週刊誌のネタになっているようですが、先祖伝来の財産を、金に換えてしまい、それを無駄遣いしてしまった、ということ。

確かにこれは、彼が言うひとつのかもしれない。失ってしまって、はじめて、自分の犯したことの罪深さを思うことでしょう。

 

でも、どうも、それだけのこととは思えません。

彼が、我に返って、気づいた罪の問題。しかも、お父さんだけでなく、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。と言った罪の問題。

 

このを考えるにあたっては、後半の話にも、ヒントが潜んでいます。この次男坊にスポットが当てられがちで、後半に出てくるお兄さんに対しては、同情の声も上がったりするのですが、聖書の語るの問題は、このお兄さんにも当てはまっています。

 

弟は、遠い異国の地で、失われた人になりました。それはとてもわかりやすい話です。今でも、どこでも起こりそうな話のような気もします。

でも、お兄さんは、どうだったでしょうか。お兄さんは、失われていなかったでしょうか。迷子になっていなかったでしょうか。お兄さんは、何の不満もなく、平穏で、幸せな日々を送っていたのでしょうか。弟が、食べるものもなく苦しんでいる間、お兄さんのほうは、何の心配も、不安も、不満もない生活だったのでしょうか。

 

後半の話を読んでみると、お兄さんの中にも、が潜んでいるようです。満たされないものがあったようです。聖書が捕えるの問題です。

 

ということを考えるときに、たとえば、反対を考えることもできます。すなわち、正しさを考えてみる。

の対義語が正しさというわけではありませんが、対局的なものと言えましょう。

は過ちであり、間違った方向へ進むことであるとすれば、その反対は、正しい方向、進むべき方向へ進むことです。

 

私たちは、通常、正しいこととは何だと思っているでしょうか。

今日のたとえ話で言えば、少なくともお兄さんは、正しく生きていた、となるでしょう。世間では。特に、彼がお父さんに訴えたセリフに鮮明に現われています。このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。

 

言いつけに背いたことは一度もありません。

ひとつの教えがある。ひとつの決まりがある。それに従うことが、正しさです。とてもわかりやすい基準ではないでしょうか。

 

お父さんからの言いつけがあるのでしょう。具体的に何かは知りません。お兄さんは、畑で仕事をしているようですから、毎週、何曜日から何曜日は、お前とお前が、畑に出て行って、何々の仕事をしなさい。何時から何時までは、この仕事をしなさい、などと仕事上の言いつけがあったことでしょう。わたしもいち時期、デンマーク牧場に出て行って、酪農作業をいっしょにやりました。餌をやる仕事、餌を調合する仕事、草を刈る仕事、鶏小屋の卵をとって来て、きれいに拭いて、パックに入れる仕事、牛舎の掃除をする仕事、などなど。いろいろありました。

また、仕事を離れた生活の部分でも、これはしてはいけない、こういうときはこうしなさい、といった言いつけもあったことでしょう。

 

その言いつけに従って、その言いつけを守って生きていくこと、これは、正しい生活と呼ぶことができます。

 

兄と弟は、それぞれ全く違う形でしたが、を犯していたようです。兄のほうは、を犯していたと言われたら、なにを!と怒るかもしれません。けれども、おそらくそうなのです。

なぜなら、聖書は、言いつけに従うことを正しさとは考えていないからです。また、反対に、どこかで悪い行いを繰り返すことを、と考えているわけではないからです。

では何か。

 

聖書の言うは、お父さんから離れることを言います。

もちろんここで言うお父さんとは、父なる神さまのことです。

神様から離れること。それがです。

だから、毎日、よいことを行って、ノーベル平和賞をもらうほどであっても、その心が神様から離れているのなら、それはの生活です。

 

お兄さんは、そこにありました。言いつけには従うけれども、規律正しい生活を送るけれども、お父さんの心を受け止めてはいませんでした。

 

弟は、本当にすっかりお父さんから離れたところで生活しました。それを望みました。あなたと一緒にいることより別なところに幸いがありますと言って、出て行きました。

言葉を変えると、お父さんがいなくても、十分やっていけますと考えました。

それが、です。もっとも重いです。

 

弟は、財産さえあれば、と思いました。お父さんと一緒に暮らさなくても、自分の生活を支えるお金があれば、と思いました。

 

兄はどうだったでしょう。兄は、言いつけに従っていれば、と考えました。いや、もっと言えば、言いつけに従える自分がここにいれば、と考えました。正しく生きる自分がここにいるから、大丈夫と思っていました。

 

でも、ふたりとも間違っていました。ふたりとも、父なる神の赦しの中に置かれていて、初めて生きていけるのですから。

 

私たちも皆そうです。

きょうは、ひとりの若い姉妹が洗礼を受けます。神様と一緒に生きて行きます、という思いを携えて、ここで洗礼を受けます。

 

この世の中を生きて行くときに、何が自分を支えるか。それは、神様と一緒にいること、いや、神さまがいっしょにいてくださることです。

 

このお父さんが、いつも、かわいい子どもたちのことを心配してくださっている、ということ。父の愛、父なる神さまの愛、それが、必要です。それがなければ、私たちは、さまようのです。

 

きょう、ひとりの姉妹の洗礼式を行う。天では喜びがあります。踊りがあります。宴会が起こります。このたとえ話では、弟が帰って来たとき、すぐに、肥えた子牛を屠って食べました。大パーティが行われました。

 

同じように、きょう、ひとりの姉妹が洗礼を受けるとき、天では、喜びの宴が始まる。

なぜなら、さまよっていたひとりの子供が、お父さんのところに帰るからです。これからは、お父さんと一緒にいる生活をしますということを表明するからです。

 

洗礼を受けたら、偉くなるのではありません。正しい生活が始まるのでもありません。

洗礼式の問答では、最後、「あなたは、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯を送りますか。」と尋ねます。

それに対して、「はい、神の助けによって」と答える。

「一生懸命頑張ります」、「必ずやり遂げてみせます」ではなくて、神と共に生きる生活も、「神の助けによって送らせていただきます」と言う。

 

それが正しさです。

わたしの正しさではなく、わたしの強さではなく、世の中のどの力によるのでもなく、ただ、父なる神さまの大きさ、豊かさ、愛の大きさ、この全能にして、父なるお方のもとで、ゆるされて生きて行く。それこそが、真の正しさであります。

 

この憐れみ深い父は、放蕩を続けた二男にも、傲慢な気持ちを抱いていた長男にも、大きく手を広げてくださいました。

私たちも、時に、大きく離れて行く弟のようであり、また時に近くにいながら、心が離れている兄のようでもあります。

 

でも、どのようであっても、私たちは、神さまの子供です。

これは永遠に変わりません。

 

私たちも皆、神さまの子供です。神様の畑で働かせていただく恵み、いつも主が共におられますという約束を知っている喜びがあります。

いつも、大切な神の家族と共にこうして過ごせる恵みを感謝して、ご一緒に祈りましょう。

 

                                      2010314 礼拝にて

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